chapter1 名字名前1

 昨日は実感がわかなかったけど、寝付くまで二時間はかかっていつもより早く起きた今朝、ようやく自分のしでかしたことを直視することができた。布団をかぶってのたうちまわり、ようやく顔を出したのはいつもと同じ時間で、どうしようという気持ちと嬉しさで跳ね回りたい気持ちがせめぎ合う胸を押さえてベッドから出た。

 昨日、わたしは手嶋さんの彼女(仮)になりました。

 総北に入学して早々話したこともない手嶋さんが気になって仕方なくて恋に落ちて、総北が優勝した夏、あの場面を見ていてもたってもいられなくなって告白をした。手嶋さんは驚いて、いまはロードで頭がいっぱいだからと断った。当然の反応だと思うけど、あの熱が伝染したようになっていたわたしは諦めきれなかった。


「忙しい時に告白したことも、手嶋さんがわたしのことを知らないのもわかっています。だけど、ずっと好きだったんです。仮の彼女で構いません。嫌だと思ったらすぐに消えます。過去に彼女がいたって言いたいときはわたしを使えばいいし、手嶋さんに好きな人ができたら二度と話しかけたりしません。だから……だから、お願いします。手嶋さんが飽きるまで、ほんの少しだけ近くにいさせてください……」


 泣きそうになって何度もつかえながら言ったあと、自分の手が震えていることに気付いた。手嶋さんに気付かれないうちに震えをとめようとしたけど、手どころか脚まで震えていて目から涙は出るし、まるで一途で健気な女の子みたいで焦ってしまう。忙しい手嶋さんにこんなことを言ってしまうくらい自分のことしか考えてなくて図々しいのに、手嶋さんが勘違いしてしまう。


「……オレ、忙しいし自転車以外のこと考えてる余裕ないし、ほんと相手できないと思う。彼女って言われるのも困る」
「す、みません……」
「それでもいいなら、いいけど」


 驚いて顔を上げると自分でも驚いているような手嶋さんの顔が見えた。手嶋さんはいい人だから、わたしを放っておけなかったんだろう。そのうち飽きたり諦めたりすると思ってるんだろう。
 ……情けをかけてくれたんだ。
 それでもいいと、手嶋さんの気が変わらないうちに頷いた。手嶋さんの顔にはやっちゃったと書いてあったけど、気付かないふりをした。


「あまり話しかけたりしませんから、安心してください」
「ああ。えーと……名前、もう一度聞いてもいいか?」
「名字です。名字名前」
「名字な」


 こうしてわたしと手嶋さんは彼氏彼女(仮)になり、告白から三日たった今日、はじめて部活が終わるまで手嶋さんを待つということをしている。ほかの運動部の生徒は帰ってしまっているようで人気がなく、あたりはもう真っ暗で寒い。自転車部の部員もほとんどが帰ってしまっていて、残っているのは主将である手嶋さんと副主将の青八木さんだけだ。
 手持ち無沙汰で手嶋さんがよく飲んでいるミルクティーを買ったけど、最初はあったかかったそれももうぬるくなってしまった。何もしていないと緊張に押しつぶされそうになるからって買うんじゃなかった。

 夏が過ぎ秋になり、朝や夜は風が冷たくなってきた。だけど自転車競技部の人の胸には、一年で一番暑いあの日の瞬間がいまも胸に焼きついているんだろう。
 ぬるくなったミルクティーを手のひらで転がしていると、部室のドアが開いた。手嶋さんと青八木さんが出てきて部室の電気を消し、鍵をかける。ふたりでロードバイクを押して話しながらこっちに歩いてきて、わたしの存在に気付いて立ち止まった。


「あ、あのっ……! あっ、あの! 青八木さんの好きな飲み物ってなんですか!」
「……!? の、飲み物……?」
「あー、今の時期だとブラックコーヒーのホットかな」
「わかりました!」


