巻島家の玄関を開けて名前を出迎えたのは母親だった。夏を目前に控えた暑い日、さわやかな色のワンピースを着た名前を笑って歓迎する。
 チャイムを鳴らした名前を庭先の門まで迎えに行った巻島が、名前の横で口を開けて母親を見た。

「なっ何でここにいるっショ!?」
「お客様がいらしたなら出迎えるのが当然でしょう」

 こちらの考えることなどお見通しとばかりに微笑む母親に勝てる息子は、そうはいない。こうならないようにチャイムが鳴ったとき自分が出ると宣言したのに、どういうことだ。
 いま家にいるのは母親と妹である。名前が挨拶をするなら玄関ではなく、靴を脱いでスリッパに履きかえ、リラックスするようにすこし言葉を交わしたあとにしようと思っていたのに、これでは計画が丸つぶれだ。
 巻島はハッとして名前を見た。初めて彼氏の家に行ったら母親が出迎えたなんて、もしかしたら別れ話に発展するかもしれない。
 そんな巻島の心配をよそに、名前は動じず微笑んで母親に挨拶をした。

「はじめまして、巻島くんと同じ部活でマネージャーをしている名字名前です。今日は突然お邪魔してしまってすみません。つまらないものですが」

 名前が差し出したのは暑い日にぴったりのゼリーで、とりあえず百貨店で買っておけば間違いはないだろうという安易な考えに巻島が賛成したものだった。それなりに高く有名なそれを差し出すと、母親は手を合わせて喜んだ。

「ありがとう、嬉しい!」

 このゼリーは母親の好物なのだが、巻島の入れ知恵などはいっさいない。ただ名前の運の良さなのだが、それに気付くものは巻島ただひとりだった。玄関が騒がしいことに気付いて出てきた妹にも挨拶をした名前は、妹の突然の質問に硬直した。

「お兄ちゃんの彼女ですか?」

 彼女。確かに彼女だけども、巻島はそう紹介する気配はない。家族に紹介するなど恥ずかしい年頃だろうし、隠したいのかもしれない。
 そう考えた名前はゆるく首を振って、ただの部活のマネージャーであり、ほかの3年は用事があり打ち合わせに来られなかったと言おうとした。それを制したのは巻島だった。

「名前はオレの彼女っショ。だから変なこと聞くなよ。変なことも吹き込むな」
「ええ、本当にお兄ちゃんの彼女!? お兄ちゃんこんなに変わってて変人で扱いづらいのに!?」

 巻島の眉がよせられくちびるが尖る。すねている時の顔だ。自分のことを棚に上げ変人だと断言する妹に、名前はそんなことはないと両手を振った。

「巻島くんはそこまで変人じゃないし、扱いづらくもないですよ。すごくわかりやすいです」
「わかりやすい……!?」

 衝撃を受ける面々に気付かず、名前はすこし照れつつ続けた。

「それに、巻島くんって昔飼ってたバッタに似てるんです」

 バッタ。その照れて赤らめた顔からどんなノロケが飛び出してくるのかと思いきや、出てきたのはバッタ。どういう意味だと凝視してくる視線に気付いて、名前は慌てて言い募った。

「あ、でもわたしバッタがすごく好きなわけじゃないですよ! 昔飼ってたあの子だけが好きなんです!」
「そう……なんショ?」
「そうッショ。巻島くんはあの子に似て手足が細くて関節の感じとかそっくりだし、それに緑色ですし」

 まさか緑色だからオレのことを好きになったわけじゃあるまいなと、巻島の背中をいろんなものがつまった汗が伝う。名前は俗に言う変人だったが、初対面の彼氏の家族の前でもそれがいかんなく発揮されることが証明された。
 一番に動いたのは母親だった。伊達に10年以上も変人巻島裕介を育てたわけではない。

「名字さんが裕介を大事にしてくれてるようで嬉しいわ」
「いえ、そんな」
「せっかくだから、みんなでゼリーをいただきましょう。冷えたらお部屋へ持って行くから」
「そんな、お気遣いなく。ぜひ食べてください」
「そう言わないで。裕介、このあいだ山原のおじさんにいただいたお菓子をお出ししてね。そういえばわたしったら裕介が彼女さんを連れてきたのが嬉しくて、まだ靴も脱いでもらってなかったなんて。どうぞあがってくつろいでね」
「待って、お兄ちゃんの部屋に行く前にもうすこし話聞きたい! どうやってお兄ちゃんが告白したかとか!」
「わーッ! 名前、ここはいいからもう上がれ! お前も名前に近付くんじゃねえぞ」
「お兄ちゃんの過保護ー。イケズ」
「どこでそんな言葉覚えてくるんだよ……」

