「名字、今日時間あるか?」
そう西川に聞かれたのは、夏を感じつつある朝のことだった。目を輝かせるシノを先に行かせてから、西川のとなりへ行く。畑に向かいながら、西川がすこし小さな声で話し始めた。
「同じ部屋のやつが石窯見つけてさ。今日ピザ焼くんだ」
「ピザ!?」
「静かにしとけ。これ以上人が集まったらピザ足んなくなるぞ」
「あっごめん!それで、ピザがどうしたの?」
「俺、野菜担当なんだ。一緒に選んでピザ食うか?」
「食べる!」
考える素振りも見せない即答に、西川がすこしだけ目を見開いたあと笑いだした。いいじゃない、ピザ食べたいんだから。おいしいものを食べることが楽しみなんだから。頬をふくらませてそっぽを向くと、軍手をはめた指が頬に突き刺さった。加減していないそれに、ぶふっと空気が漏れる。
「悪ぃ。力加減間違えた」
「痛い!でもピザ誘ってくれたから許す!」
「名前、遅れるよー!いちゃついてないで早くおいで!」
「いちゃついてないよ!等価交換してるだけー!」
シノに叫び返して走り出す。今日のピザ、楽しみだな。
・・・
西川とピザの野菜をみつくろうのは、とても勉強になった。農業に慣れてきたとはいえ、まだ素人と同じだから、西川が言うことに驚いて感心するしかない。
ふたりで野菜を持って行って、作りたてを食べたピザは、笑えるほどおいしかった。西川のこんな笑顔、はじめて見た気がする。
「うまい!採ったばかりのアスパラもうまいだろ、名字」
「うん!すごくおいしい!」
ピザが次々と焼かれていって、次々にお腹に入っていく。おいしいものでお腹が満たされていく感覚に目を細めると、視界に見たくないものが映った。間違いない、あれはハゲ先輩だ。どうしてここに……!
「にっ西川!隠して!」
「あ?あー」
先輩を見た西川が、背中でかばうようにして立ってくれる。それでも隠れきれないのは、ピザを食べて横に伸びたからだろうか。いや、こんなにすぐ太るわけがない。とりあえずダイエットしよう明日から!
こそこそと西川の背に隠れる私を見て、近くに立っていた人が不思議そうに覗き込んでくる。背が高くて筋肉もりもりだ。
「隠れてんのか?」
「おう、駒場か。こいつあの200万なんだけど、先輩に狙われててさ」
「おー、200万か」
「その覚え方は事実だしいまはそれどころじゃないから怒らないでおくけど、その呼び方やめて。名字名前って名前があるんだから」
「名字か。わかった」
駒場と呼ばれた男は、西川の横に立って私を背に隠してくれた。思わぬ援護にお礼を言う前に、あの先輩が近付いてきてできるだけ屈む。
「おー、西川。名字来てるか?」
「さあ、俺は見てませんけど」
「うっす。見てないです」
「おっ駒場も来てたのか!今日の練習も頑張ろうな!」
駒場が頭をさげながら、私の体をさりげなく誘導する。西川の背から離れ、駒場の左側へ、それからじりじりと体の前へ。駒場に抱きついているような形になっているけど、いまはそれどころじゃない。ときめきはなく、あるのは恐怖だけだ。
「……駒場、行った?」
「おう」
「本当に?ねえ西川、ハゲの姿見える?」
「見えねえ」
「よかったー……」
力が抜けて駒場に寄りかかってしまう前に、西川に引き寄せられた。バランスを崩してふんばる力もない体を、西川が受け止めてくれる。あー……西川のにおいがする。土と洗剤と汗のにおい。
「うえー……どうしてここに」
「エゾノー生だからだろ。そんなに嫌ならさっさと断っちまえ」
「悪い人じゃないんだけどね……私を見る目がちょっと、怖くて」
「駒場、あの先輩野球部なんだろ?」
「おう。いい人だぞ。嫁のあてがなくて焦ってんだろ」
それなら結納金500万とかに釣り上げておくんだった。近くに先輩がいないことを確認して西川から離れる。ずいぶん長いことくっついてしまっていた。
「ごめん、ありがとう西川。お世話になりっぱなしで申し訳ないよ」
「気にすんな。そんなに嫌なら早く断れよ」
「そうする。駒場もありがとう、すごく助かった。それにしてもすごい筋肉だねえ。私もこれくらいほしいな……すごくかたいね」
「名字」
「なに西川」
「先輩来てる」
「うそ!」
「うそ」
「……うそ?」
「うそ」
咄嗟に西川の背に隠れたまま、きょろきょろと首だけ出してまわりを見る。先輩の姿がないことにほっとして、それから怒ろうとしたところにピザが差し出された。ベーコンとチーズとアスパラが乗ったあつあつのそれは、西川の手によって口まで運ばれる。
「おいしー!何回食べてもこのピザおいしいね!」
「だろ。食え食え」
これで怒りをすっかり忘れてしまったのは私が悪いんじゃない。おいしすぎて怒る気をなくさせるピザが悪いのだ。あとたぶん、笑った西川の顔がなんだか可愛かったから。怒る気がすっかりなくなってしまったのだと、そう思った。
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