 青八木さんの代わりに手嶋さんが答えてくれて、走って自動販売機へと向かう。青八木さんの飲み物を買うのを忘れるなんて、どれだけ緊張していたんだろう。
 自販機でコーヒーとミルクティーを買い、また走って戻る。数え切れないくらい整えた髪型がぐちゃぐちゃになってしまったけど、鏡を見てなおす余裕はない。片手で頭をなでつけて、ふたりに買ってきたものを渡した。


「お、お疲れ様です!」
「サンキュ。もらっちゃっていいのか?」
「はっはい!」
「……ありがとう」


 ふたりにお礼を言われて、ようやく息ができた。目標の一日一手嶋さんも達成できたし、今日は本当に幸せな日だ。


「ん? これなんかぬるくないか?」
「すっすみません! 渡すやつ間違えてました!」


 手嶋さんに渡してしまったのがずっと前に買っていたミルクティーだということに気付き、慌てて取り替えて何度も謝る。


「それかなりぬるかったけど、もしかして長い間待ってたのか?」
「そんなことないです。それじゃあ手嶋さん、青八木さん、わたしが言うのも変ですが、お疲れ様でした。ま、また明日!」


 また明日、というのは手嶋さんに言ってみたかった台詞だ。ささやかながら差し入れをして、会話をし、手嶋さんがさわったものを手に入れて言いたかったことを言う。本当に、なんて素敵な日なんだろう!


「えっオレと帰るために待ってたんじゃねえの?」



chapter2 手嶋純太1

 オレがひとつ年下の名字と付き合いはじめたのは数週間前だ。おとなしい名字が勇気をふりしぼって言ったであろう告白は、正直ドキッとしたけど今のオレには受け入れられないものだった。だけど断ったら自殺でもしそうな勢いだったし、凡人のオレにここまで惚れ込んでくれたのが何だか嬉しくて、気付けば頷いてしまっていた。
 名字はオレと話すときには必要以上に熱が入っていて、しゃべるたびに緊張と興奮が入り混じってすこし挙動不審になる。話しかけるのは一日に二度までと決めているらしく、ほぼ一日一回しか話しかけてこないが、たまに二度話しかけてきたりする。そして「一日一手嶋さんクリア!」という喜びに震えた声が聞こえてきたりすると「なんだそりゃ」と思わず笑ってしまう。

 告白されてから二週間たつと、朝練が終わって目が合ったときに会釈してお疲れ様ですという程度だった名字と昼休みにも会うようになった。名字が緊張しながらやってきて、一分にも満たない会話をして去っていく。なんとか会話と呼べる程度の会話しかしていないのに、名字はいつも嬉しそうだった。


「あ、あの、手嶋さん、すこしいいですか?」


 だから、名字が昼休みが始まってすぐ、3年のクラスがある階に来て話しかけたのには驚いた。仮の恋人になったのは数週間前だから普通だと言えば普通だが、できるだけ人に見られないように接触してきていた今までの名字からは考えられない行動だ。
 居心地が悪そうに視線を泳がせる名字を見て、廊下をおりて名字のクラスがある階へと移動する。明らかにほっとした顔をした名字は、廊下の隅っこで手に持っていたものを差し出してきた。受け取った可愛らしい巾着は、ずっしりと重い。


「これは?」
「あ、あの、差し入れのおにぎりです。おにぎりといっても、ラップで包んで丸めたから触ってません! 部活後はお腹がすくって言ってたので、よかったら……。いらなかったら捨ててください! それじゃ!」


 早口で言い切った名字はお辞儀をして走っていってしまったが、数メートル走って振り返って、またお辞儀をした。
 名字が教室に入ったのを見てから巾着を開く。そこには数口で食べてしまえるような小ぶりのおにぎりが何個も入っていて、朝から頑張って作ったんだとすぐに想像できた。
 ひとつ取り出して見てみると、おにぎりにふせんが貼ってあるのが見えた。そこには「ツナマヨ」と書かれていて、もうひとつには「チーズおかか」と書かれている。気になってほかのも見てみると「牛カルビ」「昆布」「そぼろ」と、全部違う具が書いてあった。

