呼んでいる人がいると後輩に言われて部室の外へと出た福富の目に映ったのは、彼女である名前の姿だった。あたたかい室内で汗をかいた体が、冷たい外気にふれて冷やされていく。すこし待つように言った福富はジャージをとってきて羽織り、名前と一緒にすこし離れた場所へと移動した。
 季節は冬。部活も福富たちの代は終わり、泉田が主将として部活を仕切るのも板についてきた。福富は受験を控えていたが、自転車に乗らないと調子が出ないため、ときおり部室を使っていた。厚手のジャージをはおっただけの福富と違い、名前は制服にコートを着込み、マフラーと手袋までしていた。福富を呼ぶ声はマフラーの中でくぐもっている。

「先生からプリント預かってきたの」
「ああ、ありがとう。だがなぜ名字が?」
「ちょうど職員室にいて、福富くんのクラスの先生が話してるの聞こえたから」

 名前と福富は違うクラスなうえ、受験生で頻繁に学校に来ないためなかなか会えない。自分に会うために苦手な寒さのなかここまで来てくれたのかと思うと、福富の胸が熱くなる。嬉しさは顔には出ないが、雰囲気がやわらかくなっていく。福富のすべてを見逃すまいとしていた名前にも伝わり、笑顔がこぼれた。どういたしまして、という声はあたたかい。
 福富は時間を確認し、もし名前に時間があるならばすこし話そうと申し出た。名前が頷く。ここでは部活の邪魔になるだろうと福富が移動したのは、部室からすこし離れた場所だった。植えられた木々にはもう落ち葉もなく、下に生えている草で地面はやわらかい。ベンチなどはないが静かだ。大所帯で専用の部室やトレーニング室が設けられている自転車競技部は校舎から遠く、ほかの部活の活動場所とも離れているため人もいない。ふたりはひとりぶんの距離をはさんで草に腰かけ、無言で下を見た。なにを話していいかわからない。

「……福富くんは勉強、どう?」
「予定通りに進んではいるが、勉強に終わりというものはない。名字はどうだ?」
「まあまあかな」

 名前の大学進学の第三志望と福富の第一志望は同じだが、おそらく一緒に大学に通うことはないとお互い感じていた。名前は推薦で第一志望の大学に受かるつもりだし、福富も狙いをひとつに絞っている。
 胸が締め付けられるのは仕方ないが、それでも名前の感情の大部分がさみしさで埋められていないのは福富の言葉があるからだ。福富はいつもと変わらぬ顔で名前に言ったのだ。

「たとえ違う大学になっても、休みの日に名字の大学まで行こう。そして一日一緒にいる。会えない日は多いが、そのぶん名字を大事にすると誓おう」

 その言葉で名前はまた落ちた。好きな相手にこう言われて落ちない女子がいないはずがない。その言葉を思い出しながら、ふたりは言葉は交わさないもののいつもより近い距離で、ふたりきりの時間を堪能した。
 そんなふたりを見守りつつ困っているのが、東堂、新開、荒北の三人だった。この三人は福富と一緒に体を動かすために部室に来ていたのだが、名字が部室に来るという情報を職員室で聞いた東堂が気を利かせて部室を出た。まさか出た先でふたりと出会うとは思っていなかったが。
 三人が部室、もしくは校舎へ行くためには福富たちの前を通らなければならない。はからずもふたりの会話を聞くことになってしまった三人は、気を紛らわすために小声で会話を始めた。

「それにしてもようやくふたりがくっついたな」
「うまくいってよかったな。寿一も長いこと名字さんが好きだったみたいだし」
「寒ィ」

 感想はそれぞれ違ったが、ふたりを応援する気持ちは変わらない。
 思えばふたりの道のりは長かった。福富が名前を意識しはじめたのがいつかは本人しか知らないが、少なくとも二年の夏には好きだったことは確かだ。二年の二学期がはじまった直後、名前と福富ははじめて会話をした。廊下に併設されている手洗い場で手を洗った福富がハンカチを落とし、それを踏んづけた名前が転んだのである。黒だったと後の福富は語る。
 目の前で想い人が転んだと驚いている場合ではない。福富は急いで名前を助け起こし、さりげなく手をにぎったことに胸を高鳴らせていた。腰をさすって「恥ずかしい」と言いながら起き上がった名前は、福富の手をにぎったままお礼を言った。

