名前姉が訓練兵になると言ったのは、俺が9歳のときだった。訓練兵団に入団できる年になるから、先に行って偵察してくると名前姉は笑った。それはつまり、人類を全滅させるめどがついたということだ。
 ベルトルトなら確かに壁を破壊できるし、恐怖も与えられる。ベルトルトが引っ込み思案で自信がないから、俺も一緒に行くことになるだろう。ベルトルトのおまけになるのは嫌だけど、名前姉はライナーは優秀だよって本音で言ってくれるから、俺はもっとすごい戦士になれるんだと思う。それを間近で見るはずの名前姉がいなくなってしまうのは予想していなくて、唖然として上にある顔を見る。



「いつか、ライナーとベルトルトは訓練兵になると思う。内情を探るために」
「じゃあ、名前姉は行かなくていいだろ」
「作戦はまだ決まっていない。幅を広げるために、ふたりが成績がよくなることは必須なの。私が先に行って、ぜんぶをふたりに伝えるから」
「名前姉が行く意味は!」



 はぐらかすように答えを避ける名前姉に、思わず声を荒げる。名前姉は驚いてから、すこしさみしそうな顔をして頭をなでてきた。子供扱いしないでほしかったけど、いまの俺は駄々をこねてるガキそのもので、ぐっと口を噤む。名前姉は優しくなんども頭をなでながら、最後まで俺の問いに答えなかった。ただ悲しそうに笑って、これからは一週間に一度分厚い手紙を届けるから、きちんと勉強しておくようにと言った。
 いま思えば名前姉は、俺とベルトルトが壁を壊したら、人類が巨人を殺すために使い捨てられることをわかっていたんだろう。つまりは死ぬ覚悟をして出て行ったということだ。ガキだった俺がそれに気付いたのは、作戦が決まったあとだった。




 言葉通り、名前姉は毎週ぎっしり書いた手紙を送ってきた。訓練の内容は細かく絵をそえて、座学は要点をまとめてテストの内容が解説つきで書き綴られていた。戦闘に秀でたアニも作戦に参加することが決まり、3人で毎日勉強して体を鍛える。アニは無口であまり笑わないやつだったけど、名前姉がそれぞれに宛てた手紙を読むときだけは微笑んでいた。
 俺への手紙は、無理しすぎないようにと必ず書き添えてあった。ライナーが頑張り屋さんなのはわかっているから、とも。俺の努力を知っているのは世界でたったひとりだけでよくて、そのひとりがこうして毎週手紙を書いてくれるのは純粋に嬉しかった。
 名前姉の言葉は逆効果で、俺はもっと頑張ろうという気になる。主席で卒業して、名前姉に立派になった姿を見せたい。ベルトルトにだけ語った青臭い未来を、名前姉はきっと笑って受け入れてくれるのだろう。




 壁を破壊するときになって、俺は名前姉のことを思ってすこしだけ渋った。口には出さなかったけど、顔には出ていたと思う。名前姉から来た最後の手紙には、卒業演習の内容と駐屯兵団に入ること、配置されるのは今回の作戦とはかけ離れた位置であること、幸運と怪我がないことを祈るということが書いてあった。手紙の端々に書いてあった、同期のことはもう書いてはいなかった。



「ライナー! ベルトルト!」



 名前が息を切らせながら走ってきたのは、避難した人類にまぎれて食事の配給を受けているときだった。まわりをうろうろしては当り散らすやつらと同じ服を着ていたけど、名前姉が着ると違うものに見えた。見慣れない姿と、どうしてここにいるのかという疑問に立ち尽くす。名前姉は人ごみのなかをまっすぐに駆けて、俺たちを抱きしめた。背は同じくらいになっていた。



「怪我は? 体調は? ああ、こんなに汚れて……お腹はすいていない?」
「名前姉、落ち着け。俺たちなら大丈夫だ。そこまで疲れていない」
「本当に? ベルトルトは?」
「うん、僕も。あまり長いあいだ頑張ってたわけでもないし」
「──よかった」