 ……全部違うものを作ったのか。こんな中途半端な関係で、名字のことなんてあまり考えていないオレのために。


「……ちょっときた……」


 ときめきと申し訳なさが同時に来て、名字に告白されたとき以来、はじめて名字のことで頭がいっぱいになった気がした。
 名字と話すときはだいたい青八木がいて、会話のキャッチボールだって1、2回しただけで名字が満足して切り上げてしまうから、彼女のことを考える前に終わってしまう。
 自転車に乗っているときはもちろん、乗っていないときだってオレの頭はロードバイクのことしか考えていない。名字はオレのことを考えてくれているのにだ。

 ――きちんと考えよう。少しでもいいから名字のことだけを考える時間を持とう。
 そう決意して階段を上がると、廊下にいた青八木とばったり出会った。お弁当を持った青八木はノートを持っていて、今日の練習メニューを決めようと約束していたことを思い出す。


「……純太、嬉しそうだな」
「えっ」


 慌てて自分の頬に手を当ててみると言われたとおり緩んでいることに気付いて、顔を隠したくなった。こんな顔、恥ずかしくて青八木にも見られたくない。



chapter3 手嶋純太2

「えっ名字って今泉と同じクラスなのか?」
「はい。言ってませんでした?」


 首をかしげる名字を見たのは、もう何度目かになるおにぎりの差し入れを受け取ったときだった。
 差し入れがおいしくて嬉しかったと伝えると名字は喜び、週に一度、中だるみしやすい木曜に差し入れをするようになっていた。大変だろうからおにぎりの具は同じでいいと言ったのだがいつも違う種類の具がふたつはあるし、さらに鳥のからあげと卵焼きが入るようになり、それがまた美味しいものだから名字の「大変じゃない」という言葉に甘えてしまっている。
 差し入れを受け取るだけじゃなあ、と思って名字を引き止めたのは二度目の差し入れのときで、それ以来名字とは一週間で一番長い会話をするようになっていた。
 仮の恋人になってもう二ヶ月近くが経つ。名字はオレと話すときに吃らなくなったがあまり目が合わないのは相変わらずで、オレが名字を見ていないときに視線を感じてそちらに目をやればもう視線は外れている。


「同じクラスとはいっても、今泉くんと話したことはあんまりないんですけどね」


 差し入れへのお礼である紙パックのジュースを飲みながら、名字は自分のコミュニケーション力の低さを自嘲するように笑う。吸い込むのをやめたストローの中でジュースが行き場をなくしたように止まり、すぐに紙パックの中へ落ちていった。
 名字が今泉と同じクラスだということは驚きだった。顔がよくてロードバイクに乗れば速くて、1年にしてインハイメンバーの座を勝ち取り、あの金城さんのあとを継いだエース。どう考えたってオレより今泉のほうを好きになるだろうに。
 すこし迷ってから、この会話なら不自然ではないとずっと気になっていたことを聞いてみることにする。


「なんでオレを好きになったんだ? 話したこともねえし、今泉と同じクラスならそっちを好きになりそうなもんだけど」


 名字は顔を赤らめてすこし躊躇ったあと、まるで自分の大切なものを見せるように、いつもよりすこし小さな声で話しだした。名字のひとみは目の前の景色を見ているようで見ていなくて、過去の光景を思い出しているのだとわかった。


「……総北に入学してすぐ、裏門のきつい坂を手嶋さんが登っているのを見たんです。苦しそうでつらそうで、こぐのをやめたらいいのにって思いました。手嶋さんは登りきったあと、タイムを確認して悔しがっていたんです。……その一週間後に、また手嶋さんを見ました。今度は青八木さんと登っていて、青八木さんはタイムが縮まったって言ったのに、手嶋さんは全然嬉しそうじゃありませんでした。満足してなかったんです。……どうしてか、それから気になって……学校で見る手嶋さんは普通の男子高校生みたいで、笑ったり眠たそうにしてるのに、自転車に乗ると悔しがって上を目指してあがいていて……その、とっても素敵な人だなって……」


