私が立っているのが、ライナーから少し離れた真後ろともいえる位置だったのが幸いした。ベルトルトはライナーが残ったことに驚きを隠せずに焦ったように見つめているし、誰も私を気にする人がいなかった。エルヴィン団長が言う「本物の敬礼」というものが出来るのは嬉しかったけど、同時に胸がひりついて焼けていくようだ。だって私はもう、兵士じゃないから。
「名前、少しいいか」
本人は抑えているらしい怒りは滲んではいるが、それでも頭のどこかは冷静なのだろう。私をどこかに連れ出そうとするライナーの声は、出来るだけ何でもないように装っていた。
あれから名前を聞かれたりいろいろ書かされたりとかなりの時間が経っているが、ライナーは怒りを溜め込むタイプだったらしい。大人しく頷いて、心配そうに見てくるベルトルトに笑ってみせる。まわりは泣いている人や諦めている人など多種多様だが、ひとつだけ共通していることがある。それは、ここにいる人はみな調査兵団に入るということだ。
気付かれないように二人で人ごみにまぎれ、誰もいない場所まで無言で歩く。唐突に立ち止まったライナーは、もう怒りを隠そうとはしなかった。
「どうして調査兵団に入った!」
「それはライナーも同じだよ。どうして入ったの、ベルトルトが困惑してたよ」
「俺はいい! 駐屯兵団に入れと言っただろう!」
「嫌よ」
珍しく声を張り上げるライナーを、ぎりっと睨みつける。私は私のもので、誰のものでもない。ライナーの言わんとしていることはわかるけど、でも私の人生において決断するのは私だ。その責任を被るのも私なのだ。
にらみ合いの末、勝利したのは私だった。そもそも、もう調査兵団の一員になってしまったのだから、いまさら言っても遅い。ライナーもそれをわかっていたのだろう、大きなため息をついて頭を抱えた。
「馬鹿野郎……憲兵は無理でも、せめて駐屯兵にと……」
「ライナーこそ」
私は無理でも、ライナーは憲兵団に入れたのだ。最も安全で内部に入り込める手段を放棄して巨人と戦うことを選んだライナーの考えは、私にもわからない。ただ、訓練兵として過ごしているうちに、何かが芽生えたのだとは思う。
「少しでもライナーの近くにいたい」
「だからって、壁の外に出たら巨人に食われるんだぞ」
「壁の中にいても、でしょ?」
真実に口を噤むライナーに一歩近付いて、鍛えられた体に手を回す。できるだけ優しく、包み込むように。黙って抱擁を受け入れていたライナーが、思いきり抱きしめてくる。痛いよ、という言葉はしまいこんだ。きっと痛いのはライナーだ。
「ねえライナー、私は兵士じゃなくなっちゃったの」
「……名前が兵士じゃねえなら、俺だって兵士じゃねえよ」
訓練兵のあいだに、頭がパンクしそうなほど様々なことを詰め込んだ。体に覚えさせた。何のためと聞かれると、巨人と戦うためだとしか言い様がない。
その大義名分を、私は途中で放棄した。ライナーに打ち明けられたその日から、ベルトルトが恐る恐る口にしたある日から。悩んで悩んで、私は捨てたのだ。兵士であることを、心臓を捧げる相手であるはずの人類を。
「ライナー、そばにいたいよ。ずっと隣にいたいよ」
「名前は、名前だけは俺が守る。襲わないと誓う。──だから名前も一緒に、俺の故郷に帰ろう」
「──うん」
嘘つき。ライナーだけじゃなくて、私も。わかりきっている嘘に浸るのは悲しいけど、思ったほど悪い気分じゃない。だってライナーは私のために嘘をついてるんだもの。私のために、誰にも言ってはならない秘密を打ち明けてくれたんだもの。これが愛と言わずになんと言うのだろう。
「ライナー、私ね、兵士じゃないの。だって人類を見殺しにして、ライナーを選ぶから」
「俺だって、いざとなったら名前を選ぶ」
いまのは嘘かわからなかったな。
泣きそうに歪んだ視界は、どちらも同じように揺れているのだろう。もしその時になって、ライナーが壁の中の人類でもなく巨人でもなく私を選んでくれたら、嬉しすぎて死んじゃうかもしれない。
人目を忍んでするキスは禁断の味がして、毒のように体をまわる。解毒剤が必要ですと、脳からキスをせがむよう命令が出される。それに素直に従って首に手を回せば、さらにきつく抱きしめられた。