 心底ほっとしたように抱きしめてくる名前姉は、記憶のなかより大人びていた。俺も背が伸びたのに、名前姉も伸びたせいでまだ追い越せていない。髪型も変わったし、なにより兵士の服を着ている。俺の知らない名前姉がそこにいるようで、だんだんとしかめっ面になっていった。



「名前! 無事だったんだな! 駆り出されたか?」
「エーリヒ! あなたも無事だったのね! 私はちょっと知り合いがいて……休みだったんだけど、どさくさに紛れてここに」
「はは、名前らしい。聞かなかったことにしとくよ。またあとでゆっくり話そう」



 手を振ってから忙しそうに行ってしまった男を見送ってから、名前姉は母親のような顔をして俺を見る。あいつを見る目と違うことはすぐにわかった。我ながらガキだと思ったけど、そのガキらしさを最大限に活かそうと名前姉のジャケットの裾を引っ張る。



「……やっぱり疲れたみたいだ。体が重い」
「やっぱり! 熱はないみたいね」



 昔みたいにおでことおでこをくっつけて熱をはかる名前姉のまつげは、変わらず長かった。向こうで驚いたように見てくるさっきの男に見せつけるように、名前姉の腰に手を回した。目を開けてよろける名前姉を支えて、頬にキスをする。うまくいくおまじないだと言うと、名前姉はほんのりと頬を染めながらも納得してくれた。
 名前姉はたしかに俺より3つも年上で、俺は弟みたいな存在だ。でも血はつながってないし俺は成長して弟から男になるし、なにより名前姉を諦めるつもりも、誰に渡すつもりもない。3年も離れていたのに色褪せることのない思いは、人類が書いた陳腐な小説のように一途だと表現しておこう。




 状況を把握し、計画を練り、人類がふたたび気を緩める年数を想定し、壁を破壊した2年後に訓練兵になった。名前姉の使っていた本を譲ってもらったおかげで、勉強はかなりはかどった。開拓地で名前姉にあまり会えないのは嫌だが、いまでも手紙をやり取りしているから、すこしは気がまぎれた。
 問題は名前姉の同期だ。いつか滅ぼす人類が相手だからか、名前姉もあまり気を許してはいないようだった。名前姉との秘密を共有しているのは俺たちだ。その優越感が、きつい日々をなだらかにしてくれた。




 訓練兵になってから、名前姉と手紙をやり取りすることは少なくなった。内部の情報を上に送るようになったからだと思う。それでもひと月に一度はそれぞれに手紙が来た。たまに高そうなペンやお菓子などが届き、名前姉のいたずらが成功したような顔が目に浮かんだ。
 人類が作り、定めたお金なんて価値がなくなることを名前姉は知っている。惜しみなく使うのが俺たちに関することというのがあまりにも名前姉らしくて、顔が自然と笑ってしまう。せっかくだから、たまにはこちらもお返しをしてみようか。

 3人でこっそりとつんだ花をしおりにして、それぞれが手紙を書き、半年に一度ある半日やすみの日に買い物に行った。ああでもないこうでもないと言い合って、結局選んだのは髪留めだった。なかなか高く細かな細工のそれは、名前姉の綺麗な髪を引き立てるにはぴったりだろう。
 ついでにこっそりと、なけなしの金をはたいてレースのハンカチを買った。女を口説くんだろうと店主に渡されたメッセージカードになにを書こうか悩んで、ストレートに書くことにした。時間はあまり残されていない。
「愛する名前へ。これは俺個人からのプレゼントだ。卒業するまでに返事を聞かせてくれ」
 突然のことだとは言わせない。俺はいままでわかるように接してきた。気付かないふりをしているだけだと名前姉も知っているはずだ。俺を見る目にほのかな愛が混じりかけているのを見逃すほど、俺は甘くはない。



