オレがそのとき考えていたことは「早く終わらねえかな」だったし、委員会のプリントなんかろくに読まずに、よく晴れたロード日和の空を教室の中から眺めることに自分の目を使っていた。ロードバイクへの情熱に掻き立てられて、一刻も早く愛車に乗りたかった。
そんな思いがオレを焦らせたんだろうか。忘れ物をしたということに気付いたのは、委員会をしていた教室を出て部室の前まで来たときだった。どうでもいいものなら放っておくが、忘れたのはペンケースだ。今日やらなくちゃいけない宿題もあるし、ないと困る。
委員会で使われていた教室が戸締りされないうちにと急いで戻る。やや乱暴にドアを開けると、驚いてこっちを見てくる女子と目が合った。ほかの生徒はもう帰ったようで、この子もプリントをまとめてもう帰ろうとしているようだった。なんだか居心地が悪くなりながら自分が座っていた机に目を向けると、そこには何もない。
「もしかしてペンケース探してる? あとで職員室に届けようと思って持ってるの」
彼女が渡してきたのはまさにオレが探していたもので、お礼を言って受け取る。彼女はオレの顔を数秒のあいだじっと見たあとに目を伏せ、さきほどより頬を染めてためらいながら口を開いた。
この感じは覚えがある。告白してくるときの、恋に恋する女子の顔だ。内心面倒だと思いながらも邪険にすることは出来ず、彼女の声に顔を向けた。
「あの、新開くん、だよね。すこし聞きたいことがあって」
「ん?」
「今日の委員会、どうだった? ずっとこの委員会をやってたんだけど、委員長をするのは初めてで……ぼうっとしてたってことは、危なげなく聞いていられたってことだよね?」
身構えていた質問と違って驚いたあとに、暗に窓の外を眺めていたことを言われて恥ずかしくなる。壇上にいれば全員の顔は見回せるし、オレが外ばかり見ていたなんてすぐに気付くだろう。
恥ずかしさから曖昧に笑いながら委員長として立派だったと言うと、彼女はオレの心を探るように大きな目を動かしたあとにため息をついた。安心したと顔に書いてある。
「ありがとう……先輩から受け継いだから、きちんとやりたいんだ。そう言ってもらえて、すこし自信ついたよ」
照れくさそうに笑う彼女はさきほどオレに話しかけようとしたときと同じ顔をしていて、とんでもない勘違いをしていたことがわかった。彼女が好きなのはオレじゃない、その先輩だ。
「……うわー……」
「どうしたの?」
「なんでもない……」
こんな恥ずかしいことを言えるわけもない。熱でも出たのかと心配してくれる優しさが痛い。
本当に大丈夫だと何度も念を押して、そのまま流れで教室をでる。彼女はしきりにオレのことを心配していたが、ふれてほしくない話だと気付いてくれたらしく話題を変えてくれた。
「そういえば、新開くんは自転車部なんだよね。なんでも常勝だとか……今日、部活に遅れちゃう?」
「委員会の日は自主練になるんだ。うちの部、いちおう文武両道目指してるから」
「そういえば強豪は文武両道だって聞いたことある。真実だったんだねえ」
しみじみという彼女に、毎回赤点を取らないように必死だとは言い出せなかった。最初に恥ずかしい勘違いをして、珍しく何度も会話を取り繕ったせいか、自分の言動がどこかぎこちなく感じる。
いつもなら赤点ギリギリなこともあるとなんでもないように言えるのに、やはり最初は肝心だということが身にしみた。恥ずかしいという感情がまだ体のあちこちに染み付いているからか、口から出る言葉はいつものように軽さを含んでいない。
「そうだ、新開くんは甘いもの好き?」
「ああ、好きだぜ」
「よかった、じゃあこれ食べない? 当たりなんだ」
「当たり?」
「外国のお菓子を買うのが好きなの。いつもどれが当たりかにらめっこしながら買うんだけど、失敗も多くて。それも楽しいんだけどね」
だから食べ終えるまで時間がかかっちゃって、と笑う彼女がくれたお菓子はいつも食べているものより甘かったけどおいしかった。
まだあるよ、と鞄のなかから出てくるカラフルなパッケージのお菓子と楽しそうな彼女を見て、なんだかおかしくなってきて笑ってしまった。ようやくあの勘違いを笑い飛ばせるようになったらしい。
「よかったら、その失敗したお菓子の処理手伝うよ。もちろんオレにも好みはあるけど、甘いもの好きだし」
「え? でも……」
「いいから」
