目覚めた東堂は、迷わず福富の部屋のドアをノックした。朝早い時間だが、福富がこの時間にはもう起きていることを知っている。
朝早くから誰かが訪ねてくるのは珍しかったが、福富はなにも言わずに迎え入れた。東堂は、真剣な顔をしていた。
「フク。今日は自主練習の日だったな」
「ああ」
「練習に付き合う約束だったが、すまない。行かねばならんところが出来た。もし門限に間に合わなかったら、なんとかごまかしておいてくれないか」
「どこへ行くんだ」
「病院へ」
はっきりと答えた東堂に、体のどこかを痛めたのかと思った福富だったが、そうではないようだ。みなぎっているものは、病人や怪我人のそれではない。
「名前が東京の病院にいるとわかった。今から行って門限までに帰ってくるつもりではいるが、どうなるかはわからん。すまないが、頼む」
名前が病院にいるのは本当か、そもそも実在するのか、幻聴を信じ込んでいるのではないか。福富が聞きたいことはたくさんあったが、すべてを飲み込んで頷いた。
東堂がようやく少しだけ笑って、部屋をあとにする。まだ早朝で静まり返っている寮に、慌ただしく準備をしているであろう音がかすかに聞こえてきた。そして福富は、万が一東堂が戻らない場合は警察に届け出ようと、少しズレた決意をするのであった。
・・・
東堂が病院についたのは、昼過ぎだった。大きな病院を眺め、中には入り、地図を見ながら病室へと進んでいく。
大きな病室の前で立ち止まった東堂は、控えめにノックをした。しばらくして出てきた女性はやつれてはいたが気品があり、東堂を見て驚いたような顔をした。
「突然すみません、東堂尽八といいます。名前さんのお見舞いにきました」
「まあ、あなたが……」
通された病室は大きく個室で、豪華だった。ソファをすすめられた東堂は腰をおろし、ベッドに横たわる名前を見た。本当に、寝ているだけのように見える。
「名前が今朝突然、尽八が来る、と言って……検査をしたんですけれど、なにも変わらずまだ起きずに……。申し遅れましたね、私は名前の母です。名前とはどういった関係なの?」
「信じてはもらえないかもしれませんが、夢で会ったんです。数ヶ月前に夢で会い、それから毎晩、いろんなことを話しました。この病院にいると、名前が教えてくれたんです」
「夢で……そんなことが」
信じられないというように目を見開いた女性は、自分を戒めるように首を振った。
「名前が言ったんです。尽八が来ると。会いたいと。それだけしか言わなかったけれど……名前と、話してくれる?」
「もちろんです」
藁にもすがる思いで、名前の母は東堂に託した。もしかしたら、娘が目覚めるかもしれない。名医でもどうすることも出来ない娘が、もしかしたら。
しばらく迷ったすえ病室を出ていった女性を見送って、東堂はベッドの横にあるソファの前に立った。横たわっている名前は夢のなかで見るより細くやつれていて、顔色も悪いように思えた。そっと名前の手を取り、包み込むように握る。
「はじめまして。隣に座っても?」
初めて会ったときのように芝居がかったお辞儀をして、東堂が尋ねる。返事はなかったが、名前が実在する、それだけでどこか満たされたような気持ちになった。
「きっと名前の精神は、この病室のどこかにいるんだろう? 残念ながらオレには見えないから、見える名前に話しかけるよ」
「名前が強いことは、オレが知っている。あの白い世界に来る日も来る日もひとりきりで自分を責め続けるなんて、オレにはとても出来ない」
「こじれたものは戻らないかもしれないが、新しく作ることはできる。これからご両親がどうなるかはわからんが、名前がいないと元に戻ることも出来ないと、名前も知ってるだろう?」
「名前が望むなら、オレはいくらでもそばにいる。不安だったりまだ勇気が足りなかったら、名前が一歩踏み出すまで夢で会おう。お茶会もなかなか楽しいものだからな」
「そうだ、前に夢で食べた和菓子を持ってきたぞ。日持ちはするが、早めに食べたほうがいいだろうな。違う和菓子も入っているから、名前が気に入ればいいが」
ときおり頬をなで、握る手に力をこめ、気持ちが伝わるようにゆっくりと話す。東堂は気が済むまで喋ったあと、じっくりと名前の顔を見た。
夢の中より生気がなくて痩せているけれど、夢の中と同じ顔。あどけなく表情がくるくると変わって、素直で意外と頑固なところがある、愛されて育ったことがわかる少女。頬にふれて触れることをもう一度確認した東堂は、名残惜しそうに立ち上がった。これ以上母親に気を遣わせるわけにもいかない。
「長いあいだ申し訳ありません。これでお暇しますので」
「あら、もう? もう少しいらしてもいいのに」
「いえ、これ以上は」
「そう……」
「もう一度来てもいいでしょうか? 来るのは一ヶ月ほど先になりますが」
「ええ、ぜひ」
笑って歓迎してくれたのは口先だけかもしれないが、東堂は笑ってお礼を言った。
今日が日曜日で、前日に主にスプリンターが出たレースがあり、監督が会議でいないための自主練。こんな偶然が重なることはめったになく、部活を休まないとお見舞いに来れそうになかった。そんなつもりはないが、もし休んでここに来たら名前がまた気に病む。
東堂はもう一度お礼を言って頭を下げ、病院をあとにした。ようやく名前に会えたものの、やはりどこか心の底から喜べなかった。
← →
return