「あ、ありがとう。お見苦しいところをお見せしました……」
「いや、転んだのはオレのハンカチが原因だ。すまない」
「あっごめん、ハンカチ汚しちゃった!」
「オレが落としたせいだ。気にするな」

 福富の思考は半分が名前との会話、半分がまだふれたままの手で占められている。名前はまだ福富の手に手を重ねていることに気付かず、踏んでしまったハンカチばかり気にしているようだ。

「ごめんね、明日洗って返すから。えと、クラスは……」
「名字のとなりのクラスだ」

 名前の手が離れていく。自分の手の代わりに名前の手におさまったハンカチを名残惜しく見ながら、福富はいつもの顔で頷いた。本当にハンカチを踏んだことは気にしなくていいし洗わなくてもいいのだが、それによって名前とまた話す機会が与えられるならば拒否する理由はなかった。
 謝りながら去っていった名前を自然と目で追う福富のまわりにいたいつもの三人は、これが恋だと理解した。東堂いわく自分のファンのごとく目に熱が宿り、新開いわく非常に嬉しそうな顔をし、荒北いわく恋するニオイがした。
 しかしここで問い詰めるような三人ではない。福富の恋に驚きながらも、まだ名前の背中を見つめる福富の背中を押すことを決意した。なにしろインターハイが終わってまだ一ヶ月程度しかたっていない。福富が一方的に金城を傷つけ責められる立場だったとしても、福富の幸福を願うことが間違っているはずがない。

 翌日のHRが終わり一時間目が始まるまでのあいだ、福富のクラスを訪れた名前は頭を下げてハンカチを差し出した。きれいに洗濯されアイロンまでかけられたそれはいつもと違う香りがして、福富にとって忘れられない香りとなった。汚れが落とせればそれでいいと安売りの洗剤と柔軟剤が一緒になったものを使っている福富とは違い、華やかで嗅ぐだけで舞い上がりそうな香りだった。

「本当にごめんなさい! よく見たけど、汚れとかあったらごめん!」
「構わない」

 なにしろこのハンカチはもう使わずに保管しておく予定だ。

「で、でも」
「オレがハンカチを落としたのが原因だ。名字が気にすることはない」
「……ありがとう」

 名前がうつむいて微笑む。それを目に焼き付けられているとは知らず、名前は思い切って顔をあげた。

「あの、昨日から気になってたんだけど、どうしてわたしの名前とクラス知ってるの? 一緒のクラスになったことあったっけ?」

 純粋な疑問に福富は凍りついた。名前と同じクラスになったことはない。一年のとき同じ委員会で、同じ教室にいただけだ。そこでも話したことはないので、名前の疑問は当たりまえのことだった。
 だが、それでも福富は名前が気になり、目で追い、恋をするまでになったのだ。ここで不自然なことを言って引かれたくはない。

「一年のとき同じ委員会だった。名字は覚えていないだろうが、そのとき隣に座った。同じ委員会で、一学期だけとはいえ仕事をする仲間だ。だから名前を覚えた」
「えっそうだったんだ! わたし全然覚えてなくて……」
「いや、いい」

 名前のクラスを知っていたことをうまくごまかし、福富は名前の謝罪に首を振った。
 名前が福富を見上げる。学校で目立つ金髪なのに制服はいつも乱さずきちんと着こなし、性格も生活態度も真面目な自転車部。これが昨日友達から聞いた福富の情報のすべてだった。金髪の生徒がいることは知っていたが名前までは知らず、いまも馴染むことのない福富という名前を口のなかで転がした。友達が言っていた通り、なにを考えているかわからない顔をしている。

「名字、よければ今度一緒に昼食をとらないか」
「えっ、あ、なんで?」
「東堂に、すこしは女子とふれあうべきだと言われた。オレは親しい女子がいない。名字さえよければオレと話してほしい」

 福富の言葉は真摯だった。東堂がそう言ったのはさりげなく名前との仲を深めようというアシストだが、福富はそれに気付いていない。
 名前は突然の提案に驚きながら、どうするべきか考えた。ここで返事を待たせすぎるのはいけない。べつに嫌なわけではないがいきなりふたりきりは無理だし、断ろうにもハンカチを踏んだこともあり心苦しい。名前の頭は高速で回転して答えをはじき出した。

