わたしがお兄ちゃんと同じ高校に行かなかったのは、中学と同じ苦痛を繰り返さないためだ。
金城真護といえば中学校では有名で、顔よし性格よし成績よし更にさわやかなスポーツマンであったため、大変モテた。本人は誰とも付き合う気がなくロードバイク一筋だったのが、それが実直な性格とあいまって「硬派でステキ」と言われていたのを知っている。ケッ、である。目をハートにしている連中に、家でのお兄ちゃんの姿を見せてやりたい。
お兄ちゃんと同じ学校ですごしたのは一年だけだったけど、そのあいだ大変不快な思いをした。小学校ではみんな優しく、お兄ちゃんがわたしの教室に来てはクラスメイトと話していたためにやっかみはなかったが、中学ともなるとそうもいかない。
お兄ちゃんと仲良くなりたいがために「紹介してくれ」と言われたのは数え切れないほどあったし、やけに優しくしてくれたクラスメイトが暗に「金城先輩がいる食卓で優しくしたわたしのことを話してね」と訴えてくる人もいた。そういうときはいやらしいほど下心が透けているので、こちらもきちんと、その人の存在をお兄ちゃんに知られないように配慮した。
わたしのことを、性格が悪いと言うならいくらでも言えばいい。
こんなことをしなくても、お兄ちゃんはわたしより人の性格やらを見抜くのが得意だから引っ掛かりはしないとわかっている。だけど万が一お兄ちゃんに告白したらフラれるのは確実なので、翌日泣きはらした目をした計算高い女の相手をしなければいけない。それだけは勘弁だ。
もちろん純粋に優しくしてくれる人もいるし、お兄ちゃんの友達もとてもよくしてくれた。だけどそれと同じくらい「金城の妹なら美人だろう」と勝手に顔を見に来ては期待はずれだと踵を返す人がいた。あんなのはもうまっぴらだ。せめてわたしに聞こえないところで期待はずれだのブスだのと言えばいいのに、そういうのに限って聞いてしまうんだからわたしの耳は性能がいい。
わたしの中学校での3年間は、いい思い出と悪い思い出がちょうど半分ずつある。悪い思い出はほとんどお兄ちゃん絡みで、いい思い出にももちろんお兄ちゃんが絡んでいた。
だけど、違う学校だったらもう少し穏やかに過ごせたということは間違いない。同じ家に住んでるんだから、学校までお兄ちゃんといることはない。という決意のもと、家からすこし遠い、元男子校で女子が少ない高校へ入学することにした。もちろんお兄ちゃんについて聞かれればごまかすが、女子が少なければ、万が一お兄ちゃんがお得な優良物件だとわかっても突撃は少なくてすむ。
というわけで今年の春、晴れ晴れとした気持ちで高校の門をくぐり抜けたわけだが、そのときのお兄ちゃんのことは割愛する。あれはとても面倒くさかった。
話をいまに戻そう。
そういうわけで楽しく高校生活を送っていたわたしに、ある日曜の朝、お母さんがお願い事をしてきた。あのお兄ちゃんが財布を忘れたという、中学でも一度もなかったミスをしたから渡しにいってくれという、至極まっとうな理由だ。
お兄ちゃんは、部活中に一番お金を使う。水分補給のためにスポーツドリンクを買ったり、エネルギー補給のためにおにぎりを買ったりと、ロードバイクはとにかくいろんな面でお金がかかるのだ。今日一日財布がないだけで、お兄ちゃんは大変な思いをするだろう。
渡しにいくべきだ。が、届け先がお兄ちゃんの通う高校であるということがわたしを鈍らせた。部員の2年生と3年生には会ったことはある。みんな大変親切で、わたしの心配は杞憂に終わったくらいだ。
だが、1年生とは会ったことがなかった。いや、そもそも自転車競技部だけではなく、日曜とはいえ学校には部活をしている生徒がいるだろう。その人たちにまた同じようなことを言われるかと思うと、お兄ちゃんの財布なんか放り出して自分の部屋に閉じこもりたくなる。