失礼な勘違いをしたのと、こんなに一生懸命やっていた委員会をろくに聞かず早く終わらないかと思っていたことへの、自己満足な罪滅ぼしだ。
戸惑っている彼女の名前とクラスを聞き出し、お菓子を買ったら持ってきてくれるよう頼む。彼女はようやく状況を飲み込んだのか目を丸くするのをやめて、子供のように目を細めた。
「嬉しい! 実はこういうことをする友達がずっとほしかったの。ありがとう!」
そうしてオレと名字さんは、外国のお菓子を買っては食べるという友達になった。
・・・
名字さんは一週間から十日に一度、お菓子をふたつ持ってオレの教室にやってくる。最初にお菓子を食べたときにふたつとも当たりでおいしくて半分以上食っちまってから、お菓子代の半分はオレ持ちだ。名字さんは渋っていたけど、甘いものを食べ続けるオレを見てようやく受け取ってくれた。名字さんはよくお菓子を食べると言っていたけど、オレからすれば全然食べていない。
教室から顔を覗かせてオレを探す名字さんを見つけると、いつも教室を出てひとクラス離れた廊下へ行く。それに意味なんてないって顔をしてるけど、オレのクラスのやつが教室から投げてくる視線が痛いからだ。
名字さんはカラフルなパッケージのお菓子を持って、いつものようにどっちから開けるか聞いてきた。自分の好きなのを買ってきてるからせめてこれくらいは選んでほしいと言う名字さんが、オレの好きなチョコやバナナ味のものを買ってきているのは気付いている。だけどそれを言うのは野暮というものだ。
「こっちから食おうかな。これは飴?」
「売り出してたからつい買っちゃった」
それぞれ好きな味を選んで袋を開けて、同時に口に放り込む。
「甘っ……!」
「甘い! 今回は外れだったね……」
名字さんがしょんぼりしながら舌を出す。なんとかひとつ食べきった名前さんはもうひとつ食べてみて、やっぱり甘いとうなだれた。
いちごのにおいがする名字さんの手から飴の袋をとると、申し訳なさそうな顔をしてお願いしますと言ってきた。口に合わなかったものはオレが食べると言ったのをまだ気にしているらしい。オレから言い出したことだから気にしなくていいし、実際は部室に持っていっているからオレひとりで食べてるわけじゃない。
自主練や部活後の練習のとき、タイムが遅かった者は自分への罰としてこれを食べるのだ。そしてそのカロリーを消費するためにまた走る。なかなかいい案だと思ったんだけど、尽八には「こんなものを食べるなんてスプリンターの気がしれん」と言われてしまった。尽八はカロリーには厳しい。
名字さんとの時間は穏やかでゆっくり流れていて心地いい。それは女子特有の感情をオレに向けずに、同性の友達のように接してくれているからだ。そんな時間が続くんだと思っていたのに、一つ目の転機はすぐに訪れた。
「新開と名字か」
寿一に声をかけられたのは、名字さんとのお菓子を食べることが定着した梅雨前のことだった。寿一に挨拶をして、どうして名字さんのことを知っているのかと聞けば同じクラスだと言われた。そうだったのか。
「名字が言っていたのはこれか。たしかに甘そうなお菓子を食べているな」
「今回は当たりだったんだよ。福富くんも食べる?」
「ああ」
驚いてなにも言えないオレの前で、寿一にしては女の子と近い距離で名字さんと話し、お菓子を受け取っていた。
名字さんとお菓子を食べることはなんとなく誰にも話していなくて、ふたりだけの秘密のように思っていた。なのに名字さんは寿一に話していて、オレと話すのと同じ距離で寿一にふれていて、オレの意見を聞かずに寿一にお菓子を渡した。
「ねえ新開くん、こっちも食べてみない?」
「あ、ああ」
なかなか開かなくて名字さんが苦戦している袋をとって開けて、お菓子を差し出す。名字さんはお礼を言ってお菓子をひとつ選んで取り、オレが食べるまで食べずに待っていた。ふたりで味の感想を言い合って寿一も食べて、ふたりだけだった秘密の時間に寿一がいるだけなのに変な感じがした。
寿一は親友だ。これはオープンにすることじゃないけど隠し事でもなくて、誰かがいてもいい空間だ。なのに心が重い。
「新開くんはどうかな?」
「え? ああ、ごめん。ぼうっとしてた」
「再来週の日曜、自主練習の日って聞いたんだけど、練習の合間に時間があったら一緒にお菓子買いに行かない? 新開くんもお金出してくれてるのに、いつもわたしばっかり選んで悪いし……暇だったらのお誘いなんだけど」
