「いってきまーす。今日は遅くなるからね」
「はい、いってらっしゃい」



 先生の声を聞いて玄関から出る。私の髪を、夏になりかけた風がくすぐるようにもてあそんでいった。
 なかなか気に入っている制服はブレザーだ。灰色の上着に赤いリボン、チェックのスカート。ふんふんと歌を口ずさみながら、誰もいないことを確認してくるりと回る。胸元で、木彫りのネックレスが揺れた。



「今日はバイト、明日もバイト、高校卒業するまでにためないと、世間は世知辛いー」



 自作の歌は、なかなかな出来である。満足して笑って、ふつうに右足で地面を踏みしめようとしたところで、すっぽりと地面がなくなった。落とし穴のようにぽっかりと開いた穴はどんどんと広がって、落ちないようになんとか踏みとどまろうとした私を飲み込んでいく。



「うひゃああ! だっ、誰かぁ……!」



 情けない声は、地上にいる人からすればみるみる小さくなっていったに違いない。突然地面にできた穴は、ウォータースライダーのようなすべり台のようなものにつながっていた。360度プラスチックのようなものに囲まれ、継ぎ目もなく、手をかけるところもなくただひたすら滑り落ちていく。何度も止まろうとしたけど、いくら足で踏ん張ってもスピードが落ちる気配はない。
 たぶんうさぎを追いかけてアリスが落ちた穴って、こんな感じなんだろうなぁ。もはや諦めながら、ぼんやりといつまでたっても終わらないすべり台に身を任せる。お守り代わりになっている木彫りのネックレスを両手で持って、祈るように目を閉じた。



「天国にいるか地獄にいるか、もしかしたら生きてるかもしれないけど、私を捨てた両親さん、いまだけはふたりの幸運を私にくださいな!」



 藁にもすがるとはこのことだ。顔も見たことのない両親の幸運を吸い取ろうと躍起になっているあいだに、いつのまにかすべり台は終点になっていたらしい。不意に眩しい光に包まれ、空中に投げ出され、真下にいる男の子に思いきりぶつかった。ごんっと鈍い音がして、鼻とくちびるが痛む。あと膝と腕とひじと胸も。
 衝撃をまだ受け止めきれないまま、なんとか顔をあげる。目の前、5センチしか離れていない場所に、男の子の顔があった。目が合う。



「……ん? あれ? 私たちの目と鼻と口の位置、ばっちりあってますね? もしかして……もしかして」
「っなんだよてめえは!」



 男の子が乱暴に私を突き放して、慌てて口をぬぐう。もしかして……もしかしてー!
 突き飛ばされて地面に転がったまま、無言でうなだれる。そりゃどうしようもなかったけど、回避できなかったけど、こんなふうにファーストキスが失われることはないじゃない……!
 男の子は慌てたように誰かを見て、いまのは事故だと言って、それからがっくりとうなだれた。男の子の視線のさきには赤いマフラーを巻いた、いまの男の子の言葉なんて聞いていない顔をしている女の子がいる。男の子の完全なる片思いがわかってしまって、なんともいたたまれない気持ちになった。その、ごめんなさい。



「貴様、いまどこから来た」
「あっ、こんにちは、すみません突然。ふつうに道を歩いてたらマンホールのようなところに落ちてしまって、それから水のないウォータースライダーを延々とすべっていたらここにいたんです。あの、ここはどこでしょうか?」
「……マ、ホール? スライダー?」



 聞きなれない単語を繰り返すように、スキンヘッドの人が繰り返す。
 ……本当にここは、どこだろう。ここにいる人はお揃いの見慣れない服を着てるし、よく見ればみんな外国人さんの顔つきだ。金髪碧眼もいるのに、みんな日本語で話している。私の顔も外国人っぽくはあるけれど、ここまでじゃない。



「……日本にあるアメリカの基地とか? あの、地名を教えてもらってもいいですか?」
「ニホン? なんだそれは」
「えっ」
「ここはウォール・ローゼ内にある訓練兵団訓練所だ。貴様はどこから来た」
「えっ。ええと、日本です。ジャパン。中国のとなりにある、ほら、アジア。アジアン、東洋、ええとあとは……」
「……東洋?」
「あっはいそうです! 中国とか台湾とかの近くにある島国です」
「……島?」
「海に囲まれてる小さな、富士山スシてんぷーら。知らないのは珍しいかもしれないんですけど、」
「海?」
「はい」



 ……なにかがおかしい、気がする。この人が反応した単語を言えば言うだけ、なんだかおかしな空気になっていく。かばんをぎゅっと握りしめて、そろりと上を見上げた。いくら能天気な私でも、こんな空気のなかではケセラセラなんて言えないぞ。



「すみませんが、ここの国名を教えてもらってもいいですか? どこの国の、ローゼなんでしょうか?」
「国はひとつしかない」
「と、統一国家……?」
「もう一度問う。貴様は、どこから来た?」



 緊張と沈黙が空間を支配する。私、かなり詳しく言ったと思うんだけど、伝わらなかったのかな。
 日本を知らなかったということは、ここはかなりの秘境で、偶然にも日本語と同じような言葉をしゃべっている、ということなのかもしれない。とりあえずかばんから日本史の教科書をだして広げる。



「ええと、まず日本の最古の歴史が旧石器時代なので、それから説明しますね。この頃にはマンモスがいて、ナイフや槍を使って倒していたんじゃないかと思ってます。火を使っていたことがわかっていて、」
「……そうじゃない」
「あっ卑弥呼まで飛びますか? それとも小野小町とか、むしろいまの時代から遡ったほうがいいかもしれないですね」
「そうじゃない」



 そうじゃないならなんだというんだ。どこから来たかと聞かれて答えたら日本を知らなかったから、日本の歴史を伝えてどんな場所から来たか教えようとしただけなのに。
 首をかしげて、目の前の人を見上げる。理解不能な出来事が立て続けにおこって、この人も混乱しているのかもしれない。疲れた頭には糖分がいちばんだ。



「あの、チョコ食べます?」
「……いらん」



 あっさりと拒否された。



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