名字と青八木が一緒にいるのを見たのは入学して一週間経った頃で、オレも青八木と仲良くなったばっかりだった。
 社交的ではない名字がオレがいる場で話しかけたのはずいぶん緊張したんだろうということは、だいぶ経ってからわかったことだ。そのときの名字はどこか切羽詰っていて、揺らいでいる目には青八木しか映っていなかった。


「青八木くん!」


 名前を呼ばれて青八木が振り向く。つられてオレも振り向いたけど目の前の少女は青八木しか見ていなくて、オレはここにいていいのかと戸惑う。だけどここで離れていっても不自然だし、どうしたものか。
 悩んでるオレの前で、少女はどこか悲痛な面持ちで青八木に尋ねた。


「美術部に入らないって本当……!?」
「ああ。オレは自転車部に入る」
「かけ持ちでも入らないの?」
「入らない」


 そんな、と絶望した声が漏れる。確か青八木は中学は美術部に入ってたって言ってたな。かけ持ちか自転車部がなかったのかはわかんねえけど、この女生徒は高校でも青八木が美術部に入ると思っていたらしい。


「じゃあ、わたしも美術部入らない……」


 こいつ、青八木のこと好きなのか。
 さすがにこの一言で気付かないほど青八木も鈍感じゃないだろう。友達以上恋人未満っぽいこの関係でどう返事をするのか静かに見守っていると、青八木はわずかに驚いた顔をして首を振った。


「名字は美術部に入るべきだ」
「で、でも……青八木くんは自転車部に」


 名字という名前の少女は青八木が入るなら自分も同じ部活に入ると言わんばかりのことを言いかけたが、青八木が遮った。
 え、マジで? 拒否すんの?


「オレは名字の絵が好きだ」
「え」
「名字も絵を描くことが好きだ。美術部に入ってほしい。また名字の絵が見たい」


 名字の頬が染まっていく。すこし一緒にいただけで無口だとわかる青八木がこれだけ話しているのは珍しいと思ったが、名字にとっては普通のことらしい。青八木にとって名字は特別なんだ。


「で、でも……青八木くんは」
「オレは自転車部に入る。そのために総北に来たんだ」
「そ、れは……そう、だけど」
「……名字が美術室にいると、ほっとする」


 大事にしてきたであろう青八木の本心に名字の目が大きくなり、それからようやく頷いた。仕方ないなあという感じは、さっきまで感じていた「片思いする女の子」とは違って「弟のわがままを聞く姉」という感じだ。だけど名字の顔は恋の嬉しさで輝いていて、やっぱり青八木のことが好きなんだと伝わってくる。
 一段落ついたと、青八木がオレを名字に紹介した。


「名字、一緒に部活に入る手嶋。モノマネがうまい」
「手嶋純太っていうんだ。よろしくな」
「え、あっ、わたしは名字名前。ごめんね、無視してるつもりはなかったんだけど、必死で……」


 もう一度謝る名字に気にしてないと手を振ってから別れる。名字は名残惜しそうにしばらく手を振っていたけど、やがて吹っ切れたように逆の方向へと歩き出した。きっと美術室へ行くんだろう。
 青八木を見るとさっきより顔が赤くて、いまさら照れるのかと驚いているうちに目が合った。オレを見て、廊下を見て、窓の外をさまよってもう一度オレを見る。


「……手嶋は、名字のこと好きになるのか?」
「なんで!?」
「……さっき、喋ってたから……」
「それだけで好きにならねーって。名字を好きなのは青八木だろ」


 十中八九そうだろうとカマをかけてみると、青八木の目が見開かれてオロオロし始めた。青八木は無口だけどわかりやすい。


「……秘密にしておいてほしい」
「いーけど、名字に告らねぇの? オッケーもらえると思うけど」


 そりゃもう確実に。


「駄目だ。名字は好きな人がいるって言ってた。邪魔はできない」
「えっ……それ青八木に言ったのか?」
「……教室で話してるのを偶然聞いた」


 それ絶対に青八木のこと話してただろ、とはさすがに言えない。これは名字が言うか青八木が自分で気付くことであって、オレが言っていいことじゃない。
 この様子だと近いうちにくっつくだろうから、きっと杞憂だ。くっついたらあの心配はなんだったんだって笑い話になるに決まってる。それまで見てるほうは焦れったいんだろうけどな。


