まさか、ひったくりから荷物を取り返した女と二人きりで、外で会うことになるとは思わなかった。ジャージを借りたまま帰ってしまったのに気づいたのが寮に帰ってからだったことを考えると、まだ動揺が残っていたのかもしれない。親しいどころか名前すら知らない相手に一人暮らしのアパートを教えたあげく、招き入れるなんて思わねーだろ普通。
ジャージを着ていると指摘されたのが福ちゃんだったからまだ良かった。あの真顔で「お嬢様学校のジャージだな。誰かにもらったのか?」と聞いてくるのには驚いたが。あの間抜け女からはお嬢様っつーニオイはしなかったが、いいとこの出だとすると抜けっぷりにも納得がいった。
そのあとオレの汗臭い洗濯物と一緒に洗うことはなんとなくできなくて、あのジャージ一枚だけ洗った。洗剤と柔軟剤をたっぷり入れたそれが回っているあいだ、なんとか連絡がとれないか考える。家を知ってんだから行ってもいいが、さすがにそれはできない。このあいだ差し入れにきた見たことねーOBはスプリンターだっつうから、新開あたりだったら知ってる可能性がある。
洗濯が残り何分で終わるかしっかり覚えてから、新開の部屋を訪ねた。洗濯が終わって万が一誰かがあのジャージを出してしまったら、騒ぎになること間違いなしだ。
新開の部屋に行って、理由は言わないままあのOBの連絡先を知りたいと聞くと、わかったとだけ言って誰かにメールしてくれた。なにも聞かれないのが、見透かされてるようで落ち着かない。
「OBと一緒に来てた、あの女の人に用があるんだろ?」
「そんなんじゃねーヨ! 忘れ物してったから、伝えるだけだ」
「オレのバキュンポーズ、使っていいぞ」
「使わねーよボケナス!」
新開に流されたのがムカつく。
その日は返事がこなくて、結局あのOBまで話が伝わったのは翌々日のことだった。新開からスプリンターの先輩、その先輩から違う先輩へ、その先輩からあのOB、OBから間抜け女の友達、そしてあの間抜け女へ。5人を通してやっと連絡できると思ったら、新開はオレの番号を教えたとぬかしやがった。なんで電話がくるまでそわそわ待ってなきゃいけねえんだよボケ。
・・・
二人でケーキを食べたりウインドウショッピングしたり、こんなに長いあいだ女と二人きりですごしたのは初めてかもしんねェ。傍から見たらデートに見えるだろうけど、こいつはまったくそう思っていないのがわかる。ここまでいくと鈍感とか間抜けとか、そういうのを通り越してんだろーな。
名残惜しいだなんて戸惑う感情で名字サンを送り届けたあと、ビアンキに乗れねーから歩いて帰ることにした。こういう体を動かせないどうしようもねー時間は、嫌な感じで肘が疼くから、本当に嫌になる。
でもこれは怪我じゃなくてオーバーワークなだけだし、今日はいつもより機嫌がよかった。ひとりじゃ何もすることがなく部屋で腐ってた時間が、ケーキとコーヒーに変わったからかもしれない。
寮に戻って部屋のベッドに寝転んで、何をするでもなく携帯を開く。そこには名字サンが打ち込んだ、名字名前という文字が浮かんでいた。
携帯を見ながらぼんやりと今日のことを思い出していると、ケーキを食べてゆるんだ幸せそうな顔が思い浮かんだ。人を中身で見たいとか言ってた甘チャンは、元ヤンがロードに乗ってると知るとどんな顔をするんだろう。驚いて勝手に怯えて、もう会うこともなくなるかもしれない。大抵のクラスメイトやセンコーみたいに。
……だけど、あいつは最初から、オレがどんだけ言ってもひるまなかった。気にしてないとも言える。
ごろりと寝返りをうったとき、携帯が鳴った。東堂あたりだったらうぜーなと思いつつ画面を見ると、そこには名字名前の文字があって飛び起きた。反射的に通話ボタンを押してしまって、心の準備もできていないのに電話がつながる。
「あ、荒北くん? 今日はありがとう、名字だけど。いま時間あるかな?」
「おー」
「よく考えたら、大会の場所とか日程とか詳しいこと聞いてなかったと思って。日にちを教えてくれない?」
自分の口から、思ったより冷静な声がでて安心した。机の上に放りっぱなしの紙を探し出し、日程と場所、簡単にどういうコースを走るか説明する。向こうはメモしながら聞いているようで、ふんふんと言いながら日時を復唱していた。
「選手はエントリーや準備のために午前から行ってるが、始まるのは午後だ。間違えんじゃねーぞ」
「うん。早めに行ったら、荒北くんに会えるかな?」
「会えんじゃねーの? 監督も来ねェし」
箱学でかたまってはいるけど絶対に離れちゃいけないわけじゃない。確実じゃねえけど、と念を押して言うと、それでもいいと名字サンは嬉しそうに笑った。
「荒北くん、応援してるね。すっごく応援してるから」
「おー」
「だから……差し出がましいかもしれないけど、無理しすぎないでね。荒北くんの疲れを私が吸い取れたらいいんだけど、そんなことできないし」
しょんぼりとしているだろう名字サンの声と言葉が予想外すぎてかたまる。頑張れならよく言われるが、無理しすぎないでというのははじめて言われた。部活の連中は、みんな頑張って無理して吐きながら練習して、インハイに出られる6人のなかに入ろうと必死なのだ。それが普通だし、それが目標だ。
とまった頭が動き出して、ようやくオーバーワークだと言ったことを気にしているんだと気付いた。そりゃ無理したら悪化するもんな。
「……そんなバカなことしねェよ」
「そっか、よかった。今日は本当にありがとう、すごく楽しかった」
「スコーン2つも食ったしな」
「あ、あれは荒北くんが私のケーキを半分以上食べるからで……」
「そのぶん差し入れに期待しとくぜ」
「うっ……が、頑張る……」
そのまま自信なさそうな、だけどやわらかく「おやすみ」と言った名字サンの声が耳に残って仕方なかった。通話が切れた画面を見て、またベッドに寝転がる。
疲れを吸い取れたらいいって……数回会っただけの他人にそこまでするなんて、どんだけお人好しなんだか。それが名字サンらしいけど、悪いヤツにつけ込まれそうで少し不安になる。……オレには関係ねェことだけど。
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