「それ、寿一は?」
「福富くんがなに?」
「オレがどうかしたのか」
寿一も行くのかという意味の問いに、ふたりとも意味がわかっていないように首をかしげた。
……そうか、寿一は誘われてないのか。
「……いいよ、行こう。その日はちょうどウサ吉の餌を買いに行こうと思ってたんだ。夕方でもいいか?」
「わかった、夕方ね。近くなったらまた決めよ」
それでこの話は終わって寿一は教室へと戻ってしまい、いつもどおりのふたりきりの時間がやってきた。お菓子を挟んだ二歩の距離。
「……うわー……」
「新開くんどうしたの?」
「なんでもない……」
名字さんには恥ずかしいところを見られてばっかりだ。オレが内面慌てたり勘違いしているだけで名字さんはわかってないんだろうけど、感情が暴れまくってるときに顔を見られるのはいいものじゃない。
嫉妬なんて感情、久々に出てきた。久々すぎてなかなか気付かなかった……いや、気付かなくてよかったのかもしれない。オレが自覚したら、寿一に気付かれてしまったかもしれないから。
・・・
名字さんとの買い物は楽しかった。久しぶりに買い物に出かけ、目に付くお菓子を片っ端からチェックしてどれがおいしいか悩み、名字さんとはしゃぎながら店をあとにした。オレの手にはウサ吉の餌と、お菓子が四つ入ったビニール袋がぶら下げられている。
名字さんと昨日見たテレビのこと、学校のこと、部活のことを話しながら歩いていると、曇って今にも降りそうになっていた空からついに雨が落ちはじめた。店を出るときには薄暗い程度だったから雨のことなんて気にしてなくて、おしゃべりに夢中で曇ってきたことに気付かなかった。
大粒の雨がばらばらと降ってきて、名字さんと慌てて走って目に付いたマンションの玄関に飛び込む。
「わー、けっこう降ってるね。降水確率低かったのに」
子犬のように首を振って軽く水を払った名字さんは、かばんの中からハンカチを出してオレの頭を拭いてきた。オレのほうが背が高くて名字さんは頑張って背伸びしないと頭を拭けなくて、数秒のあいだ名字さんを見つめてしまった。
え、なんだこれ。名字さんが可愛い。
「新開くん、少ししゃがんでくれる?」
「あ、うん」
思わず言われたとおりしゃがんでしまった目線の先にあるのは、名字さんの白いブラウスだった。雨で濡れてしっとりと肌に張り付いたシャツは、ところどころ濡れていないところがあってそれがまたエロい。そしてブラの線がくっきりと見えた。
「っわあああ!」
「何!?」
「何じゃないよ! オレが拭くから! 女の子が体冷やしちゃいけないから!」
「なに言ってるの、わたしは風邪をひいても学校休めてラッキーって思うただの生徒。新開くんが風邪ひいたり体調崩したりしたら、ロードバイクに乗れないでしょ?」
女の子。
自分で言ってから、目の覚めるような眩しい純白とともに名字さんは女の子なんだと再認識した。名字さんの手からハンカチを取るともうぐっしょりと濡れていて、とても名字さんを拭けるような状態じゃない。慌ててなにか拭くものを探すけどなにも持っていなかった。
「大丈夫、小雨になってきたよ。寮は近いし、走って帰っちゃお。帰ったらすぐお風呂に入ってね」
「名字さんこそ」
ぱらぱらと降る程度の雨になったのを逃さずに走り出す。いつまた降り出すかわからないから、急いで帰るに越したことはない。
だけどオレは運動部で男子で、名字さんはかよわい女の子だ。数秒でふたりのあいだに差が出てしまい、名字さんも一生懸命走ってるけど、このままじゃ雨が追いつきそうだ。
荷物を片手にまとめて、空いた手で名字さんの手を握る。名字さんは驚いたけど、すぐに笑って握り返してきた。つられてオレも笑う。
もう認めるしかなかった。いつの間にか名字さんが一番大事な、誰にも取られたくない女の子になっていたことを。
……とはいえ、名字さんにとって新開隼人とは、おそらく男子のなかで一番仲がいい友達だ。オレだって最近までそう思っていた。名字さんに意識してもらおうにも、インターハイが近いことを考えるとどうしても自転車が優先になっちまう。だけど名字さんを誰にも取られたくない。わがままを言えば、オレ以外の男子とは話してほしくない。
オレの焦燥を知りもせず、名字さんはチョコレートを食べながら窓の外の青空を楽しそうに見つめていた。