「青八木、名字と知り合ったのっていつ?」
「中1のとき同じクラスだった」
「え……じゃあ名字を好きになったのは?」
「……中1のとき」
「えっ」


 名字がいつ青八木を好きになったかはわかんねぇけど、青八木と同じく片思い3年目に突入していてもおかしくはない。これはもう名字が青八木を好きだって匂わせたほうが……。
 気付かれないように青八木を見てみると少しばかり心配そうな顔をしていて、開きそうになっていた口を黙って閉じた。オレがこの話をすると名字のことを好きになっていってるって誤解されそうだからやめておこう。
 焦れったいけど。すげぇ言いたいけど。これ以上こじれるよりはマシだろうと、言いたい気持ちを飲み込んだ。

・・・

「青八木くん!」


 青八木を呼ぶ女子の声に、オレを含め数人が振り返る。息を切らせて走ってきた女子のスカートが脚にまとわりついて、普段見えない部分がさらけ出された。青八木が珍しく慌てた様子で走っていって、女子が走るのを止める。スカートが静かになった。


「もう部活終わった?」
「終わった」


 青八木は女子に近くにいたオレを紹介した。田所さん、という苗字しか言っていない紹介を聞いて、女子は思い当たる節があるように慌ててお辞儀をしてきた。青八木からオレの話を聞いてるらしい。


「名字名前です! 部活が終わってると聞いたんですが、青八木くんと話しても大丈夫ですか?」
「おー、いちいち許可とんなくていいぞ」
「は、はい」


 すこし離れたところで手嶋が両手を握りしめてふたりの会話を窺っている。
 そういや青八木と明らかに両思いのやつがいるのになかなかくっつかないって、やきもきしてたな。手嶋が入学してきたときにはもう焦れったい関係になってたって言ってたから、長いことふたりはお互いに片思いしてることになる。青八木が2年になってもうずいぶん経つのに、まだ進展してないのか。


「青八木くんに見せたい絵があるって言ったの覚えてる?」
「名字がいま描いてるやつ」
「さっき完成したの! 見てくれる?」


 名字という女子の声は弾んでいて、青八木が優しく笑っている。
 珍しいこともあるもんだとふたりを見ていると、青八木の顔が曇った。名字が敏感に察知して首をかしげる。


「……名字が好きなやつを描いた絵」
「えっ!? なんでそれを……!?」
「前に名字が言ってた。眠たくて覚えてないかもしれないけど、電話で」


 名字の顔がさあっと青ざめていく。視線は泳ぎ、くちびるが震えて落ち着きがなくなる。


「え、っと……そんなこと言ったっけ……?」
「言った」
「んーと……その……」
「……純太?」
「え?」


 いきなり出てきた手嶋の名前に名字がぽかんとしている後ろで、手嶋が必死に首を振っている。
 まさか名字の好きなやつが手嶋だと勘違いするとは思っていなかったが、名字はそれに気付いていなくて訂正するやつがいない。手嶋も違うということを伝えようとしているが、ふたりとも手嶋を見ていない。


「……見るのはやめておく。また名字の自信作が出来たら見せてほしい」
「うん」


 明らかにほっとした顔で頷いた名字に、ふたりのやり取りを見ていた金城や巻島がなんとか青八木の勘違いを教えようとしているが、視線だけで伝わるわけがない。
 そもそもオレたちは盗み聞きをしてるんだから、青八木に会話を聞いてたってバレちゃいけねえんじゃねえか?


