今泉俊輔が名字名前というクラスメイトを知ったのは同じクラスだったからではなく、噂をよく聞くからだった。自分から積極的に友人を作ったり人に話しかけない今泉が名前を覚えるくらいには名前は有名だった。
 名前の名前が生徒の口から出るのは、なにもその美貌のせいだけではない。たしかに名前は見るものを振り返らせる美貌を持っていたが、それを際立たせるように冷たかった。
 お近づきになりたいと話しかける男子生徒はまるで存在していないかのように無視をしていたし、同じように下心を持って話しかける女子も無視していた。名前が反応するのは、先生の声や純粋な声かけのみ。たとえば、消しゴムが落ちたから拾って渡したとか、肩がぶつかって謝っただとか。
 入学してそれほど時間は経っていないのに、名前のあだ名は数多くあった。今泉が知っているのはそのうちの一つ二つだけだったが、どれも冷たいあだ名で、本人が知ればいい気持ちにはならないものばかりだった。
 今泉は偶然話しかけたと思っているが、話しかけるための下準備はすっかり済んでいたわけである。

 ざわめきに満ちた休み時間の教室で、ひとりは嫌だと思いながら寝たふりをして過ごしている生徒は一定多数いるだろうが、少なくとも名前と今泉はそれに分類されなかった。ふたりとも好んでひとりでいるのであって、親しい友人と話すならともかく、ひとりにならないようにと気を遣って誰かと話す気などさらさらない。
 名前はいつも本を読んでいて、紙の世界にのめり込んで授業が始まるチャイムを聞き逃すこともあった。名前と本は、よく似合った。

 お手洗いを済ませて教室に戻ってきた今泉は、ふざけあう生徒を避けるためにいつもと違うルートで自分の席へと戻る途中、ふと名前が目に入った。今日は深緑色の表紙の本を手にとっている。
 小さめの文字で書かれたタイトルは知らないもので、どのジャンルなのかもわからなかった。白く細い指がページをめくって、文字をなぞり、すぐに次のページをめくれるように人差し指を紙のあいだに差し込む。名前と目が合った。


「……本を読んでいるあいだは、静かなのか?」


 自然と出た問いに名前の目がわずかに揺れたが、一番驚いているのは質問した今泉だった。こんなことを聞くつもりはなかったし、どういう意味か聞かれて自分にしかわからない感覚を説明する気もなかった。
 レースで走るとき、先頭はいつも静かだった。自室でひとりでいる時間でもなく、授業で問題を解いているときでもない、レースで先頭にいるとき。観客の応援や風を切る音、後ろから追いかけてくるタイヤとアスファルトが擦れる音が聞こえているはずなのに、どこよりも静かで何よりも気持ちいい。
 名前にとってその感覚を得るのは本なのかと思ったが、それをなぜ聞いてしまったのかはわからなかった。理由を言えというのなら、目が合ったからだとしか言いようがない。
 名前はしおりも挟まずに本を閉じて、今泉を見上げた。名前の睫毛が長いということを、そのとき初めて知った。


「あなたは静かな時があるの?」
「ロードレースで先頭を走っているときだ」
「ロードレース?」
「ロードバイクでレースをする。それをロードレースという」
「細くてカゴのない自転車で?」
「ああ」


 名前がここまで会話をしたのは、教師を除き今泉がはじめてだった。当の今泉はそれを知らず、授業以外ではじめて聞く鈴のような声が頭で響いているような感覚を味わっていた。透明感のある声はどこか愛車で走っているときの心地いい風の音に似ていて、いつまでも聞いていたくなる。


「それ、わたしも乗れる?」
「乗れるんじゃないか」


 名前の身長は低くはない。
 名前はしばし考えこむように一箇所を見て、ひとりで納得したように頷いた。


「あなた……えーと……村上くん?」
「今泉だ」
「いまいずみくん。あなたのロードバイクに乗ってみてもいい?」
「別に構わないが」
「そう。じゃあ昼休みに」


 それきり興味が今泉から読みかけの本に移った名前は、本を開いて読みかけの箇所を探し始めた。勝手に予定を決められた今泉はあっけにとられていたが、名前がもう本に没頭しているのを見て黙って自分の席へと戻ることにした。ロードバイクに乗りたいと気まぐれで言ったことは明らかだったし、もしかしたら昼休みには自分の言ったことを忘れているかもしれない。

