「なあマルコ……名前が、失恋したって言ってたんだけどよ」
眠れない夜が続いていた。コニーとミーナの陰謀によって名前と教室で眠った日、オレはきっと知ってはいけないことを知ってしまった。
眠っていると思ったからこそ告げた名前の恋の相手は、まさかのオレだった。それならあの日泣いていたことも頷ける。好きな相手にわざとじゃないにしろ水をかけられたら、オレだって泣くかもしれない。ミカサに遠慮なく水をぶっかけられたらと思うだけで、エレンを殴り飛ばしたくなる。
マルコは読んでいた本を閉じて、ベッドの上で座り直した。寝る前の部屋はリラックスした話し声に満ちていて、オレたちの会話を聞いているやつは誰もいない。
「名前が言ったの?」
「おう。……名前の好きなやつって、オレ、かな」
自意識過剰と笑い飛ばされたらそれまでの話を、マルコは笑わなかった。ただ真面目な顔をして言葉の真意を探る姿を見て、目が自然と見開かれていく。
「名前が、ジャンを好きだって?」
「いや……そこまでは」
「じゃあ、僕が言うべきことじゃない」
はっきりとは言わず曲線を描きながらおだやかに真実を告げるのは、マルコでないと出来ない芸当だ。マルコは苦笑しながら、驚くオレが話し出すのを待つ。これも短気なオレには出来ないことだ。
「くそっ……どうしたらいいんだよ」
「どうもしなくていいんじゃないかな」
「だってよ……」
「じゃあ聞くけど、ジャンは同情でミカサに話しかけられて嬉しいのか? 振り向かないけど、好きにはならないけど、かわいそうだから気が向いたときにだけ相手をする。それをジャンは望む?」
「……そんなのごめんだ」
肺のなかに溜まった空気を吐き出す。マルコの言葉は厳しいが真実だ。ミカサに相手にされないときに名前に話しかけて、恋の疑似体験して慰める。オレは同情でそれをしようとした。
「最低だ……」
「それがわかっただけいいんじゃない?」
「──名前は、オレには言わなかった。寝てると思って、わざと過去形で……優しいやつなんだ」
「そこはいい女って言わないと。数年後には、ジャンでは相手にされないような高嶺の花になってるかもしれないよ」
マルコが冗談めかして言う。たしかに名前はいい女だった。
ミカサに振り向いてもらえずにいるオレをいつも慰めてくれた。馬鹿なコニーをうまく言いくるめてサシャと教官に怒られる回数を減らしたり、人の嫌がる仕事を愚痴も言わず引き受けて、いつも笑顔で明るかった。そんな名前が泣いたから、あのあと食堂はすごい騒ぎになってオレが責められて──ああくそっ、結局オレは名前に水をぶっかけて失恋させただけじゃねえか。
「名前ってよく告白されてるしね」
「はあ!? なんだそれ!」
「いつも断ってるけど、次は受け入れて恋人ができるかも」
「やめてくれ……オレはこれ以上、最低野郎になりたくねえ」
「どう最低なんだい?」
「……名前の気持ちを知ってから、目で追っちまうんだ。ミカサが好きなはずなのに、名前も気になって……」
「それで?」
「でも、ミカサが無理だから名前を代わりに、なんてことはしたくねえ。でもあの日の名前がすげえ可愛く見えて……」
長いまつげに涙が乗って、月の光できらきらと輝いていた。オレの肩にもたれて眠る姿はあどけなくて心臓がやけにうるさくて、額に落ちた柔らかな熱はいまでも鮮明に思い出すことができる。
頭をかきむしるオレを見て、マルコが優しく微笑んだ。
「そういうジャンだから、名前も好きになったんだろうね」
「わかんねえよ……」
「ジャンはどうしたい?」
「わかんねえけど──名前と、向き合いたい」
「ジャンが思うようにすればいいと思うよ」
マルコが優しく背中を押してくれた。我ながら単純なやつだと思うが、名前が可愛く見えたのは事実だ。今日はようやく眠れそうだと目を閉じる。まぶたに浮かぶのは誰の姿か。
・・・
翌日、名前はふつうに挨拶をしてきた。あの日もふつうに挨拶をしてきたのだから当然といえば当然だが、こうして何気ない顔の下で苦悩を抱えていたかと思うと、無性に抱きしめたくなる。
挨拶をして向き合って、名前の額にかかる髪をかきあげる。加減がわからなくてデコが丸出しになったが、まあいい。軽くデコピンをすると、名前は驚いて何事かと尋ねながら前髪をなおした。
「このあいだのお返しだ」
「このあいだって?」
「オレの寝てるあいだに勝手に告白して勝手に終わらせようとしてんじゃねえよ、ばか」
「……っ! きっ、聞いて、起きてたの!?」
「……寝れるわけねえだろ」
名前の顔が真っ赤に染まる。オレの顔もきっと赤い。デコを押さえたまま口をぱくぱくさせている名前を見ると何だか笑えて、ふっと肩の力が抜けた。
「知ってると思うけど、オレはミカサが好きだ」
「──うん。知ってる」
「だけどあの日から名前も気になって仕方ねえ。オレは最低なクソ野郎だ。これからどうなるかはわからねえが、名前と向き合うことに決めた。期待させるだけかもしんねえけどよ、オレだって名前の気持ちを無視したくねえんだよ」
名前は赤く真剣な顔をして頷く。それから朝露のなかで花が咲くような笑顔を見せた。心臓がどきりと跳ねる。
「それだけでじゅうぶん報われたよ。本当のことを言うとね、ジャンに知られずに終わる恋が悲しかったんだ。もう、じゅうぶんだよ」
だから気にしないで、ミカサのところへ行って。
いつもの顔で微笑んだ裏に、やさしさや健気な姿が見えて、思わず手をとる。驚いた名前の目からぽろりと涙がでて、今までどれだけ傷つけていたかを知った。ああくそ、きっとマルコはわかってたんだ。オレが気になってるのは誰か、これから恋に気付いていくのは誰か。
手を握ったまま歩き出す。泣く名前に嫌かと聞くと、首をふって嬉しいんだと答えた。握ったちいさな手が愛しくて、心臓がうるさくて、早くも傾きかけている恋を蹴飛ばした。