目の前でファンクラブまである先輩に頭を下げられて、名前は困惑しながら首を振った。教室に真波がいればこの話は済んだのだが、あいにく真波は遅刻しないように気をつけて登校するような性格ではなかった。

「わたしが言うより東堂さんが言ったほうが部活に出ると思いますけど……」
「そんなことはない。明日の朝練はインターハイに向けての大事なミーティングで、今度の練習メニューに関わると何度言っても真波は上の空で、しまいには起こしてくださいとまで言われたんだぞ? 電話をしても電池が切れているというのにだ!」

 起こしたことあるんだ、という名前の視線には気付かず、東堂はもう一度頼み込む。朝練のうちにミーティングをすませておけばそのつもりで午後からの部活に挑めるし、少しでも長く練習できる。
 名前は先輩の頼みということもあり、しぶしぶ引き受けた。東堂の生写真は断ってから。

 東堂が教室から出て行った数分後、珍しく遅刻せずにやってきた真波は、名前の心境を知るはずもなくのんきに挨拶をした。
 名前は、東堂からのお願いを伝えても真波が朝練に行くとは思えなかった。頼まれたのに何もできなかったことを謝らなければいけないと考えるといまから胃が痛むようだったが、引き受けたからには伝えなければならない。

「おはよう、真波くん。さっき東堂さんが来て、明日の朝練は大事なミーティングがあるから絶対に来るようにって」
「えー? 朝は山を登りたいんだけどなあ」
「インターハイに向けてのミーティングって言ってたから、終わったら山登りのメニューが増えてるんじゃない?」
「行く!」

 とたんに顔を輝かせ上機嫌になった真波にひとまず安心して自分の席に戻ろうとする名前に、背後から声をかけられる。天気のいい日に格好の山を見つけたような、はずんだ声。

「名字さん、今日一緒に部活に来てよ。そしたら明日の朝練、きちんと行くから」
「え……なんで?」
「今日は平坦の練習がメインらしくてさ、行く気があんまりないっていうか……でも行かなくちゃメンバーから外されちゃうし、名字さんがいれば部活に行くのも楽しくなるから」
「そっか、わたしは行かないから頑張ってね」
「いいじゃん行こうよ、ねえー! オレ、明日の朝練頑張る! 頑張るからさ!」

 それなら今日の部活も頑張ってほしかったが、駄々をこねる真波を相手するよりも部活へ送り届けたほうが早い。そう判断した名前は頷いて、さっさと自分の席へと戻った。真波があくびをして窓の外を見る。
 そうしてふたりはいつものように、まるで会話などしたことがないような距離へと戻った。

・・・

 放課後、真波と連れ立って部室へと向かう名前の心は重かった。真波は顔がよく憎めない性格なだけあって、廊下を歩いたり笑うだけで、必ずといっていいほど視線が集まる。
 なぜ横に名前が、という視線が突き刺さって、うまく歩けているかさえ自信がない。部室近くまで行くとようやくその視線がやわらいで、今度は「真波係が真波を連れてきた」というものに変わる。どっちにしろいたたまれないが、廊下で「どうして真波くんと名字さんが一緒に歩いてるの?」という質問をされるよりはよっぽどマシだった。真波が「オレ、名字さんのこと好きだから」と答えたあの日のことは思い出したくもない。

 名前が思い出に震えているあいだに部室へとつき、ようやく役目が終わったと息を吐きだしたとき、うしろから聞き覚えのある声がした。滑舌がよくテンションが高い声は、今朝も聞いたような気がする。

「おお、名字さんではないか! 明日だけでなく、今日も真波を連れてきてくれたのだな! 感謝する!」

 おそるおそる振り返った名前の目に、東堂と荒北、新開と福富が映って咄嗟に目を閉じたくなる。
 なんとか長めの瞬きにおさえて挨拶をすると、福富からも真波を連れてきた礼を言われた。ふたつ年上なだけとは思えない威圧に頭を下げ、そそくさと帰ろうとする名前に新開が声をかける。
 新開は、噂だけはよく聞いている名前と話すのは初めてで興味があった。あの真波が恋する相手。どんな子だろう。