 そう思っていたものだから、昼休みになったとたん名前がやってきたのは予想外だった。まだ教科書を片付けている最中に来た名前はお弁当の袋を持ち、無言で今泉を急かす。


「今すぐ乗るのか?」
「もう昼休みよ」
「弁当」
「あとで」
「……わかった」


 どう言っても引きそうにない名前に折れて、ロードバイクが置いてある部室へと移動することにした。昼休みに部員がいることは珍しくはないが、こんな早くから誰かがいるとは考えにくい。
 部室を開けロードバイクを取り出し、名前が乗れそうな位置にサドルを下げる。乗れればいいだろうと適当に位置を調整し、名前に乗るように促した。
 大人しそうな顔からは想像できないほど大胆に脚をあげた名前に、思わず顔をそらす。スカートがぎりぎり守ってくれたからいいものの、もうすこし背が低ければ見えてしまったかもしれない。


「……おまえ、もう少し気をつけろよ。ロードバイクはスカートで乗るようなものじゃない」
「え? ああ……大丈夫、下着はいてないから」
「はっ!?」


 今泉が赤くなって動きを止める。サドルに腰掛けた名前は、珍しく赤くなってたじたじとしている今泉を見て、相も変わらず真顔のまま覗き込むように首を動かした。


「冗談よ。アメリカンジョーク」
「……どこがアメリカンなんだよ……」


 脱力した今泉を気にとめず、名前はロードバイクに初めて乗るとは思えないほど軽やかに走り出した。ふらつく場面もあったが自力で立て直し、初心者とは思えないほどスピードを出し、ターンをした。
 自転車からおりた名前は表情こそ変わっていないもののどこか晴れ晴れとしていて、今泉の愛車であるスコットを爪先で愛しそうになでながら名残惜しそうに持ち主へと返す。


「放課後、部活が終わってからまた乗ってみてもいい?」
「構わないが、スカートで乗るのはもうやめろよ」


 自転車が部室に戻されるのをじっと見ていた名前は、今泉が歩いてきて横に並ぶのを待って歩き出した。どうやら一緒にお昼を食べるつもりらしいと今泉が気付いたのはずいぶん先で、一緒にお昼を食べたいのはロードバイクの話を聞きたいからだと気付くのはもっと先のことだった。

・・・

 名前にとって、本とは自分の部屋のようなものだった。真っ白で静かでドアはなく、開け放した窓からはいま読んでいる本の物語が広がっているのが見える。
 広すぎず狭すぎない心地いい部屋では、悪口も噂も聞こえない。知ろうと思ってもいない名前のことを想像して噂したり、顔だけ見て話しかけたり、勝手に期待して勝手に落胆したりしない。風はときおり、好きな本を読んでいるときに吹くだけ。
 そんな世界で暮らしていた名前に、今泉の一言は雨のように染み込んだ。本を読んで自分の部屋に閉じこもっているときだけ静寂だと感じるこの心は、誰かに理解されるどころか話しても意味がわからないという顔をされるばかりだろうと思っていたのに。
 顔がいいから話しかけられたわけではないことがわかった。静かで心地よくて、でも変化もなく誰も訪れない部屋。傷つくと部屋に閉じこもって、もう二度と外に出るもんかと思う。だけど、寂しかった。どうしようもなく孤独だった。
 今泉の言葉を聞いたとき、その部屋に閉じこもっているよりも、自転車で外を走るほうがいいんじゃないかと思った。同じ孤独なら、部屋のなかで膝を抱えているよりも自転車で走って四季を感じたい。