 みるみるうちに名字の顔が赤くなっていき、それと比例してうつむいていく。赤い顔を見せられないんだろう。それはオレも同じだから、名字がうつむいてくれてよかった。情けないほど赤くなった顔は、名字の想像する「素敵でかっこいい人」とは程遠いに違いない。

 ……こんな調子で名字から全面に押し出される「手嶋さんが好き」という感情を受け取っていたおかげで、オレは名字にとって一番親しくて一番好かれている人物なんだと疑ってなかったし、そうじゃないかもしれないとは考えもしなかった。名字が笑って話すあの日を見るまでは。
 その日は名字の差し入れの前日で、週に一度の楽しみを待ち遠しく思っていた時のことだった。木曜は名字の作るそぼろおにぎりを食べるために頑張っていると言っても過言ではない。
 移動教室で音楽室へと移動するときに何気なく窓の外を見ると、ジャージを着た名字が外に出るのが見えた。大きめのジャージを買ったんですけどまだかなり大きくて、といつか名字が話したように、袖や足のところが何回か折られている。名字のまわりには友達らしき人物が3人いて、名字の話を思い出しながら名前を当てはめていると、校舎から一人の男子生徒が走り出てきた。
 遠くて顔がよく見えないそいつは名字に話しかけ、軽く背中を叩いていた。体がざわつき、奥底から何かの感情が湧き出てくる。名字はそいつに笑いかけ、話し、むくれ、笑う。オレの前で見せる、緊張と照れと誇らしさが混じったような笑顔じゃなかった。ありのままの、素顔の名字だった。


「おーい手嶋、行こうぜ」


 クラスメイトに声をかけられ、反射的に歩き出す。窓の下を見ると名字はもう女友達と話しながら歩いていて、さっきのことは日常の一部だというように気にしている素振りもなかった。そこがまたオレに対する態度とは違って、どす黒い感情が体の隅々まで行き渡った。指先を動かすと、爪先から嫉妬がこぼれ落ちて道しるべになりそうだ。
 ……名字は悪くない。オレが名字を受け入れてないくせに。

 その日は、部活を終えてもいくら愛車に乗ってもドロドロとした嫌なにおいがしそうな感情は薄まっても消える気配はなくて、胸の底にたまり続けた。青八木が心配そうに見てくるけど、こんなこと部活中に言えるわけもない。
 部員が全員帰ったあと、部室に鍵をかけて青八木とふたりでロードバイクを押しながら歩く。このまま何事もなく家に帰って風呂に浸かってベッドに横たわって寝れば、明日にはこの感情も薄まっているかもしれない。だけど青八木はそんなことさせてくれなくて、部活が終わったんだから早く話せとばかりに視線で急かしてくる。
 青八木だって興味本位で聞いているわけじゃない。青八木にはわかってるんだ、明日になってもこの感情はなくならないってこと。薄くなるどころか濃く大きくなってオレの身体を動かそうとするってこと。


「……名字か」
「まあな。いやー、なんていうか、オレだったら本命の子に仮の恋人でいいなんて言えねえなーと思ってさ。名字は真剣かもしんないけど、ほかにキープくんでもいるんじゃねえのかな」


 嘘だ。そんなこと思ってない。
 頭に浮かぶのはあの親しげな男子で、名字の飾っていない笑顔が目の前でちらちらと揺れる。オレにはそんな顔を向けてくれたことはない。いつも緊張したように体をこわばらせて、青八木とのほうがよっぽどリラックスしてしゃべっているのを知っている。


「純太……」


 青八木の声にはすこしばかりの非難と、オレらしくない言動を心配する気持ちが詰まっていた。
 主将になってから弱音は吐かないようにしてきた。上はいつも余裕がありどんな事態にも対応できるように見せておかないと、下が安心できない。こんなことを言うのは青八木とふたりきりのときだけで、部活と学業さえも両立しきれていない凡人のオレにとっては、恋まで抱えるのは無謀だということか。