しかし、お母さんはそうはさせてくれなかった。いいから届けてきてと無理やり家から追い出され、仕方なくバスに乗って総北高校まで揺られる。このまま着かなければいいと思うときほど早く着くもので、予定通りついてしまったバスを逆恨みしながら校門をくぐった。
私服なんだから誰か見とがめてくれればいいものを、すれ違った生徒たちは不思議そうに見ながらも何も言わずに歩いて行ってしまった。こんなことならもっと変な格好をしてくればよかった。
自転車競技部の部室についたのは12時半になる頃で、お兄ちゃんに見つからないように神経を張り詰めながら近づいていく。幸いにも最初に会った部員はお兄ちゃんではなく、見たことがない顔からして1年生のようだ。
「すみません、金城さんの財布を拾ったので渡しておいてくれますか」
「え? ああ」
綺麗な顔立ちをした部員は財布を受け取り、軽く会釈をして部室のほうへ歩いていく。ミッションクリア。不自然じゃない程度に早足でその場所から消えようとしたとき、お兄ちゃんがやってきた。しかもロードバイクに乗ってだ。
慌てて後ろを向いて影に寄ったものの遅かったらしい。わたしの名前を呼ぶ声とタイヤが地面を走る音が聞こえてきて、走り出した一歩目で捕まえられた。
「やっぱり、名前じゃないか! ありがとう、覚えていてくれたんだな」
「え?」
「今日は午後からレースをすると言っただろう。予定がなかったら見に来てくれとも。来てくれないかと、ずっと待っていたんだ」
そう言われると、財布を届けに来ただけとは言えなくなる。そんなとき空気を読んだのか読まないのか、さきほど財布を渡した少年がお兄ちゃんに話しかけた。
「これ、さっきそこの人から渡されました。金城さんの財布だって」
「ああ、ありがとう。なんだ、名前は財布を届けてくれたんだな。ありがとう。さあ、部室へ行こう」
まさか部室に行くとは思わず、足を踏ん張るが浮かれたお兄ちゃんには敵わない。片手でロードバイクを持っているくせに、全力で反対方向へ逃げようとするわたしをやすやすと捕まえて引きずっていく。
結局部室まで連れてこられてしまったわたしは、午後のレースに備えてロードバイクの最終確認をしてくると言ったお兄ちゃんをむっすりと見送った。横で田所さんと巻島さんが笑いをこらえている。
「……田所さん。笑いすぎだし助けてくれないなんてひどい」
「まあいいじゃねえか。総北まで来たのは初めてだろ? 金城は、名前に来てくれと誘っては来なくて落ち込むっつーことを数え切れねえくらい経験してきたんだ。一回くらい来てもバチは当たらねぇだろうよ」
「レースはたまに見に行ってたよ」
「そのたびに金城はコースレコード出してたっショ」
「それがなんか気持ち悪いからあんまり行かなくなったけど」
「クハッ、金城をそんなふうに言えるのは名前だけだな」
笑い事ではない。
中学校のときは学校も帰る場所も同じだからかそんなことはなかったけど、高校に入学してからは接点が減り、お兄ちゃんはさみしそうにすることが多くなった。お兄ちゃんは朝早くから朝練に行って、夜ご飯も中学のときより遅くひとりで食べるようになったからだ。
わたしはご飯を食べてお風呂に入って、自室で勉強をする。高校と中学に別れたとたん、お兄ちゃんと話す時間は10分の1以下になった。
「名前、来てたのか。珍しいな」
次に声をかけてくれたのは手嶋さんだった。横で青八木さんが頷いている。
手嶋さんと青八木さんはお兄ちゃんの応援にいったレースで知り合って、田所さんの話で盛り上がり仲良くなった。わたしが今まで出会った人間のなかで結婚するなら間違いなく田所さんを選ぶということを言うと力強く頷かれ、意気投合し、メールアドレスを交換した。ちなみにこの「結婚するなら田所さん」という考えはお兄ちゃんには秘密である。