 普段の様子が垣間見える会話に笑いながら、名前は靴を脱いでスリッパに履きかえた。お菓子などを運ぶ巻島の手伝いをしようとしたら断られ、あまり強く言うことも出来ずに巻島の部屋でぽつねんと座り込む。
 初めて出来た彼氏の初めての部屋は清潔で、本棚に綺麗に揃えられた本はやはりロードバイク関係が多い。大きなテレビまである。となりへ続くドアの向こうにはベッドが置いてあるのだろうか。昨日巻島が必死で部屋の掃除をしたことなど知りもせず、名前は感嘆した。男の兄妹がいる友達に「男は部屋が汚い」とさんざん聞かされたから覚悟して来たのだが、非常に綺麗だ。
 あまり見てはいけないと思いつつもほかにすることがなく本棚を眺めていると、トレイにジュースとお菓子を乗せた巻島が部屋に入ってきた。最高級のラム酒とドライフルーツをたっぷりと使ったフルーツケーキ、惜しげもなく使われたバターが香るクッキーとコーヒー。ミルクと砂糖が多めに用意されていてところを見ると、自分がコーヒーをブラックで飲めないことを覚えていてくれたのだろうと、名前の胸があたたかくなる。

「ありがとう」
「妹がうるさくて悪かったな」
「楽しい妹さんで仲良くなれそう」

 一見普通に見える妹に対するよく聞く意見に、巻島の片眉が動く。お前の妹だからどんな変人かと思ったけど普通じゃねえかとは、妹と出会うたび人が言う台詞である。しかし蓋を開けてみれば巻島に負けないくらい変わっている。変人だと覚悟して近付いてきた巻島のまわりにいる者と違い、普通だと思って近付いてきた妹のまわりには離れる者も多い。だが名前ならば仲良くするのだろう。なぜなら名前も一見普通、中身は変人なのだ。

「あー、あとで話したいっつってたから、よければ話してやってくれ」
「うん、ぜひ!」

 目を細めてフルーツケーキを頬張る名前を見て、誰も知らないところでお兄ちゃんをしていた巻島はようやくコーヒーに手を伸ばした。
 いかに階下に親と妹がいようと、巻島とて男。ビデオを見ると言い訳を用意し、部屋には来ないようによくよく念を押してきた。この貴重な休み、自分の部屋には彼女。このチャンスを逃すはずもない。出来たら童貞卒業、せめておっぱいを揉むくらいは。巻島も健全な男子高校生であり、この日のためにスマートにゴムを取り出す方法だとか、スマートにゴムをかぶせる方法だとか、スマートに進める方法だとかを読みあさってきたのである。
 巻島の欲望に気付かない名前は、ふたつめのフルーツケーキを食べ終えてクッキーに手を伸ばした。

「誘われるまま巻島くんのお家にお邪魔しちゃったけど、なにしようか? まだ日が高いし、自転車の練習でもする?」
「練習なら午前中にしたッショ。今日は体を休める日だ」
「わたしなら気にしないでいいよ?」
「せっかく名前と二人きりなんだから、その……おしゃべりでもしねェ?」
「おしゃべり」
「学校じゃあんまり話せねェし、電話で話すよりは会って話してえっつーか……」

 語尾が小さくなっていく。頬から広がっていく赤色を見た名前は、嬉しそうに頷いた。学校では忙しくてそこまで話せない。名前も巻島も、仲間とすごす日々を大事にしている。だからこそ二人きりの時間が少なく、スローペースなふたりにはそれでちょうどよかったが、少々物足りないと思っていたところだ。

「じゃあお話しよっか! 巻島くん、平坦のタイムすこし縮まったよね。何か変えた?」
「ちょっとばかりな。金城にアドバイスもらってな」
「金城くん最近リムの減り方早くない?」
「根詰めすぎなんだよ」

 しばらく楽しく話をした巻島が気付く。たしかに話をしようと言ったが、こんな部活中の延長のような話をしようと思ったのではない。もっとこう艷やかで、ふたりきりならではの、甘く香るようなひと時をすごしたいのである。
 巻島の手が、緊張で震えながらわきわきと動く。この光景を鳴子を見れば2、3のツッコミが入っただろうが、あいにく巻島自身も気持ち悪い動きをしていることに気付いていない。巻島はただ、スマートに名前の肩に手をおいて引き寄せたいだけなのだ。

「そ、そういや名前、最近き、き、き……」

 綺麗になったと言いたいのだが、そうすんなり口から出てきてくれはしない。鳥の真似かと思い不思議そうに見上げる名前の目の大きさに引き込まれそうになった巻島は、慌てて顔をそらした。ふたりきりで、こんな近くで顔を見つめたことなどない。

