一時間目が終わったときに英語の辞書を借りに来た巻島くんは、「ありがとな」と言ってすぐに教室に帰ってしまった。それが普通なんだけど、なんとなく寂しい。彼女と話す後ろ姿を見るのは三度目だけど、慣れそうにもなかった。
二時間目が終わったあとに辞書を返しに来た巻島くんは、借りに来たときと違ってすぐには帰らなかった。なにか言いたそうに私を見て、鼻の下をこする。
「英語、宿題がでて。よかったらまた貸してほしいんだけど」
「うん、いいよ。私は三時間目が英語だから、終わったら貸すね」
せっかく巻島くんと話せているのに、心が重い。用事がないと話しかけてもらえない関係だって、わかりきっていたのに。自分から声をかけることも出来ないのに、巻島くんから声をかけてくれるのは待っているなんて。
「苗字? 気分悪いっショ?」
「ちょっと寝不足で。夜中のテレビって、つい見ちゃうんだよね」
笑ってごまかすと、ほっとしたように巻島くんが笑った。早く寝ろよ、という言葉に頷いて、手を振って別れる。巻島くんは彼女と歩いていないのに、なぜか喜べなかった。
のろのろと席に戻って、手持ち無沙汰に辞書をぱらぱらとめくる。手紙がなくなっているのを確認して、ほっとしたような残念なような、よくわからない気持ちになった。
辞書の最初のページまでめくると、ノートの切れ端が挟まっているのが見えた。こんなものを挟んだまま巻島くんに貸したのかと思うと恥ずかしくて、慌てて紙切れを取る。広げてみると、そこには巻島くんの字が書いてあった。
「辞書が見つかるまで、しばらく借りる。悪いな。部活はいい一年が入ってきたから、今年はいけるかもしんねえ。部活、今度はきちんとした場所で見ろよ。いいとこ教える」
一気に読んでから、もう一度じっくりと読む。まさか返事がくるなんて思わなかった。
じわじわと喜びが湧き上がってきて、叫びたい衝動に駆られる。私がこっそり部活見てたの、知ってたんだ。恥ずかしいやら嬉しいやら、どう思っていいのか全然わからない。
「授業はじめるぞー」
「きりーつ。れーい」
チャイムがなって先生が入ってきて、だるそうに生徒が立ったり座ったりする。いつもの光景なのに心がふわふわして、私だけ別の世界にいるような感覚だった。
授業なんてそっちのけで、ノートに返事の下書きをする。書きたいことや聞きたいことがたくさんあるのに、さりげなく短い文しか書けない関係なことがもどかしかった。
・・・
「巻島くん」
「苗字」
巻島くんと会ったのは、昼休みの自販機の前だった。ほかに誰もいない場所で、お互い財布を持ったまま立ち尽くす。
まだ決めてないから先にどうぞ、と促すと、巻島くんもまだ決まっていないという答えが返ってきた。本当はたくさんお話したいのに、沈黙が重い。
「えと……苗字。これ、どうやって折ってたんだ?」
巻島くんが胸ポケットから取り出したのは、私が書いた手紙だった。四つ折りになっているそれは綺麗にたたまれているけど、私が渡したときの折り方とは違う。
「開けたら戻し方わかんなくなったっショ」
「これはね、こうやって折るんだよ。覚えたら簡単だけど、パッと見わかんないよね」
一度折り目がついているから、すぐに元通りになる。手紙の形になったそれを、巻島くんは驚いたように見てから、クハっと笑った。また胸ポケットにおさまった手紙は、ずっとそこにあったのかと考えるとなんだかむず痒い。
「女子って手紙の交換してるけど、こうやって折ってんだな。全然わかんなかったっショ」
「それは一番簡単なやつだよ。難しいのはハートかな。いまだに覚えきれないんだ」
「そんなもんまであるのかよ」
「今度渡そっか? 絶対に元通りにできないよ」
「勘弁っショ」
巻島くんが笑って、自然と私も笑う。それから自販機に向き直って、ようやく自分の発言に気付いた。
男子にハートの手紙を渡すとか、それもう絶対に言い訳できない! 巻島くんが流してくれたからよかったものの!
「苗字はどれにするか決めたか?」
「あっはい! ミルクティーにします!」
「なんで焦ってるんショ」
「焦ってません!」
思わず敬語になってしまったけど巻島くんはそこにはツッコミを入れず、100円玉を入れてミルクティーを押した。がこんと出てきたパックジュースを取り出して私に押し付けたあと、もう一度お金を入れてコーヒーを押す。
出てきたコーヒーにストローを差して飲み始めた巻島くんは、なんだか可愛い。
「飲まないっショ?」
「え? ……あ、ボタン押してくれたんだ、ありがとう。はいお金」
「いらないっショ」
「な、なんで?」
「これから辞書借りまくるから、せめてものお礼ってヤツ。100円だけどな」
「いいよ、悪いよ! 貸すのが負担になってるとか、そんなことないし。あっそうだ、これ巻島くんが飲む?」
「残念。オレ、ミルクティー飲めないんだわ」
してやったりという顔で笑う巻島くんに、思わずぽかんとする。こんな一面もあるなんて、新たな発見だ。
「もう、巻島くんってば。今度手紙のなかに100円入れてやるんだから」
「そのままお返しするっショ」
「巻島くんの四つ折りの手紙じゃ無理だよーだ」
「もう折り方覚えたっショ」
同じクラスのときより素直に、気取らずに話せるのは、なんだか不思議な気分だった。まわりに誰もいないのが幸いしたのかもしれない。
巻島くんの笑顔が私だけに向けられているかと思うと嬉しくて舞い上がってしまいそうで、心臓のはじっこがちくりと痛んだ。
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