「あの、でも、いつか青八木くんに見てほしいな。いまは勇気がなくて言えないけど、いつか……」
「わかった」


 名字の恋する顔とは反対に、青八木の顔は絶望に染まっている。
 あまりのすれ違いっぷりに、勘違いを伝える巻島の手の動きがおかしくなってきた。なんだあれ、盆踊りか。


「青八木くんも部活頑張ってね。青八木くん、すごく速くなってきてると思う」
「……純太のおかげだ」
「青八木くんも頑張ってるからだよ。青八木くんのことずっと見てたから、それくらいわかるよ」
「え」
「あっ、えっと、男子で一番仲いいの青八木くんだし! というか青八木くん以外おしゃべりする男子いないし!」
「純太は」
「手嶋くんはどっちかっていうと女子だから! だから……青八木くんだけだから」


 精一杯の告白を、青八木は驚いた顔をして受け止めた。名字が顔を赤くして青八木の返答を待つ。


「……名字」
「ひゃいっ」
「純太は男だ」
「……ですよね」


 金城と手嶋がずっこけた。青八木、今の返事はねーだろ今のは……。

 名字は残念なような慣れたような顔をして青八木と部活の話をはじめた。会話を聞いていたらしい鳴子が目を丸くしてふたりを見ている。金城と手嶋が衝撃から立ち直った。オレはまだ呆気にとられている。
 ふたりがなかなかくっつかないと言っていた手嶋を思い出して空を仰ぐ。確かに早くくっつけばいいのにと思わずにはいられなかった。

・・・

 部内では有名な名字さんが部活が終わるまで青八木さんを待ってたのは、青八木さんと手嶋さんが引退して本格的に部活に来なくなる少し前のことだった。
 部活が終わる頃にはもう薄暗くてなっているのに、そのなかで立って待っていた名字さんは部室から出てきた青八木さんを見て顔を輝かせた。


「青八木くん、手嶋くん、お疲れ様」
「お、名字か」
「もう暗い。どうした」


 すかさず青八木さんが駆け寄る。
 名字さんが部室近くまできて青八木さんたちと話してるのを何度か見たことがあるが、確かに焦れったくなるようなふたりだった。手嶋さんがもどかしくなるのもわかる気がする。
 さっさと告白でもすればいいと思うけど、手嶋さんいわくふたりとも違う部分が鈍いらしい。それらがうまい具合に噛み合って、一方が勇気を出せば一方が気付かないということが繰り返されているという。おそらく中学のときから。長いな。


「今日は残って練習しないって手嶋くんから聞いて、わたしも美術室の片付けしてたから寄ってみたんだ」
「もう暗い。送る」
「わたしの家遠いから」
「知ってる。だから送る」


 名字さんの頬がぽっと赤くなる。
 名字さんは照れてどう返事すればいいのかわからないように視線をさまよわせて、いままで存在に気付いていなかったオレと目が合った。


「今泉くんお疲れ様」


 そのまま小野田と鳴子にも声をかけたあと、照れながら青八木さんを見る。このままふたりで帰ってさっさとくっついてしまえばいいのにと思うオレたちの気持ちなんて知りもせず、名字さんと青八木さんは手嶋さんに話しかけた。
 3人で歩き出して、暗闇のなか名字さんが何かにつまずく。青八木さんが名字さんの体を支えて何事もなく終わったかに見えた。
 が、オレたちはばっちり見てしまった。青八木さんの両手が名字さんの胸をさわっているのを。


「……っ! 悪い!」
「だっ大丈夫!」


 素早く離れたふたりのあいだに気まずい沈黙が漂う。オレたちが声をかけられるわけもなく、手嶋さんも成り行きを見守っている。
 名字さんは腕で胸を隠しているし、青八木さんは目を泳がせている。数秒して、青八木さんが絞り出すような声でもう一度謝った。なんてことを、と思っているのがよくわかる。名字さんはわずかに首を振った。


「い、いいの。青八木くんになら、その……大丈夫だから」


 こ、これはラブ☆ヒメ第2話で湖鳥と有丸がした会話そのままじゃないか……! 湖鳥の理想の有丸が出てきて迫られ、うろたえつつも「有丸くんになら、いいよ……」と言った伝説のキス顔回!
 結局はキス寸前で目覚ましに起こされる夢オチだったわけだが、なるほど、名字さんはあの湖鳥と同じ状況になってるわけだな。これでうるんだ瞳に期待をにじませてながら目を閉じたら完璧じゃないか!

