翌日、朝練の前に詰め寄ってきた今泉先輩はすこし怒っているようだった。鬼のような形相で寄ってこられても、思い当たることがないからどう声をかけていいかわからない。自転車をおりた先輩は、鋭い目つきで私を見据えながら、低い声で尋ねてくる。
「なんで昨日メールを送ってこなかった」
「えっ」
「理由があるんだろ」
「え……待っててくれたんですか?」
私だってもちろんメールを送りたい、電話をしたい気持ちはあった。だけど先輩は用のないメールや電話は嫌いそうだし、私もメールが得意ではないので、結局はアドレス帳に追加された先輩の名前やアドレスをなぞるだけで終わった。
私の質問には答えず、カッと頬が赤くなっていく先輩を見て、じわじわと顔に熱が集まっていく。
「送ろうかと思ったんですけど、基本的に用事があるときしかメールしないので……どう送ったらいいかわからなかったんです」
「……もしかして、鳴子ともそんなに連絡したりしないのか」
「1、2回くらいしかしたことありませんよ。しかも一度は、一度でいいからマネージャーが作ってきたレモンのはちみつ漬けを食べてみたいという夢を叶えてくれという連絡でした。寒咲先輩に断られたから私に頼んだようで」
「作ったのか?」
「家にレモンがなかったので断りました。大量に作らないと、部員全員が食べられませんから」
先輩の顔が明らかにほっとしたものに変わって、心臓がきゅんと音をたてた。駄目だ、期待しちゃいけないのに、先輩の何気ない行動や仕草ですぐに期待してしまう。
もう何もなかったように自転車を押して歩き出した先輩は、振り返って私を呼んだ。
「行かないのか?」
「行きます」
小走りで先輩の横にいって、並んで歩く。先輩はいつもの無愛想な顔をしていたけど、すこし前まで並んで歩くことすら出来なかったことを思うと、今がどれだけ贅沢な時間かわかる。
──先輩。先輩のことなにも知らないけど、私が高校に入るまでは話せないことや会えないことが普通だったけど、それでも好きでした。せめて先輩に好きな人ができるまで、ほんのすこし、近くにいてもいいですよね?
・・・
「……みなさん、何してるんですか」
その日の部活後、日も暮れて外を走ることはできなくなった時間。もう10分もしたら、居残って自主練をしていた先輩たちも帰る頃。寒咲先輩に捕まって延々とロード語りをされたあと、珍しく青八木さんに引き止められたらこの有様だ。
後ろから青八木さんに肩をがっちりと掴まれ、手嶋さんには髪を見られ、鳴子さんには腕を掴まれている。なんだこれは。
「いや、もう5日後には合宿だろ? 早めになんとかしようと思ってな。面白いし」
「手嶋さん、言っている意味がわかりません。あと髪の毛離してくれませんか」
「オレ天パだからさ、合わないシャンプーがあったりするんだ。名字はなにを使ってるんだ?」
「鳴子さんもなんで腕を揉んでるんですか」
「揉んどるんとちゃう、チェックしとるんや。マネージャーとして腕の筋肉がないと、不便なこともあるやろ? なくてもええけどな」
「青八木さんはなんで肩を掴んでるんですか。逃げようとしたら力を込めるし」
「……捕獲」
「でしょうね」
とにかく意味がわからない。部員がほとんど帰ったあとだからいいようなものの、動けないし寒咲先輩はどこかに行ってしまったし、はやく開放してほしいのが正直な気持ちだ。先輩が相手で強気に出れないし、力で押さえつけられているから逃げられもしない。
諦め半分で椅子に拘束されていると、走ってやってきた今泉先輩が私を見て目を丸くした。思わず助けを求めるように手を伸ばして、口を開ける。助けて、と言う前にとられた手によって立ち上がり、走ってその場を抜け出す。さっきまで拘束していた青八木さんは、拍子抜けするほどなにもしなかった。
後ろを振り返るとなぜか笑顔で手を振る先輩たちがいて、よくわからないけどイラッとした。結局なんであんなことをしたんだろう。
しばらく走って誰もいない場所で立ち止まった先輩は、私の手首を痛いほど掴んだまま離そうとしなかった。息を整えながら先輩に話しかけようとする前に、壁に追い詰められる。先輩……怒ってる?
「名字は……オレが知らないだけで、今まで……」
「はい?」
ぎりぎりと掴まれた肩が痛い。思わず顔をしかめてもがくけど、先輩の力が強くてなにも出来ずに終わった。
どうしてこんなことをしているのか、どうして怒っているのか、いまの質問はどういう意味か、尋ねようと息を吸い込んだところで止まる。先輩の顔が、あまりに近くにあったからだ。
「せ、先輩……」
「名字」
目を丸くしてうるさい心臓の音を聞くしかできない間に、先輩の顔が近付いてくる。くちびるとくちびるが触れそうなほど近くにあって、頭が沸騰したみたいにぐるぐるした。
かすかな吐息が混ざり合って、数センチしか離れていないところで先輩がくちびるを動かす。
「受け入れるか拒むか、決めろ」
「ま、待って……待ってください。どうしてこんなこと」
「待ったはナシだ。いま決めろ」
さらに近付いて、本当にもう触れてしまいそうな距離で先輩が止まる。私の答えを待っているらしいけど、とてもしゃべれる状況ではない。くちびるを動かしたらあたってしまいそうで、喜ぶべき状況なのかもしれないけど、どうしてこんなことになっているのかわからない。先輩の気持ちを知りたいのに、しゃべれない。
真っ赤な顔でぎゅっと目をつぶって落ち着こうとした数秒後、くちびるに柔らかいものがふれた。……先輩の、くちびるだ。
目を閉じた先輩のまつげが思ったより長くて、端正な顔が近くにあって、くちびるは私のくちびるとふれている。カッと頭が茹だって、思わず先輩を突き飛ばして逃げた。後ろから先輩の声がしたような気がしたけど、耳の横で鳴る心臓があまりにうるさくて聞こえなかった。
← →
return