昨日はいつもより体力を消費したあと、夜は座学のテストに備えて勉強をして睡眠が足りていなかった。朝日がいつもよりぼんやりとしているように見える。まぶたが今にもくっつきそうだ。
顔を洗っても目が覚めない頭のまま、ふらふらと食堂に入った。朝のしごきの前に朝食があるのは、育ち盛りの胃袋をスープでごまかしていると知っているからだろう。よろよろと空いている席を探すと、ライナーが手招きしているのが見えた。
「寝ながら歩いていると危ないぞ。横が空いているから座れ」
「ありがと……おはようライナー」
焼きたてのパンのにおいも、睡眠には勝てない。食事を運んでまだやってこない食欲を待ちながら、席に座るまえにライナーのほおにくちびるを寄せる。挨拶のキスをすると、ライナーの目が丸くなってそのまま固まった。
体がふらつく。今なら座ったままでも寝れそうだ。ライナーの横に座っていたベルトルトにもキスをして、気休めのあくびをした。眠気はまだ襲いかかってくる。
「ん……おはようサシャ」
「おはようございます。名前、寝ぼけてますね」
サシャにも挨拶のキスをして座る。パンもらっちゃいますよ、というサシャにパンを差し出そうとするが、ライナーによって阻止された。ちゃんと食べろ、という言葉とともに水を渡されて、ようやく頭がはっきりしてくる。それと同時にお腹がすいてきて、パンをほおばった。横でサシャが死にそうな顔で見てくるのは無視だ。
「ようやく目が覚めた……ありがとうライナー」
「いや……その、あれは挨拶のキスか?」
言いにくそうに口ごもるライナーに首をかしげて、数分前の自分の行動を思い出す。かあっと頬が赤くなるのが自分でもわかった。叫び出したい衝動をなんとか抑え込みながら、両手で口を押さえる。赤い顔を必死に隠しながら、上にあるライナーの顔を窺うように見た。
「私の村では普通にしてて……ごめんね。嫌だったよね、本当にごめん」
「いや」
ライナーは真顔で目をそらした。怒っているのかとそうっと見たが、ベルトルトが首をふってくれた。違うということだろうか。
これ以上ライナーを見ると嫌がられるかもしれない、でも気になる。ちらちらと気づかれないように見ると、ライナーと目があった。
「今まで挨拶のキスなんてしていたか?」
「ううん、みんなしてないから……。今日は寝ぼけてて」
ごまかすようにパンをちぎった。なんとも言えない沈黙のなか、サシャがパンを食べながら元気よく挙手をする。口の横についているパンくずを取ってあげると、にこにこ笑いながら提案をしてきた。
「それなら私もキスすればいいんです! 挨拶をするだけですもんね」
サシャの村では挨拶のキスをしなかったようだ。慣れていないとわかるキスは頬のすこしうえ、目尻に近い場所に落ちてきた。
久しぶりの挨拶に、なんだか嬉しくなる。自然と笑顔になりながらサシャにお礼を言うと、なんでもないことのように笑ってくれた。
「じゃあ俺もしておくか」
ライナーの顔が近付いてくる。サシャのときとは違って胸が高鳴るのに気付かないようにしながら頬を差し出す。サシャとは反対の頬にふれたくちびるはあたたかくて柔らかくて、優しさに満ちていた。
「久しぶりに挨拶のキスをすると、やっぱり朝って感じがする。ありがとうライナー」
「挨拶にお礼を言ってどうする。気にするな」
「うん、でも嬉しかったから」
勝手にゆるんでいく顔を少しでもごまかすためにパンをほおばる。急いで食べないと訓練に間に合わない時間になってきた。
ライナーも急いでパンを食べながら、ちらりと視線を向けてくる。スープでパンを流し込みながら視線で尋ねると、ためらいがちに口を開けた。
「名前は挨拶のキスをしたいのか?」
「したほうが朝って感じはするけど」
「俺でよければいくらでもしてくれ」
息がつまった。慌ててパンを飲み込んで水を飲んで、咳き込むことだけは何とか避ける。
パンくずしか残っていない皿をサシャが恨めしそうに見つめるのは無視して、ライナーの表情を窺った。真面目でふざけているようには見えない。
「ありがとう。ライナーが、嫌じゃないなら」
「嫌だったらこんな提案はしない」
「でもライナー、優しいもの」
「誰にでも優しいわけじゃないぞ」
「そ、っか」
「挨拶といえど、キスはあまりしないほうがいいぞ。特に男には」
ライナーは待っていたベルトルトとともに、先に席を立ってしまった。ほうけて見ている私の横で、サシャが慌てて立ち上がる。もう鐘がなる時間だ。
時間に急かされて考えることもままならないまま、食器を片付けて廊下を歩く。食べてすぐ動いたせいで、お腹がきりきりと痛んだ。もしこれが恋だというならば、なんとも痛いものだ。
前を歩くライナーが気遣うように見てくるのに笑ってみせて、熱い頬は急いでいるせいだと言い聞かせた。恋のはじまりは脇腹の痛みとともになんて、ロマンスのかけらも見当たらない。
それなのに高鳴る心臓は私の意思を無視するから、どうにでもなれという気持ちでライナーの横に並んだ。驚く顔に笑うと精悍な顔が赤くなる。きっと芽生えは、何気ない日常のなかで。