「おはよう!」

 朝から元気に挨拶をした名前は金城のとなりに座り、その横に座っていた荒北にも挨拶をした。大学生の一日は長いようで短い。昨日もレポートで睡眠時間が短いのに元気な名前を見て金城は目を細めた。

「おはよう。なにかいいことでもあったか?」
「うん。昨日ね、巻島くんと電話もメールもしなくて十日たったの」
「それのどこがいいことなンだよ」
「一度体験してみたかったんだ。顔も見ていない声も聞いていない、切ない恋ってのを」

 名前はどう見ても切ない恋に悩む乙女の顔ではなかったが、金城も荒北もなにも言わない。金城は三年の高校生活で、荒北は大学に入学してからの短い期間で名前の性格を把握しつつあった。
 名前はルーズリーフを広げてペンケースを出し、バッグから小さな包みを取り出した。頑丈なケースを茶色い紙でやや乱雑に包んだそれを見て、荒北が片眉をあげる。どうもただの荷物じゃなさそうだ。

「これ、昨日巻島くんから届いたの」
「開けてねェの?」
「レポート忙しかったし、ひとりで開けるのがなんとなくこわかったから」
「いま開けるか?」
「ううん、お昼休みに開けるからふたりともそばにいて」

 ときおり垣間見える名前の少女のような恥じらいを感じながら、ふたりは頷いて時計を見た。
 まだ朝だ。正確には一限目が始まってすらない。それなのに昼休みまで待てというのか。名前以上に中身が気になりながらも名前の意思を尊重したふたりは、昼休みまでもんもんとした時間をすごした。
 ようやく午前の講義が終わりそれぞれ定食を頼んで食べるころになっても、名前は包みを開けるどころかバッグから出そうともしない。もしやふたりはすでに冷めてしまった仲で別れの手紙でも入っているんじゃないだろうかと心配するふたりをよそに、名前は綺麗にカツカレーを完食した。
 三人で食器をさげて購買でお菓子を買ってまた席に座り、ようやく包みを出した名前はどことなく緊張しているように見えた。

「これ開けるから、もし鳩とか出てきたらつかまえてね。金城くんマジック得意だよね」
「マジックが得意なだけで鳩をつかまえるのは得意なわけではないが、善処しよう」
「なンで鳩が出てくんだよ」

 荒北のツッコミは無視され、名前の手が包みを開けていく。紙から取り出した箱は頑丈な金属で出来ていて、小さな鍵が紐でぶらさがっていた。うまく動かない指で鍵をあけた名前は、そのなかに入っているものを見て動きを止めた。
 名前は魂の奥底からあふれだした感情を目にため、ふるえる指で箱の中に入っていたケースを取り出した。透明な小さなケースのなかには真綿が敷き詰められ、その中心にまるで宝石のように、ちいさな花が顔を覗かせる草で編まれた指輪がおさまっていた。
 白く小さな花のあいだから、不器用に編まれた茎が垣間見える。プリザーブドフラワーにされたそれをゆっくりと、壊さないように取り出した名前は嬉しさでふるえる手を動かして迷いなく左手の薬指にはめた。金城が携帯をかまえる。

「……きれい」

 いつもどおりの学食が、そこだけ光り輝いているように見えた。
 窓から入る光に左手をかざして細めた名前の目から、涙が一筋こぼれ落ちる。それはこの世の綺麗なものをすべて詰め込んだような涙で、まるで透明な宝石のように見えた。

「巻島くん、覚えててくれたんだ……」

 遠い夏の日、まだ色褪せぬインターハイへの思いを描き、久々の休みをすごした日。一緒に見た映画に出てくる、綺麗な野原でつんだ花で編んだ指輪。いつかあの映画のように指輪を渡して将来を誓いあえたらと、幼く、けれど本気で思った日。
 名前はまるであの日に戻ったように指輪を見つめた。かたむいてまだ赤くなるには早い夕日が大きな窓から階段を照らし出し、リビングからは紅茶の香りが漂ってくる。自分より先に階段をおりた恋人が、落ちたり階段を踏み外したりしないか心配しながら手を差し伸べてきている。手をつないだままお邪魔したリビング。思ったよりかたいくちびる。
 薬指より大きい指輪がずれたのをなおし、名前は笑った。心のすみでいまも巻島とつながっていることを再確認した顔は晴れ晴れとしている。
 名前の笑顔を確認した金城は、満足そうに笑ってケータイをいじった。ぬかりない男・金城真護は、これぞ巻島が見るべき光景だとムービーを撮っていたのだが、想像以上にいいものがとれた。金城の携帯には、名前が指輪を薬指にはめるところからばっちりと撮れている。横で荒北がどういう顔をすればいいのかわからないでいるのを知りながら放置し、巻島にムービーつきのメールを送った。

 そのころ巻島のいるイギリスは、時差で午前3時半だった。当然いつもの巻島なら寝ている時間だが、名前へ荷物を送っても音沙汰がなく、また指輪にかかりきりになってためていた兄の仕事の手伝いを終わらせるべく奮闘していた。
 いくら名前のことが気になって眠れないからとはいえベッドに横になろうとした巻島が最後にチェックしたメールは、金城が送ってきたものだった。送付された動画をクリックして、すこしばかり画像が荒いながらも名前がしっかりばっちり映っているのを見て、慌てて電話をかけはじめた。後ろでは二回目の動画が再生されている。まだ数秒しか呼び出していないのにイライラと床を爪先で叩く巻島の耳に、待ち望んだ声がようやく聞こえてきた。

「っ名前!」
「巻島くん? あのね、いま」
「結婚するッショ!」
「え?」
「卒業したらすぐ!」

 勢いに任せて言ったのはいいものの名前からの反応はなく、ようやく感情のまま突っ走ってしまったことに気付いた巻島から血の気が引いていく。
 そんなことが遠く離れた日本にいる名前が気付くわけもなく、感動で目をうるませたまま何度も頷いた。頷いても巻島には伝わらないと気付いたのはたっぷり20秒は経ったあとだった。

「ごめん、必死に頷いてたんだけど、巻島くんには伝わらなかったね」
「え……っつーことは……」
「ありがとう。すごく嬉しい」

 珍しく巻島がガッツポーズをしたが、それに気付く者はいない。もしそこに巻島の兄がいたのなら激写していただろう。
 そのまま若さと勢いに任せていろいろ話した名前と巻島は、昼休みが終わってしまうことに気付いて名残惜しく思いながら電話をきった。寂しく切なくはあるが、今夜巻島とまた電話をする約束をしたのだ。悲しんでばかりもいられない。

「これで、あと10年は待てそう」

 晴れやかに言う名前の顔は輝いている。一方の巻島も嬉しさでゆるんだ顔をしながら「これであと5年は我慢できるショ」と言っていることを想像しているのは、ふたりと付き合いの長い金城だけである。
 この5年の差がふたりのズレているところであり、名前ではなく巻島から行動するシンプルで唯一の理由なのだが、それに気付いているのもまた金城だけだ。巻島が行動するときが楽しみだと、金城はゆっくりと食後のお茶をすする。
 そしてひとり置いてきぼりな荒北は、巻島と名前の電話の内容がイマイチつかめず、満足そうなふたりに囲まれてベプシを飲むしかないのだが、荒北がふたりの結婚式の余興をすることを予測しているのもまた金城だけなのであった。


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