 角を曲がると暗がりの中に何かがいて、びくりとして立ち止まる。それが人だとわかって安心したのも一瞬に満たない間で、その人物が名字だとわかると心臓に氷水をかけられたみたいに全身がこわばった。
 ……いまの会話を聞かれていた。この距離なら確実に。
 そう思ってなにか言い訳しようと思ったが口から出てくるのは浅い呼吸ばかりで、よく回るほうだと自負している口もいまは人形のように動かない。名字はオレを見て笑った。


「お疲れ様です、手嶋さん、青八木さん。勝手に待っていてすみません」
「い、や……」
「練習が終わったあとで悪いんですけど、すこしだけ一緒に帰れませんか? 寄りたいところがあって」


 青八木がオレにアイコンタクトをしてくる。名字に知られたくない感情に押し出された発言をきちんと説明するには今しかない。
 青八木に礼を言って別れて、名字とふたりで歩き出す。名字はいつもより饒舌で、楽しそうに話した。


「手嶋さんがおにぎりを楽しみにしてくれてるって知ったとき、本当に嬉しかったんですよ。また自分の気持ちを押し付けたと思ってましたから」
「本当にうまかったよ。そぼろは普通に好きな程度だったんだけど、名字が作ったやつ食べてから好物になったな。あれどうやって作ってるんだ?」
「企業秘密です」


 さっきのことを話そうと思いながら、この楽しい会話を続けていたくて尻込みすることを繰り返す。あの話をしたら、もうこんな雰囲気で話すことはないだろう。それがわかっているからまた笑顔の名字に甘えて、もしかしたら聞こえていなかったんじゃないかなんて嘘だとわかりきっている絶望にすがりそうになるのを何とかこらえる。
 名字はさりげなくオレを誘導しながら、学校からさほど離れていない公園のなかに入った。間に合ったと名字が駆け寄ったのはクレープ屋で、閉店間際らしく洗い物をしている店員に声をかけた。


「手嶋さんはなに食べますか?」
「腹減ってんだよなぁ。照り焼きチキンひとつと、名字は?」
「生クリームといちごのにします」


 名字のぶんもお金を払い、クレープを持って近くのベンチに座った。制服越しでもわかるベンチの冷たさに身を縮める。名字の座るところになにか敷いてやろうと思ったが、汗まみれになったジャージとタオルしかなかったから諦めてベンチがあたたまるのを待つことにした。
 名字がクレープにかじりつく。おいしそうに目を細める姿を見てオレもクレープにかじりつき、部活で空っぽになった胃にメシを送る。


「わがままに付き合ってくれてありがとうございます。わたし、こうやって好きな人とクレープ食べてみたかったんです」
「おー」


 なんでもないような返事をしながら、心臓は激しく脈打っている。名字はゆっくりと味わうように食べながら、珍しく合間にあれこれと話を振ってきた。


「二週間前の体育のとき、面白かったですよね。グラウンドの向こうで手嶋さんも体育をしていて、サッカーする今泉くんに声かけてわざと蹴るの失敗させたりして」
「まさかあそこまでうまくいくとは思わなかったけどな」
「今泉くんの顔、面白かったなあ。手嶋さんはテニス上手でしたね」
「器用貧乏ってやつなんだよ」


 ゆっくりと名残惜しそうにクレープを食べ終えた名字が立ち上がる。
 そういえばふたりきりで帰ったのは初めてだ。名字はいつもオレに遠慮していて、部活が終わるのを待っていたのは一度だけだった。あとは昼休みだとか休み時間だとか、そういったわずかな時間に偶然を装ってやってきては数分程度話すだけで満足してしまって、オレが名字について知っていることは数えられるほど少ない。
 ……そうだ、謝らなくちゃいけない。楽しい時間ももう終わりだ。あのことを説明するにはオレの醜い感情もさらけ出さなくちゃいけなくて、どこまで話せばいいか躊躇するが話さないわけにはいかない。
 楽しそうに話す名字は不意に立ち止まって、一軒の家の前で立ち止まった。


