「ねえ迅、小屋においてある自転車はもう使わないわよね?」 自転車で消費したカロリーを補うべく一心不乱に夕食を食べていた田所は、母親の問いに頷いた。ロードバイクに乗るまでのほんの短いあいだに乗っていたママチャリは誰も使わなくなって久しい。田所にはもうロードバイクがあるし、両親も車を使う。 「自転車、名前ちゃんにあげようかと思って。名前ちゃん、自転車が壊れちゃってから新しいの買ってないらしいの」 「へえ。……ん? じゃあ、ここまでは……」 「歩いてきてるんだって。さすがにつらいんじゃないかと思ってね」 学校からここまでそれなりに距離があるし、名字はバイトをかけ持ちしていたはずだ。それを今までずっと、歩いてきていたというのか。 「名前ちゃん、自転車を買うお金も節約してるみたいだから……」 心配するような母の声に、なにも言わず聞いていた父親は黙って味噌汁をすする。どうやら父親も了解済みらしい。 母親も父親も、名前を娘のように可愛がっていることは田所も気づいていた。あわよくばお嫁さんに、と夢物語のような淡い期待を抱いているのも。 自営業の息子で高校生になったのに女性より部活に夢中となれば、母親が心配するのもわかる。だが高校生のうちからそんな心配をされても、というのが本音だった。 「迅、明日にでも名前ちゃんに話してみてね。昼休みならゆっくり話せるだろうし」 「おう」 とくになにも考えず返事をした田所だったが、数秒して、明日の朝名前が来ることを思い出した。そのとき一緒にいる母親が言えばいいものを、なぜ自分に頼むのか。 すぐにふたりの思惑に気付いた田所は、恥ずかしさから一瞬拒否しかけて、黙ってお茶を飲んだ。なにも名前を好ましく思っているのは、両親だけではないのだ。 翌日の昼休み、一緒に昼食をとることにしたふたりは、外のベンチに腰かけてお弁当を開いていた。いつも田所と一緒にお昼を食べている金城と巻島の姿はなく、今日は名字と食べると言ったときのふたりの顔は、いま思い出してもむず痒くなる。 「あー……そういえば、おふくろからこれ預かってきたんだ」 名前ちゃんに、と渡されたサンドイッチを差し出すと、名前が慌てて田所を見上げた。 何度も遠慮する名前に自分の昼ごはんの量を見せてからようやく受け取ってくれたのにほっとして、野菜や肉がたっぷり入ったサンドイッチにかぶりつく。別に話が弾まないとかそういうことはないが、ふたりきりになると何を話していいものかすこし悩んでしまう。 「そういや、パンの値段どれくらい覚えてきたんだ?」 店で扱っているパンの値段一覧を渡したのはついこの間だ。少しは覚えたかと何気なく聞いた田所に、名前は笑顔で答えた。 「全部覚えました! レジに立つと緊張しちゃったりして間違えるかもしれませんけど」 「全部? あの量をか?」 「私が早く覚えれば、田所さんが練習できる時間が増えますし。前は居酒屋でバイトしてたんですけど、お店が潰れちゃって……お酒とタバコの匂いの中で酔っ払い相手にするより、おいしい焼きたてパンのなかで働くほうがずっと楽しいです。すぐに雇っていただいて、生活費もなんとかなりそうだし、本当に感謝してます」 にっこりと笑う名前に、田所は感心の混じった瞳で少女を見た。 名前の前にいたパートはミスが多くてやる気もそこそこ、最後には無理やりやめていった人だった。それと比べて目の前の少女の仕事に対する姿勢はどうだ。息子である自分より仕事に対する志が高い。 すこしばかり自分を恥じながら、田所はパンにかぶりついた。 「そういえば、名字は趣味とかないのか?」 「今はないですけど……あっ、田所さんが自転車に乗ってるのは後ろ姿だけしか見ていないけど、すっごくかっこいいと思いました。だからきっと、私もロードバイクを好きになれると思います。余裕ができたら乗ってみたいです」 ぽろりとレタスが落ちる。普段食べ物を粗末にすることのない田所なのだが、今はそれにすら気づかなかった。 ──なぜこの少女は、苦しいだろうに毎日働くことが楽しいとばかりに笑うことが出来るのだろうか。なぜこんなにもまっすぐ、人を惑わす言葉を紡げるのだろうか。 ほかの人にも同じようなことを言っているのかと考えると胸が痛んだが、パンを食べることで何とか痛みを紛らわせた。自分より、同じクラスの手嶋や、よく話すという青八木のほうがよっぽど名字と仲がいいだろう。ああ駄目だ、ネガティブなことを考えるなんてオレらしくもない。 その後むりやり自転車を押し付けた田所は、わずかに締め付けられる胸を抱えてため息をついた。恋煩いだなんて自分でも似合わないとわかっている。だが、この少女の悩みや苦しみをすこしでも知ることができたら、軽くすることができればと考えてしまうのだった。 ← → return |