 名前のなかで劇的な変化が起こっているとわかるのは名前だけだった。外見はなにも変わらない。名前を深く知る者がいないから、珍しくテンションが上がりっぱなしで鼻歌でも歌いたい気分なことに誰も気付かない。
 ただひとり、今泉を除いては。

 名前に自分と同じようなものを感じていた今泉は、部活が終わって早々やってきた名前を見て、どことなく高揚していると気付いた。いつも教室で見るよりも浮かれている。
 名前が来たことで驚き騒いでいる部員に話しかけられる前にと、愛車のサドルなどの位置を調整して名前のもとへと転がしていった。もちろん、部活後にロードバイクに乗ってみたい生徒がいるから乗せてもいいかと、事前に金城に確認済みである。


「えっスカシのお客さんなん!? やるやん自分!」
「うるさい。そんなんじゃない」


 いつものように騒がしい鳴子も目に入らないくらい、名前はロードバイクに魅入られていた。放課後が待ち遠しく、ロードバイクのことばかり考えてジャージに着替えるのを忘れてきたほどだ。
 さっそく乗ろうとする名前を見た今泉は、白い脚がむき出しなのを見て声を出した。


「おい、スカートだぞ」
「きちんと下着をはいてないから安心して」
「ぶふっ!」


 ドリンクを飲もうとしていた鳴子が吹き出した。あちこちで咳き込む音や驚く声が聞こえ、名前のスカートに視線が集中する。今泉は指先で眉間を押さえ深いため息をついた。


「真顔で冗談を言うのはやめろ」
「ブリティッシュ・ジョークよ」
「どこがジョークなんだ。乗るなら早く乗れ」
「その前に、洗濯ばさみはある?」


 寒咲から洗濯ばさみを受け取った名前は、スカートの真ん中を洗濯ばさみでとめてキュロットのようにして、これでいいでしょうというように今泉を見た。今泉は今度こそ頭を抱え、なにかを言ってやろうかと思ったが、言えば父親かと鳴子にツッコまれそうな内容だと口を閉じた。


「……わかった、好きに乗れ。壊すなよ」
「わかった」


 スコットにまたがった名前は、風が吹くまま気の向くまま、ペダルを回して好きな方向へと走っていった。すぐに小さくなった背中を見て、今泉はグローブを外した。
 名前が愛車に乗っている以上、何かあったときのためにここを離れるわけにはいかない。練習をしたいが、ロードバイクはない。そして後ろから突き刺さる好奇の視線。長い放課後になりそうだと、息を吐きだした。

・・・

 それから名前は今泉に話しかけるようになった。初めてロードバイクに乗った日から一週間後に今泉と色まで同じロードバイクを買い、わからないことを尋ねるようになったからだ。
 とはいえ、名前も口がよく回るわけではない。今泉に聞きたいことを聞いたりしゃべり疲れると、黙り込んで景色を眺めたり本を読み始めたりする。不機嫌になったわけではなく、自分の世界を大事にしているだけだということが今泉にはよくわかった。

 名前と今泉は、似た者同士だった。話さずとも考えていることがなんとなくわかるせいか、今泉は少しのあいだで名前のことをたくさん知ったように思えた。
 たとえば、人の名前を覚えるのが苦手だということ。今泉の名前もようやく覚えたところで、クラスメイトの名前は一人として覚えていない。先生に話しかけやすいのは、名前を生徒として見ているからと「先生」と呼べばいいところ。
 うるさいのは嫌い。青が好き。冗談を言うけど、真顔だから冗談と思われない。顔がいいからといって話しかけてくる人間は大嫌い。


「こんなことを言ったら怒られたり贅沢だと言われるだろうけど、こんなにいい顔はいらなかった。外見で判断されずに、好きだと言われたら、すぐに性格で好きになってくれたんだと思えるような顔が良かった」


