唐突に理解した。見ないように気付かないように最新の注意を払っていた真実が、なんの膜も思い込みも通さずに目の前に突きつけられたような、目の覚める一場面。
冷たい水がシャツに染み込んでいく。目の前のジャンが慌てた。となりのミーナが水をかけたジャンを睨んで、ようやく自分が泣いていることに気付いた。気付いてしまうと、喉がひきつるように嗚咽を吐き出していく。
いまさっきまでジャンと喧嘩していたエレンが、私が泣いた責任の一端が自分にあると思って、おずおずと様子を窺ってくる。違うの、エレンもジャンも悪くないの。そう言いたいのに自分を憐れむ嗚咽がでるだけで、声は出なかった。なんとか首を振ってなんでもないと伝えて、食堂を飛び出す。これ以上あそこにいたら、人目をはばからず子供のように泣いてしまいそうだった。
座学で使う教室に逃げ込んで、教卓の下に潜り込んだ。こんなところにいるのを見つかったら叱られるだけでは済まないかもしれない。できるだけ声を殺して泣きながら、失恋をした自分を慰めた。ジャンは何も悪くない。いつものようにミカサの気を引くのに失敗して、エレンと喧嘩していただけ。その取っ組み合いの最中に水がかかっただけ。
冷たくて驚いたけど、すこしだけ喜んだ。慌てたように布を持ったジャンの瞳には、私しか映っていなかったから。すこしだけでも独り占めできると思った。それなのにジャンの視線の先は、エレンに落ち着くように言うミカサがいた。
完全な敗北だった。自分が水をかけた女よりも、遠くにいる片思いの女を優先するジャンの頭には、もう私はいなかった。見ないようにしていたことに気付いただけだというのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。勝ち目なんてないとわかっていたから、気付かないようにしていたというのに。
「……名前、いるか?」
教室のドアが開いて、ジャンの声が聞こえた。私の居場所がわかるわけがないのに、どうしてここに。
おずおずと入ってきたジャンは、すぐに私を見つけた。手に持った毛布と水を差し出されて、どうしたのかと見上げる。ジャンは視線を横にそらしてから、押し付けるように渡してきた。
「コニーが、寒いだろうって」
「コニーが? コニーなのに?」
「言いたいことはわかる。水はミーナが」
お礼を言って毛布を抱きしめる。ジャンは、所在無くもうひとつある毛布を持ち直した。
ジャンがどうしてここに来たかわかった。ミーナが場所を伝えて、コニーが背中を押したんだ。ふたりの友人に感謝していいのかわからないまま、申し訳なさそうにしているジャンを見た。一緒にいたいけど、失恋した相手と失恋の傷を癒すことなんてできない。もう帰っていいと言おうとしたところで、教室のドアが閉まる音が聞こえた。次いでコニーの声も。
「一晩そこで過ごしやがれ! 教官にはごまかしておいてやるからよ!」
「は!? てめえコニーふざけんな!」
「ふざけてるのはジャンでしょ! 名前に水ぶっかけておいて! 名前、教官はなんとかしておくから、一晩そこで頑張るのよ」
「ミーナ! 待って!」
ふたりぶんの足音が走り去っていく。慌ててドアに駆け寄るが、開かないように細工してあるらしく、開く気配はない。ジャンが力任せに開けようとするのを必死に止めた。ぎしぎしと壊れそうな音がしている。教室からは出られても、ドアは壊れるだろう。そのあとのことは考えたくない。
くそっと言いながらずるずると座り込むジャンに近付く。泣いたばかりでひどい顔をしているけど、もういいや。
「ごめん。私がこんなところにいるから、ジャンを巻き込んじゃった。ごめんね」
「謝るのはこっちだろ。──水かけて、悪かった」
「それが原因で泣いたんじゃないから、気にしないで」
ふたりで教壇のしたに潜り込んだ。狭い場所にふたりで入ると密着してしまう。でも見回りはいつも教室の後ろから前にかけて行うから、訓練生が座る席の下に隠れていると見つかってしまう。まず教官が教室に入れるかがわからないけど。
毛布を体に巻きつけて、水を飲んだ。沈黙が耳に痛い。疲れきっているのに横になれない体で明日の訓練に挑むのかと思うと、恐怖すら感じた。
「その──オレに気を遣ってんだろ? わざとじゃねえけど、水をかけたのは事実なんだし」
「本当に違うの。あのね……失恋、しちゃって」
このままだとジャンは自分を責めるという事実と、もうどうにでもなれという気持ちが後押しをした。ジャンが目を丸くする。むりやり笑ってみせて、目を伏せた。
「あのときちょうど、それに気付いて。だから──」
じわりと涙がでた。ジャンは悪くない。ミカサを好きなジャンを好きになった、私が馬鹿だっただけ。必死に涙がでるのを隠そうとしていると、ジャンの手が頭に乗った。戸惑いながらも、同類を慰めるように慣れない手つきで撫でられる。
もう我慢できなかった。膝に顔をうめて泣く私に、ジャンは何も言わずただ頭をなでていてくれた。
・・・
どれくらいそうしていただろう。いつのまにか泣き疲れて眠っていたらしい。重いまぶたを開けると、横にジャンの寝顔があった。心臓が飛び出そうなほど高鳴って、呼吸とともにゆっくりと落ち着いていく。きっとジャンがこうして寝ているのは、横にいるのが私だからだ。恋愛対象として見ていない私だから、こんなにもぐっすりと眠れるんだ。
そうっと額にかかった前髪を梳くようにさわる。子供のようなジャンの寝顔は、女として見られていない悲しい特権だ。目を閉じて、おでこに唇をよせた。
「私ね、ジャンのこと好きだったよ」
きっと多分、これからも。ゆっくりと恋が死んでいくまでは、ジャンのことを目で追うくらいは許してほしい。
寒さで縮こまるジャンに寄り添って、私の毛布を半分かけて、そっと目を閉じる。これ以上起きていたらきっと、恋が育ってしまう。きつい訓練と久々に泣いたことで疲れていた体は、すんなりと眠りに落ちてくれた。
「……なんだよ、くそっ……」
暗闇に響く声は、彼しか知らない。