 あと半年でようやく名前姉と肩を並べられるという日、名前姉がやってきた。憲兵団、駐屯兵団、調査兵団からそれぞれ一人ずつ、どんなところか説明するために。そんなことをしなくてもあらかたわかっているが、やはり在籍する人物から聞くと違う。まさか名前姉が来るとは思っておらず驚く俺たちに、いたずらが成功したとウインクする女性。
 変わっていない名前姉は、わかりやすく丁寧に仕事内容や失敗談を語った。久しぶりに聞く声は低めでやわらかく、何人かが憧れるように見るのが気にくわなかったが、今はそれどころじゃない。壁を壊した日にいたエーリヒという男が、調査兵団として名前姉のとなりに立っていた。殺気立っている俺をなだめるようにベルトルトが見てくるが、どうやっても静まりそうにない。
 確かに俺は名前姉より年下だが、男だ。どんなものからも守れるよう、兵士として訓練してきた。名前姉を見つめてきた年数だけは誰にも負けない。

 それぞれの説明が終わり、昼食を食べながらの質問タイムとなったところで、誰より先に名前姉のもとへ駆けた。名前姉の背はもう、俺の胸あたりまでしかなかった。見上げてくるという行動が新鮮で、名前姉の手をにぎって部屋を飛び出す。俺だって名前姉と同じジャケットを着ている。紋章が違うだけで、それももうすぐ解消する。
 手をつなぎながら廊下を歩き、ある程度進んだところで止まった。名前姉の目はうるんで、どうしようという雰囲気が全身からでている。それに構わず、名前姉と向き合った。



「──愛する名前へ」
「っ!」
「卒業するまでに返事を聞かせてくれ」
「まだ半年、あるじゃない」
「もう半年だ。次にいつ会えるかもわからないのに、返事はもう決まっているのに。待つ理由なんてないだろう?」



 はじかれたように顔をあげる名前姉の頬にキスをする。びくりと動いた体は、キスを拒むことはなかった。これくらいなら、姉に対する親愛のキスとして許されるだろう。教官への言い訳を考えながら、名前の頬をなでる。



「名前。聞かせてくれないか」
「──いつから?」
「気付いたときにはもう。小さい頃から、ずっと好きだった」
「ずるい……ずっと弟だと思おうとしてきたのに」
「はっきり言ってくれ。わからない」



 腰を引き寄せ、顔をよせてささやく。赤く染まった頬はもう隠せなかった。顔をわずかに背けながらも、下から窺うように覗き込んでくる名前があまりに可愛くて、欲情や恋や親愛がぐちゃ混ぜになって襲いかかってくる。
 できるだけ顔に出さないように押さえつけているのを、名前は都合のいいように解釈してくれたらしい。あわく色づいたくちびるがわずかに開いて、目は俺をしっかりと捉えた。



「私はライナーを愛しています」
「俺も、名前を愛してる」



 いつだか名前が手紙に書いてきた一文が頭をよぎった。しっかりと一番大事なものを決めて、それを大事にしてね。開拓地にいた俺にはわからなかったが、今ならわかる。こんなやつらがいると最初からわかっていたら、壁を破壊しなかったかもしれない。訓練兵になんかならないと言い張って、名前姉が偵察に行くのも取りやめにさせていたかもしれない。いまさら、すべてが遅いが。
 俺の大事なものはもう決まっている。名前と故郷に帰る。揺らぎそうになる気持ちをもとの位置に正すのは、いつもこの思いだ。

 廊下でこっそり見ているなかに教官がいないこととあの男がいることを確認して、名前を抱きしめる。くちびるを寄せると、とまどいながらも素直に目を閉じた。綺麗なひとみが見られないのは残念だが、この顔を見られるのは俺だけの特権だ。ふれたくちびるは柔らかくて、目眩がした。
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