はあ、と名前がため息をつくのを見て、手嶋は片方の眉をあげた。名前がため息をつくのは今まで見たことがなく、沈んだ顔すら見せない彼女にしては珍しいことだ。
 ぼんやりとしては憂い顔でため息をつく姿は、まさしく恋煩いのように見える。


「名字、どうかしたのか?」
「え? ああ、なんでもないよ」


 笑顔で弱いところを見せないのは、いつもの名前だった。名前が田所にしか頼らないのは想定内だが、田所のことで悩んでいるなら頼る人物がいないことになる。


「田所さんのことか?」
「……わかる?」
「わかる」


 ちらっと手嶋を見た名前は、迷いながらも口を開いた。
 名前は恋に関することにはまったくの素人で、何をどうしたらいいかさっぱりわからないのだ。そういうことに詳しそうな手嶋なら、田所と親しい手嶋ならという思いで、ためらいながら思いを言葉にする。


「……迅さんと私って、はっきりした関係じゃなくて……弟を大学にいかせるまで、迅さんが待ってくれているから。迅さんはああ言ってくれたけど、恋人なのかわからなくて」
「そうかなあ」


 信頼する田所があそこまで言い切ったのだから何も心配することはないと思うが、名前の気持ちもわからないわけでもない。
 手嶋は先輩である田所を尊敬していて、そこは名前も同じだろうが、やはり恋人となると違うものだ。


「田所さんって……背の高い人が好きなのかな」


 ぽつりとこぼした言葉に、手嶋の脳裏に数日前の光景がよみがえる。
 音楽室に移動するときに三年の教室のそばを通った名前と手嶋は、クラスメイトと話す田所を見たのだ。楽しそうに笑いながら話す田所と、からかうように田所の肩をたたく女子。背は高く、伸ばした黒髪はつややかで、なにより田所と近かった。
 そのときの名前はなんでもないように「田所さんの邪魔をしたら悪いから、このまま行こっか」と歩き出して手嶋もそれに続き、日常のほんのささいな一場面としてうずもれてしまった。
 手嶋が気にもしていなかった場面を、名前はずっと覚えていて気にしていたらしい。


「田所さんが好きなのは名字だろ」


 ぼっと名前の顔が赤くなる。そうストレートに言われると反論もできなくて、自分がちいさなことを気にしているのが浮き彫りになってしまう。


「そう思っていたいけど、思ってるけど……田所さんを束縛なんて、できないよ」


 初めて聞いた名前の弱音に、手嶋の口角が上がる。田所のことになると名前の弱い部分がぼろぼろと出てきて、それが珍しく、それでいいと思ってしまう。
 机を並べて見る名前はいつでも一生懸命で、授業でも熱心にノートをとっていた。家には弟がいて、名前の性格からして疲れているところなんて見せられないだろう。
 それがようやく、弱ったところを見せられる相手ができたのだ。ささいなことで不安になってしまうほど好きな相手ができたのだ。しかもその相手は、自分の尊敬している先輩だ。


「いいから行ってこいよ。ぜんぶ言ってこいよ。田所さんなら受け止めてくれる」


 手嶋が、ぽんと名前の肩を押す。教室のドアを見た名前は、反射的に立ち上がって田所を見つめた。
 田所は今日のバイトのことで話をしにきたのだが、予想以上の反応が返ってきて驚いた。


「ナイスタイミングだな。名字も、田所さんを信じてるならきちんと言わないと、田所さんも不安になるかもしれないぞ」


 名前の目が揺れる。ほら、ともう一度手嶋にうながされ、すこしばかり恐れながら田所のもとへ向かった。出入りするクラスメイトの邪魔にならないように廊下に出て、窓のそばに並ぶ。


「今日のバイトだけどよ、終わるのがすこし遅くなってもいいか? 大掃除するんだとよ」
「はい、大丈夫です」
「悪いな、レジ締めぜんぶ任せるわ。残ったパン全部もって帰れよ」
「そんな、悪いです」
「悪いのはこっちだろ」


 譲らない田所に、結局は名前が折れた。
 おどけて「売れ残ったパンは食べ飽きた」と言う田所に、名前がくすくすと笑う。それからふっと顔をくもらせ、うかがうように田所を見た。
 恋に関して不安になるのも、わずかな嫉妬をするのも、恋人ができたことすら初めてなのだ。


「あの……田所さんは髪が長いほうが好きなんですか?」
「そんなことはねえぜ」
「じゃあ、背が高いほうが?」
「別に……っつーかどうしたんだよ」


 不思議そうな田所に、名前の顔が赤くなっていく。こんな子供じみた感情をどう説明していいかわからなかった。あの日自分の望んだことを言ってくれたのに、これ以上なんの不満があるというのだ。
 首をかしげていた田所は、名前の顔を見てふっと質問の意図を理解した。熱が感染したように、田所の顔も熱くなっていく。
 まさか名前が嫉妬してくれるなんて、そこまで自分のことを好きでいてくれるなんて思わなかった。こういうときに気の利いたことでも言えたらいいのだろうが、ロードバイクに打ち込んできたためにそういった方面はめっぽう疎い。


「あー……名字くらいの髪の長さで、名字くらいの身長がいいと思うぜ」
「えっ」
「つまりはあれだ、名字がいいんだよ。そう言っただろ」
「──はい」


 赤くなって嬉しそうに笑う名前に、田所の心臓がずくりと音をたてた。控えめに不安を伝える少女の、なんといじらしいことか。
 ふたりで赤くなって笑うのを見て、手嶋はやっぱり丸くおさまったと笑った。ふたりの瞳にはお互いしか映っていない。いまから名前が田所の嫁になる光景が目に浮かぶようだと、手嶋は幸せな未来を夢見て目を閉じた。


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