「お兄ちゃんが財布忘れたから届けにきたの。そうじゃなきゃ来ない」
「そんなこと言うなって。金城さん、仕上げたって言ってたロードの整備をもう一度やってたぜ? 名前と話したいけど、それよりもレースで勝つ姿を見せたいって気持ちが伝わってきたよ。ありゃコースレコード出るかもな」
「えっ、また?」
「ゴールと見せ場を、教える。きちんといてやれ」
「青八木さんまでお兄ちゃんの味方するのやめてよ」
拗ねてみせるが、青八木さんの態度は変わらない。なぜならお兄ちゃんは誰にでも優しくて厳しく平等で面倒見がいい、理想の先輩だからだ。お母さんやお父さんさえ、お兄ちゃんをそう思っている。
世界でわたしだけ、お兄ちゃんに対する感情が違うのだ。それが兄妹というものかもしれない。
本当に帰ってやろうかと思い始めたころ、視界に赤い髪と、眼鏡をかけた地味そうな子、さきほど財布を預けたイケメンくんが現れた。あの地味そうな子は、同じ眼鏡属性の古賀さんと違っていい人そうだ。
「あーっ! あれがグラサン主将の妹か! 似てへん!」
「うるさい鳴子」
「な、鳴子くん失礼だよ!」
赤い髪の子は鳴子というらしい。お兄ちゃんから聞いたことのある名前は、目の前のうるさくしゃべる姿と見事に一致した。わたしに話しかけているのか大きな独り言か、閉じる間もなく口を動かしながら目の前までやってくる。
「なんや、あの主将さんと全然似てへんな!」
「おかげさまで」
「よかったわー! あの顔と似てるなんて、どないな顔やねんって思っとったからな!」
「おかげさまで」
「似てないほうがええわ! いっつも自慢されてる言葉通りや、べっぴんさんやん」
今まで言われたことのない言葉に驚いて、口を半開きにしたまま固まる。お兄ちゃんを知って、そのうえでそんなことを言う人がいるなんて思いもしなかった。
なにか裏があるのかと思ったが、この顔とどこか幼稚な発言からして、それはなさそうだ。もしこの行動が計算されたものなら敵うはずがないから、考えるだけ無駄だ。
いつの間にか後ろに移動していた手嶋さんが、優しく肩をたたいてくる。
「ほらな、大丈夫だったろ」
手嶋さんは、いや手嶋さんだけじゃない、総北の自転車競技部の人は、わたしがどんな感情を持っているか知っている。お兄ちゃんを疎ましく思い、嫉妬し、それでも嫌いになれず、好意を持っていることを感じ取っている。
手嶋さんの言葉は、わたしを安心させるためについた嘘ではない。そんなことをする人ではない。
細く長い息を吐き切り、できるだけいつもと同じ顔をしながら鳴子を見る。どこか張り詰めた空気を感じていたらしい鳴子は不思議な顔をしていたけど、目があったわたしをまじまじを見て、わたしには出来ない顔で笑った。
「ほんま、いっつも自慢されとるんやで。ワイら1年だけ顔知らんし会ったこともないのに、寝顔が可愛いとか好物は生クリームたっぷりのフルーツサンドやとか」
「……お兄ちゃん」
「は?」
「お兄ちゃんから聞いたの?」
「そう言っとるやん」
先ほどまでの安堵をかき消すほどの怒りが、お腹の底からふつふつと湧き上がってきた。握りしめた手のひらに爪が食い込んで痛いのが、すこしだけ冷静にさせてくれる。
その時、ちょうどいいタイミングなのか悪いタイミングなのか、愛車の整備を終わらせて上機嫌で現れたお兄ちゃんを思いきり睨みつけた。向こうから近づいてきたのをいいことに、お腹に拳をめり込ませる。
「うぐっ……! 名前、なにを……!」
「わたしのこと話さないでって言ったでしょ! それが嫌だから違う高校にしたのに、意味ないじゃない!」