「巻島くんって鳥好きなの?」
「はっ? いや普通ッショ……」
「わたしも普通なんだ」
「……おう」

 これが名前が変人と言われるゆえんであるが、本人はいたって真面目に聞いている。宣言通りDVDを見ることにした巻島は、事前に借りていたDVDをセットした。エロいシーンがなく、評判がよく、かつ恋愛もの。これを探すには苦労した。一度見てきちんと問題ないかも確認した。事に及ぶならそれなりに色気のあるシーンが必要だというのに、巻島は気付いていない。
 DVDの再生がはじまり、カーテンを閉めてほんのすこし薄暗くなった部屋で見る名前の横顔は、レースのDVDを見るときよりリラックスしていた。これならばいけるんじゃないだろうか。しかしまだ映画は始まっておらず予告の段階だ。ここで手を出したら、DVDが卑猥な行為を隠すための音源だとバレてしまう。
 映画がはじまり、名前が真剣にテレビ画面を見つめる。巻島が真剣に選んだだけあり、緊迫するシーンと息抜きできるコミカルな場面がちょうどよく、伏線も回収して綺麗に終わる素晴らしい映画だった。巻島は頭を抱えた。面白くないものを見て場をしらけさせることはしないようにと選んだ映画が裏目に出て、結局は手のひとつも握ることなく二時間半が過ぎ去ってしまったからだ。名前は横で楽しそうに映画の感想を語り、映画を見るのが二回目でありレビューなどを読みあさっていた巻島は裏話などを披露し、ふたりは盛り上がった。だが巻島の最終目的はこれではない。これではないのだ。
 口数が少なくなった巻島を心配するように覗き込んだ名前の手を握る。手の汗だとか緊張でかすかに震えているだとか、そんなことを気にしている場合ではないのだ。

「巻島くん……?」

 名前の声が、ふたりきりのときしか聞けない、わずかに恥じらいをふくんだものになる。重ねた手に力をこめると、名前の体が反応した。いまはまだ夕方だ。いける。いまなら終わっても帰るのに不自然じゃない時間に帰れる。
 巻島の顔が近づいてくるのに気付き、名前は目を伏せて高鳴る心臓をなだめながら、そっと目を閉じて顔を上げた。巻島の心臓も壊れそうなほど激しく脈打ちはじめた。ふたりがキスをするのは初めてではない。かといって慣れているわけでもなく、ふたりしてファーストキスをお互いに捧げ、ぎこちないながらも幾度かくちびるを重ねただけだ。巻島もこの行為に慣れておらず、かくかくと首を動かして角度を調整しつつ名前のくちびるへと近づいていく。名前が目を開けていないのは幸いだ。
 ふたりのくちびるが触れて、数秒もしないうちに離れる。恥ずかしさと嬉しさで赤くなりながら顔を見合わせて笑う様は、まさしく初々しいカップルだ。相手にふれるだけで嬉しくてたまらない、キスをしたら一週間は上機嫌でいられるような、青春を抱きしめているような恋。巻島がもう一度近付き、今度は角度を調整することなく名前のくちびるに着地した。こんな短時間に二度もキスをしたのは初めてで、名前がこれ以上ないほど顔を赤らめて巻島を見上げる。
 巻島の手が伸びた。いま行かなくていつ行く。名前の肩に手をおき、怯えるならばすぐにやめようという決意を胸に、おっぱいへと視線をずらしたそのとき部屋においてあった子機が鳴った。時間が止まる。

「ま、巻島くん? 電話なってるよ?」
「いいっショ、どうせ母親からだ」

 しかし電話が鳴り続けるなか進めることは出来ない。名残惜しく名前を見つめる巻島をせき立てるように電話は鳴りつづけ、ついに階下から妹の声がした。

「お兄ちゃん、電話でて!」

 もう電話じゃなくてそのまま話せばいいだろうと叫びたいのを我慢する。巻島が二階に上がってこないようにと言ったことを守り、きちんと映画が終わりそうな時間まで待っていてくれたのだ。足音も激しく子機が置いてある場所まで行き、ひったくるようにして電話を耳に当てた巻島の耳に飛び込んできたのは上機嫌な母親の声だった。

「あ、裕介? 裕介の彼女さんが来てるってお父さんにメールしたら、今日は急いで帰ってくるって。ご馳走を作るから、ぜひ名前さんも食べていってほしいんだけど、どう? 好き嫌いがあるなら聞いておいてね。お父さん、あと一時間くらいで帰ってくるから」