 青八木さんは勢いよく顔を上げて真っ赤な名字さんを見たあと、数歩あった距離を縮める。胸を隠している名字さんの腕をほどき、どこかうやうやしく手を取った。


「本当に悪いと思っている。だから、責任をとらせてほしい」
「え!? 気にしないでいいよ!」
「そういうわけにはいかない。――オレと、結婚してくれ」
「んぐぶふっ!」


 手嶋さんが言葉には出来ない声を出したあとに激しく咳き込みはじめた。鳴子も咳き込んでいる。小野田は両手を握りしめて顔を赤くさせている。鏑木はぽかんとしていた。


「けっ、結婚!? そこまでしなくていいから!」
「駄目だ」


 譲らない青八木さんに、名字さんの顔がふっと曇る。これで名字さんが頷いてどうしてそこまでするのか理由を聞けばハッピーエンドだというのに、名字さんの顔は浮かないままだ。


「……もしかして、こういうこと言い慣れてる?」
「……?」
「あっ気を悪くしたよね、ごめん。青八木くん3年になっていきなりかっこよくなったし、わたしのクラスにも青八木くんがかっこいいって言ってる女子が何人もいるし、いきなりこんなこと言うし、もしかしたら青八木くん、女子と話すの慣れてるのかなって……」 


 沈み込む名字さんに青八木さんが慌てて首を振って否定する。口下手な青八木さんが必死になって名字さんに弁解をはじめた。


「違う。そんなことはない。オレがかっこいいと言ってもらえるのは純太と名字のおかげだ」
「わたしは何もしてないよ」
「そばにいてくれた」


 これはラブ☆ヒメ第7話、湖鳥と有丸のやり取りじゃないか……!
 ひとりで困難に立ち向かう有丸に湖鳥も協力しようとするが空回りばかりで、落ち込む湖鳥にかけられた台詞がこれだ。何もできなかったと落ち込む湖鳥に、有丸は「オレのそばにいてくれた。だから頑張れた」と言い、ますます惚れる場面だ。
 まあそのあとの劇場版で有丸は敵だと知ったわけだが、あの有丸には惚れるしかないから仕方ないだろう。


「……わたしがそばにいることでかっこよくなるなら、これ以上一緒にいられないよ。困るなあ」


 口では困ると言いながら名字さんの顔は嬉しそうにゆるんでいて、青八木さんも微笑んだ。青八木さんがこれだけ長く喋ったことに加えて笑うなんて珍しい。


「困らない。だから一緒にいてくれ」
「うん、わたしからもお願いします」
「もう遅い。送る」


 ふたりはオレたちに挨拶をしたあと、仲睦まじく暗闇のなかへ溶けていった。ハッピーエンドだ。
 という顔をしているのはオレと鏑木だけで、手嶋さんは四つん這いになって拳で地面を叩いていた。鳴子は天に向かって叫び小野田はあからさまにがっかりした顔をして、段竹はどことなく引いていた。


「そこまで言ったら! そこまで言ったらもう告っちまえよ青八木! なんであんなほのぼのとして終わるんだよ!?」
「今の告るとこやし、名字さんも察して誘導するとこやで! 何やねんあれ!」


 あっそういう……。


「今泉さん、あの人たち何言ってるんですか?」
「……鏑木にはまだ早い」


 鏑木と同じだったなんて口が裂けても言えない。


return


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