朝起きた東堂は、珍しく一回目の目覚ましでむくりと起き上がった。さきほど名前に「もう朝だから、お別れの時間。……また会えるといいな」と寂しそうな顔でお別れを言われたばかりで、まだ寝ぼけていた。
「なにを言う。また会えるに決まっているではないか」
名前に向けた言葉は、誰もいない空間にむなしく響く。返事がないことを不思議に思った東堂がようやくしっかりと目を開けると、そこは自分の部屋だった。カラフルな雲や浮かぶクッションやソファ、生クリームとフルーツがたっぷり乗ったケーキもない。名前も、いない。
ぼんやりと部屋を見回し、頭に手をやった。さっきまでつけていたカチューシャはなく、ケーキやスコーンを飽きるほど食べたはずの胃は空っぽだ。
ようやくあれが夢だったと気づいた東堂は、もう一度鳴る目覚ましをとめてベッドからおりた。まだ頭は、不思議の国をふわふわと漂っているようだった。
・・・
珍しく口数が少ない東堂を、新開はパンを食べながら観察するように見つめた。食欲はあるようだが、いつもより食べる量が少ない。話があると言われて昼休みに集まったけれど一向に話そうとしない東堂に、荒北は刺々しい口調で話すように詰め寄った。福富は黙ってそれを見ている。
「……夢を、みたんだ」
ぽつりとこぼす東堂の目は、ここではないどこかをさまよっている。珍しく紅茶なんぞを飲んでいる東堂だったが、夢のなかで飲んだものとは違う安物で、満たされるどころか何かがこぼれ落ちていくように感じていた。
「はっきりした夢だった。夢ならば薄れていくものだろう。だが、今になっても細かいところまでぜんぶ思い出せるんだ。ぜんぶ……始めから、終わりまで。こんな経験はあるか?」
東堂の質問に、各々考えるが答えは一緒だった。印象深い夢ならば覚えているが、全部覚えているわけではない。昼までには、ほぼ忘れてしまっていると。
今までの自分もそうだったと、東堂がカチューシャをなでる。寝る前は違うものをつけようと思っていたのに、夢でつけていたものを選んできてしまった。
「っつーかどんな夢だったんだよ。そんなに怖い夢なのかよ」
「いや……不思議の国のアリスみたいな」
「そいつは随分と可愛らしい夢だな」
「アリスが出てきたのか」
福富の口からアリスだなんて単語が出てくるのがどことなくおかしかったが、今は笑う気にもなれない。東堂は机に伏せていた体を起こし、昼休みの生徒の雑談にまぎれてしまうような、東堂らしくない小さめの声で語り始めた。
「なんでも、好きなものを出せてしまうような世界で……ピンクや白の雲、ケーキや紅茶、アンティークの白いテーブルや椅子があった。クッションやランプが浮かんでいる空間に、空色のワンピースを着た女の子が座っていたんだ」
夢の話から一転、恋の話になりそうな予感に荒北は驚いた。
東堂はモテるが、好きな人がいるだとか恋人がいるとかいう浮ついた話はいっさい出てこなかった。高校に入学してから、一度も。告白はすべて断っているし、東堂自身も好きな人はいないと公言している。
ナルシストだからだと軽く考えていたが、まさか理想が高かっただけなのか。
「オレに驚いて、ここは自分の夢なのだと言った。おそらく中学生で……名前と名乗った。オレのことを知らず、話すと嬉しそうに笑って、胸焼けしそうなほどケーキを食べているのに細くて……」
東堂の手がなにかをなぞるように動く。ふれた名前の髪は本当に細くて柔らかくて、色は同じなのに自分の髪とはまったく違うものだった。
東堂が話せばファンクラブの女の子たちはきゃあきゃあ騒いで話を聞いてくれるし、お互い軽口をたたきながら会話をするのが普通だった。だが名前は、うんうんと頷いて、ただ嬉しそうに東堂の話を聞いていた。名前も話し出すと止まらない場面もあったが、それは東堂も同じだと言える。
「何気ないことで本当に嬉しそうにするのに、たまに寂しそうな、暗い瞳をするのだよ。それを聞けずに目が覚めてしまって、出来ることなら理由を聞きたい。もう一度話してみたい。なにしろ名前は、荒北のことをアフロだと思うほどユニークな思考の持ち主だからな」
「は!?」
「オレが自転車部のことを話すと、想像でどんな人か黒板に絵を描いてくれたのだ。荒北はアフロ、新開はオカッパ、福富は外人だったぞ!」
「テメーはどんな説明してんだヨ!」
「むっ、きちんと説明したぞ。人の顔を口で説明するのは難しいのだから仕方ない」
ぎゃーぎゃー騒ぐ荒北の横で「オレは日本人だ」と福富が主張するが、誰も聞いていなかった。東堂にいつもの調子が戻ったことを確認した新開は、ペットボトルのジュースを飲み干す。
「その名前ちゃんに、オレも会ってみたいな」
「新開は駄目だ!」
「そう言うと思ったぜ、尽八」
不思議そうな顔をする東堂に、新開は笑ってみせる。夢のなかの話ではあるが、これからどうなるか楽しみだった。
← →
return