「うん、わたしでよければ。でもわたしも男子と話すの慣れてないから、友達も一緒にお昼ご飯食べようよ」

 友達と一緒なら心強いし、もし本当に食べることになってもすこしは安心できる。福富は頷き、時計を見て時間を確認してから最後の提案をした。

「ならば、明日はどうだろうか」
「えっ」
「用事があるなら構わない」
「えっいや、いいけど」
「なら明日、昼休みにまた来る」

 そう言ってあいさつをして去ってしまった福富の背中を見送る名前の口はあいていた。まさか本当に誘われるとは思わなかった。しかも明日。けれど行くと返事をしてしまったし、うまく断る理由も思いつかない。名前はこれ以上考えることはやめて友人に相談しようと教室へ入った。その後ろ姿を見つめている福富の目が熱っぽいのは、彼をよく知る人物でないと見抜けないものだった。

 翌日の昼休み、福富は約束したとおり名前の教室を尋ねた。東堂と新開も一緒である。荒北は「オレがいないほうがいいだろ」とさっさと昼食へ行ってしまった。彼なりに気を遣ったのだが、緊張している名前にとってはこれはいい判断だった。
 かくして名前と名前の友人、福富と東堂と新開というメンバーで昼食をとることになった。9月に入ったとはいえまだ暑く、外で昼食を食べている人は少ない。新開お気に入りの、すこし離れた静かな日陰に腰を下ろすと、場を盛り上げるように東堂が話しはじめた。名前の友人と新開がそれに乗る。
 福富と名前はふたりで並んでお弁当の包みを開けた。会話に参加していないふたりは、自分は話さないが東堂たちの会話を聞きながら頷いていた。名前がお弁当に手を伸ばす。

「名字、聞いてほしい話がある」

 福富の真剣な声に顔を上げると、まっすぐ見てくる福富と視線がぶつかった。声色から真剣な話だろうと推測した名前はお箸を置き、続きを促す。

「オレは今年のインターハイで、してはならないことをした。とうてい許されるものではないが、相手は許してくれた。だからオレは来年の夏まで金城のために生き、金城のためにインターハイに出なければならない。オレに物事を楽しむ権利などありはしない。だが、名字とは話したい。たまにでいい。話してはくれないだろうか」

 金城って誰だ、許されないことをしたって何をしたんだ、わたしと話したいってなんだ。
 名前の頭の中が疑問で埋め尽くされるが、福富はそれを説明する気はないようで黙って名前を見ている。福富の友人に助けを求めたかったが、視線を東堂たちに向けずとも凝視されていることが伝わってきて視線をそちらに向けることも出来なかった。
 すごい見てる。三人ともまばたきすらしていないような真剣さでガン見してくる。こんな状況でどう断れというんだと、名前は意味がわからずすこし怯えながら頷いた。

「よくわからないけど、話すのは構わないよ。というか、こんなインパクトあるのに福富くんのこと忘れられないよ」
「そうか」

 自分と話すと言ってくれたこと、名前を呼んでもらったことで福富のまわりに花が飛ぶが、名前とその友人は気付かない。とりあえず昼食を再開しようと名前がお箸に手を伸ばす。その動作すら美しいと、福富は細い指先をじっと見つめていた。

 福富は律儀だった。たまに話すという宣言通り、名前とお昼をともにした日から、時間を決めて話しかけるようになった。毎週月曜、朝のHRが終わり一時間目がはじまるまでのあいだの、たった三分間。どれだけ名前の顔を見ていたくても話が弾んでいようとも、福富は「これ以上は話せない。金城に申し訳が立たない」と言って去ってしまう。
 そのころの名前は福富が金城になにをしていたか東堂から聞いていたので、引き止めることも理由を聞くこともしなかった。福富は、自分がなにをしたのか語りたがらなかったわけではない。名前も自分のしたことを知っているだろうという前提で話していたため、ときおり話が噛み合わないことがあり、それを見かねた東堂が教えたのだ。
 まさかあの福富が、というのが名前の素直な感想だった。そういったことはとてもしそうにない。道に10円が落ちていても交番に届けそうなのに。それだけインターハイという舞台にかけていたのか、はたまた金城という男があまりにも福富と相性が悪かったのか名前にはわからなかったが、わからないからこそなにも言わなかった。自分は当事者ではない。
 そう思っても、無関係を貫けるわけではなかった。なにしろ福富と会えば会釈をし、週に一度は律儀に来る福富と話をするのだ。話をしているとき、たまに部員が通りかかると、無視するのは悪いと一声かけていくのも名前の心を揺さぶった。
 東堂は「おっ、名字さんと話しているのか。よかったなフク!」と手を振るし、新開は「寿一、今日ウサ吉の……おっと悪いな、今日は月曜だったか。名字さん、寿一をよろしく頼むぜ」と意味ありげにウインクしていくし、荒北は「福ちゃんを不幸にしたら許さねェぞコラ」とガンをつけていくしで、名前もどうしても意識してしまう。
 そのうえ、福富と名前が話しているところをクラスメイトにからかわれると、福富が真面目に答えたのだ。