 巻島はうなだれた。どう頑張っても一時間では終わらせられない。お互い初めてで出来るだけロマンチックにいい思い出になるようにしようと思っていたのに、これでは無理だ。
 ホテルにでも行けばいいのだろうが、どう誘えばいいかわからなかった。ホテルは、まさしくそういうことをするための部屋だからだ。巻島は気落ちしながら名前に母親の言葉を伝えた。遠慮してお暇するという名前と母親が電話で話し、いつの間にか夕飯はステーキとフルーツタルトということに決定していた。豪華だ。

「巻島くん、一緒にリビングでお茶でもどうかって」

 電話を終えて母親からのお誘いを伝えた名前は、巻島に笑いかけた。彼氏の母親に好かれて嬉しいという顔に、巻島もこれ以上は無理だと諦めて笑うことができた。名前がこの家に来てよかったと思えるなら、それが一番だ。

「一階に行くか。あんま食いすぎるとステーキ入らなくなるッショ」
「少食目指してるからいいの」
「少食ねえ」

 からかうようにフルーツケーキとクッキーの残骸を見ると、名前は真っ赤になってもごもごと言い訳をした。おいしくてつい、とは少食を目指している人間の言葉とは程遠い。そんな名前も愛しくて、巻島は恋人を抱き寄せてやわらかな感触を体中で感じながら笑った。

「別に少食なんて目指さなくていいッショ。名前は名前だろ」
「……うん」

 人の目を気にせず名前を抱きしめてキスが出来たことで、巻島は自身のよこしまな目標を払拭することができた。おっぱいを揉みたいだなんて、抱きしめるだけでこんなに心が満たされるのに何を考えていたんだろう。

「巻島くん、すき」

 体中で好きを表現しながら巻島に抱きついてくる名前はこれ以上ないほど愛らしく、せっかく消えたよこしまな思いがむくむくと大きくなりかけたが、なんとか抑えて抱きしめるだけでとどめた。

「さっきの映画みたいに、いつか指輪渡せるといいね」
「あの雑草の?」
「雑草じゃなくて花だよ」

 笑いながら階下へと向かうふたりの足取りは軽い。名前が落ちても大丈夫なように先に階段をおりながら、巻島は窓から入ってくる夕暮れのまぶしさに目を細めた。まだ誰にも言っていない、自身の進路。それまでにはきっと目標を達成することができる。はず。
 先に階段をおりきった巻島は、エスコートするように名前の手をとり、あとで冷やかされることを承知で手をつないだままリビングのドアを開けた。いつか名前が指輪をはめてこの家に来る日を想像しながら。

・・・

 翌朝、朝練を終えて下駄箱で上履きにはきかえた巻島は、職員室に行くという名前を見送ってから後ろから突き刺さってくる視線に対応した。そこにいるのは昨日名前が巻島の家にお邪魔したことを知っている金城と田所で、結果はどうだったのかと無言で話すよう圧力をかけてくる。かばんを肩にひっかけた巻島は、三人で並んで歩きながらくちびるを尖らせた。

「ふたりが思ってるようなことは何もないッショ」
「なんだ、そうなのか。巻島が雑誌を読んで研究してるからすっかりそうなのかと」
「んだよ巻島、手ェ出さなかったのか?」

 三人とも自転車一筋とはいえ健全な男子高校生である。

「両親と妹にスゲー気に入られて、引っ張りだこだったんだヨ」
「よかったじゃないか」

 なぐさめるように金城に言われて、巻島が頷く。自分の家族に彼女が気に入られたのは純粋に嬉しい。口下手ながらぽつぽつと話す巻島の言葉に耳をかたむけていた二人は、デートは大成功だったと太鼓判を押した。田所が持っていたペットボトルを飲み干し、大きなあくびをする。

「そういや名字は一度遠距離をしたいっつってたな。漫画みてぇな気持ちを味わってみたいんだと」
「さすが名字だな。頼もしい」

 巻島の胸にイギリスという単語がよぎる。もうすぐどうしたって遠距離になるふたりの未来を見透かしたような田所の言葉に、鼓動がはやくなっていく。

「……それって、どれくらいの遠距離って言ってたッショ?」
「日本とブラジル」
「それって一番遠い……」

 言いかけた巻島は口をつぐみ、それから笑い出した。イギリスなんてもんじゃない。日本とブラジルだなんて、名前の頭のなかは一体どうなっているんだろう。
 満足するまで笑った巻島は、あっけにとられているふたりを見てまた笑った。巻島は変人という単語が仲間の頭のなかをぐるぐる回っていることに気付かず、巻島は晴れ晴れとした顔で窓を見た。
 きっと名前となら大丈夫なのだろう。金城の言葉を借りれば、名前が恋人で頼もしい。どんな未来でも名前がいるなら大丈夫だと本気で思えるのは巻島にとって心強く、決意を新たにするものだった。
 イギリスまでに、せめておっぱい。


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