「ここ、わたしの家なんです。ここまでついてきてもらってすみませんでした」
「あ……オレ、名字に」
「手嶋さん、ありがとうございました。すごく楽しかったです」
「え……あ、名字」
「さようなら」


 決意して開けた口は、名字に優しく、でもきっぱりと塞がれる。出ようとした言葉は中途半端なまま喉に引っかかって、もうなにを話そうとしたのか思い出せもしない。
 名字がお辞儀をして手を振ってくるのを見て、もう話せそうにないとキャノンデールにまたがる。名字はやんわりと、オレにわかるように拒絶した。こんなときに話してもいい結果はうまれない。
 名字に手を振り返して走り出して、心のどこかでほっとしているのに気付いて愕然とした。話すつもりだったのに逃げていた。直視すると、自分の内からあふれでようとするものを直視してしまうから。
 呆然としながらペダルを回していると、まだ引っかかるものがあることに気付いた。慎重に、壊さないように手探りでその形を確かめていく。

 ――さようなら。
 名字がいままでこの言葉を使ったことがあるだろうか。いつも嬉しそうに噛みしめるように「また明日」と言い、オレはそれに頷く。そうすると名字は明日もオレに会いに来ていいんだと言われたように顔をほころばせて笑い、まるで宝物を受け取ったように胸の前で手を重ねるのだ。
 それに気付いたとき、急ブレーキをかけてターンしていた。急いで名字と別れた場所まで戻る。どんなに醜くても、オレの感情はオレのものだ。きちんと名字に言わなくちゃいけない。

 だけど別れた場所には名字はいなくて、当然だと言えば当然だろうと乱れた息を整える。家に入るにはじゅうぶんな時間があった。
 電話でもしようか、でも名字の番号はおろかメアドすら知らなかった。いっそのことチャイムでもならしてみようか。落ち着き無く爪先をコンクリートに叩きつけていると、ふっと表札が目に入った。
 ――芝土。
 表札には芝土と書いてあって、名字ではない。頭が現実を受け入れる前に体が一気に冷えて、目だけがせわしなく動く。

 ……ここは名字の家ではない。ではなぜ名字はここが自分の家だと嘘をついたのか? そんなの決まってる。
 それ以上は考える間も惜しんで、携帯を取り出して今泉に電話をかける。数コールして出た今泉の声なんか聞かずに自分の質問をぶつけた。


「今泉! 名字の連絡先知ってるか!?」
「え……は? 知らないんスか?」
「知らねえよ!」
「え……あの、オレ、けっこう前に名字に手嶋さんのアドレスと電話番号教えたことがあって。勝手にすみません。彼女だと思ってて、オレより早く会うだろうって割とどうでもいいことを伝えるように頼んだら連絡先知らないっつーことがわかって、それならって。だから名字から連絡したもんだと思ってたんですけど……」


 それ以上今泉の声は聞こえなかった。名字が連絡をしてこないのは、話かけるのは一日二度までと決めているのと同じようなものだろう。
 拒絶した名字。弁解すらさせてもらえなかった。初めて聞いたさよなら。名字のなかでオレとの関係が静かに終わったことがわかって、目に映る景色から色がなくなっていく。
 ……そういえば名字はいつも今日あったことを話したりオレのことを聞いてくるのに、今日は昔話ばかりしていた。
 それが名字なりの別れなのだと考えついたとき、手から携帯が滑り落ちた。それはアスファルトに当たったはずなのに、音は聞こえなかった。



chapter4 名字名前2

 手嶋さんの迷惑だということはわかっていた。告白したときにはっきり言われたからだ。優しい手嶋さんに甘えて、笑顔を向けてくれるのが嬉しくて、踏ん切りをつけずにずるずると儚い幸福に浸っていた。だけど、それももう終わり。
 キープくんなんていない。手嶋さんが好きだから、わたしのことを好きになってもらえなくても関わっていたかった。だけど人には人の考え方というものがある。わたしの言動は、手嶋さんにとっては理解しがたいものだったんだろう。

