寝不足で隙あらば閉じようとする瞼を、眠さに負けないように持ち上げる。いつもより少し遅れて入った食堂には、朝早くから元気な声が飛び交っていた。
 昨日からふとした瞬間に思い出してしまう、名前の泣き顔。最後に見せた涙は、間違いなく初めて見たときのものとは違っていた。嬉しさで流す涙は美しくて、綺麗だなんてありふれた言葉でしか表現出来ない自分が情けない。
 ふあ、と欠伸をする俺をベルトルトが心配そうな顔で見てくる。それに大丈夫だと手を振って、朝飯を食おうとしたときに耳に飛び込んできたのは、俺の脳を支配している彼女の名前だった。



「知ってるか? 昨日名前が泣いたらしいぜ」



 ざわめく室内に、歩き出しかけた足が止まる。名前が泣いたのは、俺も見た。まさかあの場面を見られていたのかと思ったが、どうやら違うらしい。女子部屋で泣いた、クッキーを持っているらしいという情報に、頭が素早く回りだす。
 訓練兵のあいだで噂が飛び交うのは立体機動より早いと言われている。たいして娯楽がなく、頭も体もいじめ抜く狭い空間のなかでは、楽しみなんてものはほとんどないからだ。
 だからこそ多感な年頃の俺たちは異性を意識するし、あちこちでカップルが生まれている。人気に差はあれど、たいていの女子は男子の誰かに好かれている。それが男も同様だと言えないところが悲しいところだが、つまりはこの噂を聞いている男どものなかにも名前を狙っている奴がいるということだ。



「ライナー……クッキーって」
「言うな」



 ベルトルトが困惑を浮かべた瞳で言いかけた言葉を遮る。ベルトルトは馬鹿じゃない。俺のいまの言動と噂とで、すぐに事実に気付いてしまうだろう。それでもベルトルトに自分の恋が露見してしまうのが恥ずかしくて、平静を装う。
 部屋中が名前のことで持ちきりになっているさなか、ドアが開いた。現れたのは僅かに赤い目を眠そうにこすっている名前で、視線が一気に集まる。視線を上げた名前がそれに気付き、ぎょっとしたように目を見開いた。



「え……何? どうかしたの?」



 誰か聞け、という空気が漂うなか、一人の男が意を決して一歩前に出た。ごくりと唾を飲み込む様は、まるで名前に恋をしているようじゃないか。自然と険しくなった顔でその光景を睨みつけると、いつのまにか横に来ていたエレンが「腹が減ったのか?」と見当違いなことを尋ねてきた。ベルトルトに任せることにする。



「名前が昨日泣いたって聞いたんだけど」
「や、やだ……!」



 赤くなって恥ずかしそうに顔を手で覆う名前は、ひどく愛らしい。否定しないところを見るとどうやら噂は珍しく真実だったらしく、部屋がざわついた。入口で止まる名前の後ろから、サシャが顔を覗かせた。これまた珍しく、朝飯前なのに元気がいい。



「そうなんです! 昨日クッキーもらってたんです! クッキーですよクッキー!」
「サシャ!」
「いいじゃないですか! くれなかったんですし! っていうか誰からもらったんですかクッキーなんて!」
「え、と……通りすがりの、かっこいい人から……」



 ちらっと俺を見た名前が、真っ赤になって顔を逸らす。かっこいい人だと……!?
 名前の言葉と仕草に心臓が打ち抜かれ、胸を押さえる。エレンがまた「腹が痛いのか?」と言い出したが、今度はアルミンに任せることにする。押さえてるのは胸だろうがと訂正する余裕は、いまの俺にはない。

 数秒のちに呼吸をむりやり整え、また名前が邪な思いを抱くやつに質問されるのは避けようと、人のあいだをすり抜けていく。目の前に来た俺を驚いて見上げてきた名前は、潤んだ瞳を逸らした。やばい、可愛い。



「その通りすがりのやつが名前を好きだって言ったら、どうするんだ」
「好きって……どういう意味で?」
「もちろん恋愛感情でだ」



 部屋を沈黙が支配する。サシャはまだクッキーと言っていたが、クリスタによってなんとか静かになった。さすがクリスタ。
 名前は驚いて言葉の意味を探ろうと俺を見て、返答を考えて、赤い唇をそうっと開いた。細い指先はわずかに震えていて、唐突にその指をなでたいという欲望が生まれる。



「そうだったら……嬉しい」



 名前の唇から漏れたのはイエスやノーといった類の返事ではないのに、明確な答えを持っていた。
 笑っているところや真剣な顔はよく見るが、落ち込んだところなどは隠す名前が、新たな表情を垣間見せる。恋をする女の顔ははっとするほど綺麗で見るものを引きつけて、一瞬にして虜にしてしまいそうだ。からからに乾いた口を開けて、言葉を絞り出す。



「……そのクッキーをあげた奴も、名前を好きだろうな」



 もうどうにでもなれ。引き寄せた名前は軽くて細くて、俺の胸までしか身長がなかった。数秒のち、きゅっと服を握りしめて上目遣いで見つめてくる名前に、俺は質問攻めもヤジも憎しみもからかいも、全部引き受けようと決意した。
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