「名字さん、だっけ。今週の日曜は部活が休みなんだが、真波とデートでもしてきたらどうだ?」

 名前の足がもつれた。転びそうになりながらなんとか立ち直って振り返る。真波がピンクとつぶやいた声は聞こえなかったようだ。

「無理です」
「無理じゃないよ、どこかに出かけようよ!」
「真波くんと行きたい場所が合わないと思うけど」
「名字さんはどこに行きたいの?」
「緑が綺麗になってきたから、どこかに絵を描きにいきたいかな」
「オレ、山登りたいから一緒の場所になるよ」
「山の風景はこのあいだ描いたから、今度は河川敷とか野原とか、なだらかな場所を描きたいんだ。川と紫陽花はオーソドックスな組み合わせだけど素敵だし、夕暮れが湖に沈み込むところなんてため息が出るほど綺麗なんだよ」

 名前が思い描く光景は山の頂から見るものではなく、真波が追い求めているのは頂上の静けさと清涼な空気だ。
 数秒考え込んだ真波は、いい案が思いついたと名前に詰め寄った。近い距離に名前が二歩下がる。

「じゃあ、オレは山を登って、名字さんは絵を描く場所を探すっていうのはどう?」
「あ、それはいいね」
「一緒の時間に家を出ようよ! オレは自転車で山に、名字さんは電車で好きな風景を探しに」

 待ち合わせはしないのか、と黙って話を聞いていた福富が疑問に思った。だが口にはしないため、ふたりの予定は次々と決まっていく。

「オレ、おにぎり持っていくよ」
「わたしはサンドイッチにしようかな。いい景色のところで食べたら格別に美味しいよね」
「そうそう、空気が澄んでいて静かで、木がおしゃべりしててさ!」

 一緒にお昼は食べないのか、と新開は驚いた。家を出る時間が同じなだけで、ここまで二人は会ってすらいない。

「各自お昼を食べたら、都合のいいところで家に帰ろっか。真波くんはあんまり遅くならないようにね」
「うん! きっと楽しいだろうなあ。出来上がったら、どんな絵か見せてね」

 結局出会わずに一日が終わんのかヨ、と荒北は心のなかでつっこんだ。それをデートとは言わないし、ただ別々に休日を楽しんだだけだ。

「真波、お前……」

 東堂は頭を抱えて重く長いため息をついた。この天然な後輩になにを言えばいいか、もはやわからない。

「新開さん、真波くんとデートしてきます。これでいいですよね、それじゃあ部活頑張ってください」

 社交辞令な応援に、福富が律儀に返事をする。この場所に未練などない名前は、荒北が思っているよりはやく歩いていく。このメンツで固まっていればお近づきになりたいと誰かが擦り寄ってくるのもよくあることなのに、名前は正反対で一刻も早くこの場所から去りたいとばかりに早足だ。

「やっぱ天然チャンの恋人は天然チャンだな」
「やだなあ荒北さん、オレと名字さんは恋人じゃないですよ」

 思わず全員の口が開く。真波本人がまだ恋心に気付いていなかったころに恋の相談をしてきて、告白して手を握って、今だって部活までの少しの時間を逢瀬に当てていたと思ったのに違うのか。

「告白してすっきりして終わっちゃいましたー。そういえば返事聞いてなかったなあ。告白したとき名字さんは驚いてたけど、風が吹いてふたりともくしゃみしちゃって、寒いから帰ろうって言われて風邪ひきそうだったから急いで帰ったんですよ」

 東堂が沈み込んだ。てっきり恋人だと思って名前に無茶なお願いをしてしまったことを思い出す。あとで謝らなければならない。

「まあ、なんとかなりますって」

 そう言って本当になんとかしてしまうのが真波で、新開は心の中で名前を応援した。この一筋縄じゃいかない後輩を恋人にすると大変そうだが、この役は名前しか出来そうにない。
 いつのまにか校内でも真波の恋人扱いをされつつあることを知らず、名前は今日も好奇の視線に耐えるのだった。


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