 わたしのなかで手嶋さんと別れを告げた日からなんとなく教室に居づらくて、休み時間になるたびにゆっくりと外を歩くようになった。たまに手嶋さんが今泉くんに部活のことを言いに来ているのをずっと見ていたし、あの教室には手嶋さんへの思いが詰まっているようで息苦しかった。
 手嶋さんと会わなくなってもう三日がたつ。当然のように手嶋さんが会いに来ることなんてないし、手嶋さんがよくいる場所に行かなくなれば姿さえも見ることはない。
 昼休みが始まってすぐ、友達に断りを入れてまたひとりで教室をでた。食欲はないけど持ってきたお弁当が重さを増して、持っていることさえ苦痛に感じてくる。
 今日はどこに行こうかと左右を見てぼんやりと決めているとき、うしろから控えめな、話しかけることを躊躇するような声が聞こえてきた。


「……名字。すこしいいか」
「今泉くん? どうしたの?」


 彼から話しかけられるなんて珍しい。昼休みになって人の出入りが激しくなったドアの近くから離れ、廊下の端に並ぶ。窓から元気な生徒が騒いでいるのが見えた。


「その……手嶋さんと何かあったのか?」
「いきなりどうしたの?」
「数日前、手嶋さんから名字の連絡先を教えてくれって切羽詰った声で電話があったんだ。あの人があんな声出すのなんて聞いたことがない。それから名字と手嶋さんが一緒にいるのを見かけないから……おせっかいだとはわかってるが」
「何もないよ」


 そんなことはないだろうという顔をする今泉くんに、わざと驚いてみせる。万が一わたしと付き合っていたなんて思われたら、手嶋さんに迷惑がかかる。手嶋さんにそんな気はなくて、わたしが気持ちを押し付けただけなのに。
 そのとき、後ろからもう何度も聞いたことのある声がした。


「え、今度は手嶋くんじゃなくて今泉くんに手を出すんだ」
「しょうがないよ、だってこいつだよ? 手嶋くんの迷惑だってわかってて付きまとうんだもん」


 うつむくわたしとは違い勢いよく振り返った今泉くんは、視線で人を殺すなら殺してみせると言わんばかりの眼光で後ろを通った二人組を睨みつけた。思わぬ反撃に体を震わせたふたりは、そそくさと足早に去っていく。


「……いまの、手嶋さんは知ってるのか?」
「知らないから、絶対に言わないで。あの人たち、わたしが告白したのを聞いてたみたいで……手嶋さんのこと、好きなんだと思う。わたしのこと嫌いな気持ち、わかるから」


 告白さえ出来ずに終わる恋が辛いことは、ほとんどの女子が知っていることだ。嫌味は忘れた頃に言われる程度だし、あんな告白をしてすがりついたわたしのことを憎く思って当然だ。
 だけど、これを言われたあとに手嶋さんにあんなことを言われるのは辛かった。あの日泣きたいのをこらえて笑いながら一緒に帰りたいだなんて手嶋さんに言ったのは、これで最後だと心のどこかで諦めたからだ。わたしはきっと、手嶋さんの心の一部にも触れられない。


「もういいの、心配してくれてありがとう。誤解しないように言っておくけど、わたしと手嶋さんは付き合ってないよ。わたしの我侭に、手嶋さんが付き合ってくれてただけ。本当に……もう」


 涙がにじんで目の前がかすんでいく。手嶋さんを諦めたくなかった。だけど臆病なわたしの心はこれ以上傷つくのを恐れていて、またチャレンジするには時間が必要だと言っている。
 涙が流れる前にと制服の裾でぬぐうと、勢いよく手首を掴まれた。