「は、話してないぞ……これでも7割ほど減らした」
「10割減らさないと意味ない!」
痛みをこらえながら起き上がるお兄ちゃんは、おそらくかなり妥協したであろう案を言ってきたが、それでいいと言うはずもない。こんなことなら手加減せず思いきり殴るべきだった。
「お兄ちゃんの馬鹿! もうわたしの部屋に入ってこないで!」
「なっ……名前の部屋には入れないなら、誰が名前のお腹に布団をかけてやるんだ」
「そんなことしてたの!?」
「そうしないと腹を壊すだろう。オレが合宿でいなかった三日間、お腹を壊していたことを知ってるぞ」
怒りで体が震える。たしかにお兄ちゃんとは兄妹だけどプライバシーというものはあるし、年頃の乙女の部屋に、それも寝ているあいだに入り込むなんてありえない。
「お兄ちゃんなんて……」
「名前? どうしたんだ?」
「お兄ちゃんなんて嫌い! もう部屋に入らないで! 半径3メートル以内に入ってこないで! 話しかけないで!」
「なっ……!」
お兄ちゃんがショックで硬直したまま動く気配がなくなった。自業自得だ。
まだ湧き上がる怒りを抑えきれず、お兄ちゃんを視界に入れるのも嫌とばかりに思いきり顔を背けた。お兄ちゃんがさらにショックを受けた顔をしたが、それも無視だ。
「だ、だが、女性が体を冷やすと大変だろう……?」
「話しかけないで!」
なぜかお兄ちゃんのサングラスがはずれ、地面に落ちて物悲しい音をたてた。
わたしとお兄ちゃんの喧嘩に慣れている巻島さんは思わず出てしまった笑いをごまかすために「ンッフ」とかいう変な声をあげているし、田所さんも笑わないように斜め上を見上げている。
「お兄ちゃんなんて大っ嫌い!」
お兄ちゃんが雷に打たれたかのごとく崩れ落ち、壊れかけの人形のようにぎこちない動きで手を伸ばしてくる。
そんなお兄ちゃんを見てかわいそうになったのか、ようやく笑いの波が去ったらしい田所さんが咳払いをして、笑ってなんかいないというように話しかけてきた。
「名前の気持ちもわかるけどよ、もう許してやったらどうだ。八つ当たりはじゅうぶんしただろ」
「落ちるサングラス」
「グフッ」
「ン、ンン、名前の気持ちもわからないわけじゃないっショ。だけどこのままじゃ午後のレースにも支障が出る。金城は名前が来ないかって、ずっと楽しみにしてたんだ。アイスでも奢らせて許してやったらどうだ?」
笑いをこらえてなんとか台詞を言い切った巻島さんの横で、満足するまで笑った田所さんがすっきりした顔で頷いた。
……別に、お兄ちゃんを本気で嫌いになったわけではない。心底怒ったけど、本気でこのまま一生話さないと思ったわけではないし、お兄ちゃんの親切はわたしのためだということもわかっている。
「……新しいポーチ」
「名前……?」
「それとアイス買ってくれたら、許してあげる」
「名前!」
「あと、今日のレースで一位とること」
「ああ……! 任せておけ!」
サングラスを拾い上げて嬉しそうに笑うお兄ちゃんを見ると、さっきまでの怒りがしぼんでいってしまう。
お兄ちゃんはやっぱりずるい。お兄ちゃんはきっと、わたしのこういう気持ちをわかっているんだ。
「やっぱり新作のお菓子も追加」
「ああ、帰りに買おう。来てくれてありがとう」
感謝にあふれている優しい言葉と、いつまでたってもわたしより大きな手が頭をなでてくる。黙ってなでられているあたり、わたしもお兄ちゃんに甘い。
だけど違う高校に進学してよかったと思うほどにはひねくれているのであって、この性格ばかりは治りそうにないのだった。
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