私が入部する前に、総北伝統のウエルカムレースは終わってしまっていたらしい。誰も期待しておらず、出ることすら知られていなかった二年の杉元さんがいい勝負をして二位だったと、寒咲先輩が興奮して語っていた。今泉先輩が大声で応援していたというのも聞いて、本当にこの一年で変わってしまったことを実感する。
あの、自分が一位であればいいというような、他人を押しのけて荒々しい走りをしていた先輩が。荒々しさは鳴りを潜め、チームのために走っている。部員との信頼もある。それがすこし淋しくて、どこまで自分勝手なんだと自分を諌めた。
余計なことを考える頭を振って、目の前のことに集中しようと気合を入れた。寒咲先輩はスカートで部活をしているらしいけど、私は動き回るし今泉先輩にパンツを見せつけたこともあるしで、ジャージをはいている。太ももの半分ほどを隠しているスカートはこの学校ではかなり長いけど、それで部活をする気にはなれなかった。
放課後、寒咲先輩は用事があるなどで帰ってしまった部員の自転車を借りて、私にいろいろ教えてくれている。各部品の名前や効果など、覚えきれなくて目が回りそうだ。
「すみません先輩……一度に覚えきれなくて。メモ取ればよかった……」
「そのうち覚えるよ。マネージャーはあんまりロードさわらないし、気長にね」
「そうは言っても、これは最低限のことです。入部する前に覚えておけば、」
「名前ちゃんかたすぎだよ」
ぽん、と背中を叩かれて、どう反応すればいいかわからず曖昧に笑った。はじめて部活に入ったから、どういう態度で接すればいいかわからない。運動部だからかなり厳しいかと思ったけど、ここはそうじゃないみたいだ。かといってゆるいわけでもなく、なじみやすい温度なのだと思う。
煮詰まった頭でふうっと息を吐くと、うしろから小野田さんに覗き込まれた。自転車のことをなにも知らなくて寒咲先輩に説明してもらっているのだと言えば、眼鏡をかけた顔がやわらかな笑みに変わる。
「ボクが持ってた、初心者用の本あげようか?」
「それは嬉しいんですけど……本当に借りてもいいんですか?」
「貸すんじゃなくて、あげるよ! ボクもう読まないし……あっボクが使ってたのが嫌ならいいんだ!」
あわあわと手を振る小野田さんに嫌じゃないことを示し、ありがたくもらうことにした。遠慮すると「ボクのお古なんて嫌だよね……」と落ち込み、通りかかった鏑木くんにすごい勢いで食ってかかられたからだ。いわく「小野田さんからのせっかくの親切を無碍にするなんてどういうつもりだ!」らしい。そのあとに「小野田さんから本をもらえるなんて……! は? 初心者用でも読むに決まってんだろ!」と言われたので、鏑木くんは本当にめんどくさい。
今日はもう終わりにして、続きは本を読んだあとにしようという寒咲先輩の言葉に頷く。一度復習して自分なりに飲み込まないと、どうもわかりそうにない。
「メンテナンスとかできたらいいんだけど……うちのクロモリ使う?」
「いえ、そこまで先輩と通司さんに迷惑をかけるわけには」
「通司さん?」
うしろから尖った声が聞こえてきて、思わず振り返る。そこには通りかかったらしい今泉先輩が、すこしばかり眉をつりあげて私を見下ろしていた。どことなく威圧感があってこわい。
「通司さんは、寒咲先輩のお兄さんですけど」
「知ってる。どうしてそんな呼び方なんだ」
「どうしてと言われましても……寒咲さんと呼ぶと先輩とかぶりますし、通司さんがそう呼べばいいと言ってくれたので」
それきり黙り込んでしまった先輩は、やっぱり機嫌が悪い。もしかしたら、元部員である通司さんに馴れ馴れしくするのは、部活をよくない雰囲気にするのかもしれない。
けど、もしかしたら。恋する乙女独特の、都合よく解釈する思考がでてきそうになって慌てて押し込む。
「メンテナンスなら、オレのスコット使え」
「え!? それはさすがに悪いです」
「オレが見てる。チェーンの乾拭きくらいなら大丈夫だろ」
「そういう問題じゃなくてですね」
「じゃあ、メンテナンスも小野田や鳴子にさせてくれって頼むのか?」
「はい?」
会話の噛み合わなさと、突然でてきた小野田さんと鳴子さんの意味がわからずに、ぽかんとしてしまう。そうこうしてるうちに先輩はロードをひっくり返して置き、乾いた布を投げてよこしてきた。断ることは出来なさそうだし、なにより先輩の機嫌が悪いので大人しく腕まくりをしてロードのそばに膝をついた。
「……先輩」
「なんだ」
「先輩は知らないでしょうけど、先輩が卒業する日、必死に探したんです。先輩はすぐに帰ったらしいですけど」
「特にすることもなかったしな」
「少しでもいいから話したくて」
「どうしてだ?」
考えることもせず簡単に尋ねてきた先輩の前で、黙って布をたたんだ。すこしでも期待してしまった自分が恥ずかしい。
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