「もうすぐ夏休みでしょ? その前にテストがあるけどね。夏休みになったら友達と海に行く約束してるんだ。インターハイ、見に行くね」
「そりゃ気合いが入るな。海に行く友達って女子?」
「うん。でも花火大会のときは男子がいるみたい。男女合わせて10人くらいかな? 男女ペアで回るって言われて、なんだかユーウツ……男子と回るんだったら、たこ焼きも焼きそばも青のり抜いてもらわなきゃ」
心臓が揺れた。
男子とふたりきりで夏祭りを楽しむ名字さん。名字さんはきっと、あいつとペアを組まされる。オレと名字さんが話しているとわけもなく何度も後ろを通っては鋭い視線を向けてくる、名前も知らない男子生徒。
気付いてはいたけど気にしていなかったあいつは、きっと名字さんが好きなんだろう。まさか名字さんの友達まで巻き込んで協力してもらうなんて。
名字さんはオレとこうして話すのを寿一にしか教えていなかった。クラスメイトはきっと知らないんだろう、あいつ以外。
もやもやしたまま数日を過ごし、委員会の日がやってきた。名字さんのクラスのもうひとりの委員はあの名字さんを好きだった男子だと気付いて、背中を焦りが伝った。
オレはいま自転車でいっぱいだ。ウサ吉のためにもオレの背中を押してくれたみんなのためにもオレ自身のためにも走るしかなかったし、オレの頭にはインターハイのことしかなかった。なかったはずなのに。
名字さんが誰かと付き合うだなんて考えたくもない。告白されるのすら嫌だ。夏休みが終わったあとから意識させていくなんて悠長なことはしていられない。夏休みに入ると今まで以上に練習漬けだし名字さんは実家に帰るだろうし、会うことすら出来なくなる。
委員会のある日はいつも部活は自主練習で、委員長として後片付けをしながら最後まで残る名字さんを待って一緒に帰るのが習慣になりつつあった。寮までの短い道をふたりで話しながら歩いて、たまに話が弾みすぎてどこかで立ったままお喋りしたりする。そして名字さんと別れたあとにまた学校に戻って自主練をする。
今日も名字さんと話が弾んだけど、そこかしこに暗い感情がちらついた。今学期の委員会は今日で終わりだ。もうすぐテスト期間で、それが終わったら夏休みで、オレと会えないあいだに名字さんは夏祭りに行く。
耐え切れなかった。ロードバイクとウサ吉でいっぱいでこれ以上抱えられないのに、名字さんのことを諦める気はない。意識だけでもしてもらわないと困る。せめて、夏休みが始まる前に。
「……名字さん。いきなりで悪いんだけど、聞いてくれるかい」
人の気配がないことを確認して立ち止まる。朝は通学する生徒であふれている道は、いまは夕暮れがどこか物悲しく伸び、どこかの家の夕食のにおいが漂うだけだった。
「オレ、名字さんが好きなんだ。……返事は今じゃなくていい。オレのこと、恋愛対象として見てくれないか」
名字さんがぱちぱちと瞬きして、数秒のうちに顔が真っ赤になった。なにか言おうと開かれる口から言葉は出てこなくて、息を止めて名字さんの返事を待っていると大きく深呼吸する音が聞こえた。背筋を伸ばした名字さんの目に迷いはなくて、嫌な予感でいっぱいになった。
「返事は今させてください。わたしも新開くんのことが好きです。……ずっと、恋愛対象として見てました」
「……へ?」
「新開くんも気付いてたでしょ? 最初に会ったとき、新開くんに告白しようとしてたってこと。諦めようと思って友達として接してきたけど……まだ好きなの」
「……じゃあ夏祭り、クラスのやつと行かずにオレと行ってくれるか? たこ焼きにも焼きそばにも青のりかけていいから」
「え、あ、いいけど、いきなり何で?」
「……だって、男子と行くんだろ」
思った以上に子供っぽい拗ねた声が出て、名字さんが笑った。
「わかった、新開くんと行く」
「よかったー……」
「そんなに安心したの?」
「当たり前だろ。名字さんのこと好きなんだから」
当たり前のことしか言っていないのに名字さんはびっくりした顔をして、視線をさまよわせて少し目を伏せて、俯いただけじゃ隠せないほど赤い顔でオレへの気持ちをもう一度言ってくれた。そうしてオレの心にはいとも簡単に、また「好き」が積もっていく。
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