「オレと名前はまだ恋人ではない。まだ、と言ったのは、友人以上の関係に進みたいと思っているからだ」

 それを聞いたまわりは騒いでふたりをはやし立てたが、名前は突然のことに固まるしか出来なかった。福富がどういうつもりで接してくるか、荒北いわくその鉄仮面からはなにも読み取れず気のせいだと思うようにしていたが、こうなると認めるしかなくなる。気付きつつも知らないふりをするという選択肢がなくなった以上、真正面から受け止めて返すしかない。
 名前とは違い福富は動じなかった。福富にとってすべてのことは来年の夏、インターハイが終わったあとから始まる。ちょっとした騒ぎになってそれ以上話すことも出来ないまま別れた福富は、次の休み時間に名前を尋ねた。さすがにあのままではいけないと東堂に諭され、話した時間も三分に満たなかったためだ。

「名字、さきほどは突然あんなことを言ってしまってすまなかった。だが、あれはオレの本心だ。来年のインターハイが終わったあと、名字に告白しようと思っている。できたら受け入れてほしい。これだけ伝えに来た」
「あ……はい」
「では、次の月曜日に」

 福富はいつもどおりに見えたが、去っていく足取りは心なしかおぼつかない。湯気が出そうなほど熱くなった顔を押さえながら、名前は壁に寄りかかった。うまれて初めての告白に、脚が震えて立っていられなかった。

 告白された相手を、いままでと同じように見られるはずがない。名前はその日から前にも増して福富を意識するようになり、年が明けるころには口にはせずともお互いの気持ちを感じ取っていた。インターハイが終わったら。それはふたりの口癖であり、目標でもあった。
 順調に思われたふたりの恋だったが、常勝箱学はインターハイで優勝を逃した。話しかけたり電話できずにいる名前に福富が話しかけたのは、新学期が始まってからだった。このまま自然消滅かと思っていた名前は驚きつつも喜び、福富の呼び出しについていった。ほんのすこしばかり「おまえの気持ちにこたえることは出来ない」という話だったらどうしようと怯える名前の不安を払拭するように、福富は以前と変わらぬ熱を含んだ瞳で頭を下げた。

「遅くなってすまない。インターハイで負けてしまった。だが、名字への気持ちは変わらない。オレでよければ付き合ってくれ」
「……はい。お願いします」

 名前も頭を下げ、ふたりして顔を上げるタイミングをはかりながら相手の顔を確認する。福富の頬はいつもより紅潮しており、名前の顔は熱でも出たのかというほど赤い。そうしてお互いの恋を目に焼き付けたふたりは、照れながら嬉しさで笑った。名前が初めて見た、福富の笑顔だった。

 ふたりはまわりが焦れったくなるほどの期間を両片思いに費やし、ようやく結ばれた。まわりがふたりを見守る視線は優しく、助けが必要ならすぐに手を差し伸べようと決意していた。ふたりは結ばれるまでに時間をかけたぶんだけ、付き合ってからもゆっくり時間をかけた。
 まずはふたりきりに慣れるところから始まり、寮までの短い道のりを一緒に帰り、その次は寄り道をし、話す時間を増やしていった。だから冬になったいまもキスを3度しただけであり、並んで座っているが付き合いはじめたばかりのように距離をとっている。ここでふたりがキスでもしはじめたら、盗み見ていた東堂、新開、荒北は目をつむって上を向くしかないから何もなくてよかったのだが、焦れったいのも確かだった。
 ふたりの手が重なる。寒さのせいだけではなく赤くなった顔を隠すように、名前はマフラーに鼻をうずめた。

「名字。気が早いかもしれないが、ふたりの進路が決まったあと、名字のすべてをもらいたい。いいだろうか」
「……はい」

 こう返事する以外なにが残されているというのだろうか。名前がそんな覚悟はとっくの昔に出来ていたということは知らず、福富はうるさくなる心臓の音が外に漏れないようにつとめた。重なった手がほどけて絡まる。
 そんなふたりを見て、体の冷え切った東堂新開荒北の三人は空を見上げた。ここは寒いなあ……。


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