「名字!」
「て、しまさん……!? どうしてここに……!」
「なんで泣いてんだ!? 今泉、お前……!」
「違いますよ!」


 慌てて首を振る今泉くんを見て、手嶋さんは気が抜けたように体の力を抜いた。バツが悪そうに頭をかいてわたしを見る。


「……そうだよな。オレだよな。悪い、いま少しいいか」


 そんなふうに手嶋さんに言われては断れない。諦めようとしたはずなのに嫌われたくはなくて、助けを求めるように今泉くんを見たけどさっさと行けと言われてしまってのろのろ歩き出す。
 手嶋さんは後ろを歩くわたしを気遣いながら外に出て、人気のない場所まで行くといきなり頭を下げた。


「すまん!」
「えっ……」
「本当に悪かった」


 手嶋さんがなにを謝っているかわからず、理由を聞くのも怖くて黙り込む。もしわたしの気持ちに対して謝っているのなら、諦めた恋心にこれ以上追い討ちをかけないでほしい。
 なにも言わないわたしに話してもいいか許可を得たあと、手嶋さんはようやく頭をあげてくれた。


「三日前、オレの話聞いてただろ。……あの日、名字と仲がいい男子がいるのを見て、嫉妬したんだ。名字はオレが好きなのにって。オレが名字を突き放してるくせに独占欲丸出しで、すげえ嫌な気持ちになって……だから、思ってもないことを言っちまった。言うべきじゃなかった。許してもらえるとは思ってない。……本当に、悪かった」


 手嶋さんがなにを言っているかわからなくて呆然と立ちつくす。そんなことを言われると期待してしまう。諦めきれなくなってしまう。


「それと、名字の気持ちを知っていながら甘えて結論を出さずにいて、悪かった。1年に負けるオレがインターハイ連勝を狙うだなんて重すぎて、だけど背負う覚悟をしたから逃げようだなんて思わなかった。そのうえ名字にまで割く時間がないと思い込んでたんだ。名字の好意に甘えて、オレばかり都合がいい関係から進もうとしなかった。ごめんな」
「そ、んな……わたしから言ったんです。手嶋さんが気にすることじゃないです」
「その三。もうオレの気持ちは決まってたのに、自分で気付かないふりをしてた。名字ならオレが引退するまで待ってくれるんじゃないかって最低なことを考えてた。名字がオレのことを好きじゃなくなるのも当然だ」


 そんなことはない。今だって手嶋さんにふれたくて仕方ないのに、言葉を発してしまえばこれが都合のいい幻だって気付かされそうで話せないでいる。忙しい手嶋さんに自分の気持ちを押し付けて、最低なのはわたしのほうだ。


「まだオレにチャンスがあるなら、もう一度オレと、正式に付き合ってほしい。名字が好きなんだ」


 手嶋さんの言葉が空耳じゃないかと何度もまばたきをしたけど目の前の手嶋さんは消えないどころか見たこともない表情をしていて、どんなに頑張ってもわたしの想像じゃこんな手嶋さんを作り出せないと結論がでたところで、目の前の手嶋さんが苦笑した。


「駄目だよな、やっぱ……」
「あ……いえ……」


 自分でも間抜けな声だと思った。どう答えればいいかわからず夢心地でふわふわしたままなのに涙があふれてくる。涙の向こうで手嶋さんが慌てているのが見えた。


「ごめんな、嫌だったよな!」
「いまの本当、ですか? 同情とか、そういうのじゃ……」
「同情じゃない! 同情じゃ、ない。……名字が好きなんだ。名字がもうオレを好きじゃなくても、オレは名字を好きなんだ」


 夢かと思った。だけど手嶋さんは消えなくて、揺らいだ景色の向こうにちゃんといる。泣きながら頷いた。
 手嶋さんが何度も確認してくるたびに頷いて、わたしの気持ちが変わっていないことを確認するとくしゃっと情けない顔で笑った。それがまた愛しいと思うだなんて、恋はなんて盲目なんだろう。


「名字が、好きだ……」


 ため息とともに思わずこぼれ落ちた言葉は大きく開いた胸の穴をふさいで、穴に入りきらなかった愛が溢れ出した。この瞬間に手嶋さん以外いらないと思ってしまったわたしは単純で愚かで、でもこれが確かな気持ちなんだろう。


return


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