 そう言う名前の気持ちが今泉にはわかった。見て欲しいのは内面で、ロードレースをするのに顔は関係ない。むしろ邪魔なことも多々あった。だから、名前の寂しさもよくわかる。
 名前が今泉と話すことが多くなると、必然的に小野田や鳴子と話す場面も増えた。名前は騒がしい鳴子が苦手で、まだふたりの名前すら覚えておらずそこまで興味もないようだった。
 それに優越感を抱いた。この学校で名前と一番仲がいいのは自分だと思うと気持ちが高ぶった。名前と話すと居心地がいいのにどこか緊張して心臓が活発に動く。

 この感情を知っている。だが今はロードバイクでいっぱいだったし、なにより名前が今泉のことをどう思っているかまったくわからなかった。それでもいいと踏み込めるほど強くはなかった。
 部活が休みの日に、名前とサイクリングにもいった。昼休みにそれぞれ本を読み、小テスト前には範囲を確認し、珍しく名前がお菓子などを買ってくればふたりで食べて甘いと言いあった。
 気付けば名前は今泉の生活の奥深くまで潜り込み、まるで自分のために開けてあったでしょうと言わんばかりに胸の真ん中に入り込んだ。名前が愛しかった。放課後、部活が休みの日にわざわざ教室に残って日直の名前に付き合うほどには、一緒にいたいと思うようになっていた。


「いつも思うんだけど、日誌って意味がないのよね。これって教師が望むことを書かなきゃ、やり直しか要注意人物に指定されるだけだし。素直に書いていいなら、黒板の字が汚いとか書くのに」


 くちびるをとがらせた名前は、先生の字が汚いと書いてから消しゴムで消した。消すのか、という今泉の言葉には反応せず日誌を書き終えた名前は、けだるそうに机に突っ伏した。気が向かないことを後回しにしするのは名前の悪い癖だ。


「これ、出してきてやる。だから帰る準備しとけよ」
「自主練習して帰るんじゃないの?」
「して帰る。名字も走るんだろ」
「うん。だけどいつも先に行っちゃうじゃない」
「名字も速くなればいい」


 名前は移り変わる景色を楽しみ、風に交じる涼やかなにおいを感じ取るような走りを好んだ。レースには向かないが、ロードバイク本来の楽しみを最大限引き出すような走り。
 誰よりも速く走りたいという今泉の気持ちは変わらなかったが、名前の走りは見ていて心地よかった。


「準備しておけよ」
「わかった」


 机に突っ伏したまま名前が答える。本当に起きるのかと半信半疑で職員室まで行って帰ってきた今泉が見たのは、出て行ったときと変わらない姿勢で熟睡している名前だった。
 名前が寝ているのを見るのは初めてだった。いつも背筋を伸ばして本を読んでいる名前は学校には仮初めでいるような雰囲気で、ふらりといなくなってしまうような印象があった。
 学校で寝てしまうほど肩の力を抜いていることが珍しく、誰もいない教室に足音を響かせないようにと名前の近くまで歩いていく。いつもどこか暗く闇を孕んだような瞳は閉じられ、睫毛の長さが際立った。起こさないように、寝ていることを確認するように小さな声で話しかける。


「名字……? 寝てるのか?」


 返事はない。起こそうか迷いながら名前の前の席に腰かけた今泉は、ぎこちなく机の上におちる細い髪の毛にふれた。想像通りなめらかで、指のあいだをすり抜けていく。


「──名字。オレは、名字を……」


 そこまで言った今泉は、慌てて自分の口を押さえた。無意識のうちに自分の心を吐き出してしまいそうになっていたことに驚き、背中を冷や汗が伝った。もし名前が起きていれば、きっと蔑みと失望の目が向けられたに違いない。
 名前の髪の感触を忘れるように強く手を握り締めた今泉は、音をたてないように出来るだけ素早く教室から出て行く。すこし頭を冷やさなければ、名前と話せそうになかった。

 今泉が教室を出て気配が遠のいていくのをじゅうぶんに待って、名前は体を起こして頬杖をついた。椅子に座っていた痕跡を残していったあたり、今泉がどれだけ混乱していたかわかる。
 いまは誰もいない空間を見つめて、名前はいつもと変わらない表情でつぶやいた。


「言えばいいのに」


return


×
- ナノ -