夕暮れは早く、日が落ちると一気に寒くなる。ほうっと手に息を吹きかけて、沈んだばかりの夕日を見つめた。濃いオレンジ色がふつりと消えると、あたりには紫と群青が混じったような出来たての夜空が広がる。早くも星が光っている空を見上げてすがすがしい空気を吸い込むのは、なんとなく体のなかが洗われるような気がする。牛や畑の近くでしないのがミソだ。
今日は野菜を収穫し、逃げた牛を捕まえ、堆肥にするための牛のうんこを運んだ。後半はほぼ牛まみれだったわけである。
「部活、まだやってるかなあ」
すこしだけ急いで、暗くなった道を歩く。体中が牛くさいのはどうしようもない。普段は土くさいんだし、大差はないだろう。この考えがもはやエゾノーに馴染んだ証と言えなくもないが、香水をふりかけても悪臭がうまれるだけなのだ。そもそもお金ないし。
近くの水道で軽く手足などを洗ってタオルでふいていると、ぬっとあたりが暗くなった。月が雲にでも隠れたのだろうか。
ふっと顔をあげると、近くにハゲ先輩がいた。時間がとまる。
「おい」
「っはははははい!」
いつからそこに!というか気配は!気配を消さないでください!
反射的に距離をとりながらタオルを握り締める。月が隠れて、向こうは私よりも背が高いから顔がよく見えない。この先輩は悪い人ではないのだ。心配して先輩について聞き込みをしてくれた恵ちゃんもそう言ってたし、私もそう思う。悪い人ではない。ただ、私を見るときにぎらぎらした目で見てくること以外は。それが怖いだけで。
「GW、暇だよな?」
「え?いや、そんな先のことはちょっと……」
「そう言うってことは予定がねえべ」
まだ2週間先のことなのにそう言い切られると、図星だからかムッとしてしまう。どうせ暇ですよ。帰る家もないし。
じわじわとにじり寄られて、じりじりと後ろへ下がる。視線をそらすのが怖いから、ひたすら相手の出方を探りつつ後ろの気配を探る。壁の方向へ行ってしまったら終わりだ。
「俺の家に来いよ。母ちゃんも父ちゃんも連れてこいって言ってるし、バイト代出すぞ」
「まだ予定、わかんないんで」
「結納金のことも話すって言ってるべ」
「その話はまた後日。きちんと考えときます」
そう言っているのに、引いてくれる気配はない。もしかして頷くまでこの状態なのだろうか。さあっと血の気が引いていくのを感じた。
エゾノーは広いがゆえに、人が通る場所も限られている。さっきからここは人通りがない。いざとなったら習いたての空手でなんとかしたいけど、力でねじふせられたら終わりだ。まだ返事を待っている先輩にはっきり断ろうと口を開いたとき、どこからか私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい名字、いるか?先生が呼んでるぞー」
「っ、ここ!ここにいるよ!」
「チッ。考えといてくれや」
先輩は残念そうに舌打ちをしながら、背を向けて去っていった。へなへなと体から力が抜ける。ぺたんと地面に座り込むと、暗闇からぬっと西川がでてきた。
「西川……」
「気ぃつけろっつったのに」
「西川ぁ……!」
情けない声で、近くにきた西川の服の裾を掴む。手が震えているのに気付いて必死に隠そうとしたけど、西川にはわかってしまったかもしれない。服を掴んだまま立ち上がって、なんとか笑ってみせた。
「ありがと、助かった。どうしてここがわかったの?」
「たまたま通りかかってな。危ない空気だったから」
「GWに来いって言われて。結納金の話もするとか……その前に私の話を聞いて、そもそも名乗れって話よね」
西川が顔をそらす。やっぱり西川にはすべてお見通しだったのかもしれない。こぼれそうになる涙を隠そうと下を向いて、まだ掴んだままだった服を握り締めた。西川はなにも言わずに立っているだけで、それが安心できた。
「部活、いいの?」
「いまから行く。遅れても気にする奴はいないだろ」
「うん。空手、習ったのに……なにも出来なかった」
「こんな短期間で出来るわけねえべ」
「うん。テレビで見たような借金取りが来たら、追い払おうと思って」
「名字って、頭悪くないのにバカだよな」
「うん」
なにかを紛らわそうと話し続けているのに、西川は付き合ってくれた。握り締めた手からだんだんと力が抜けて、作り笑いじゃなく本当に笑えるまで。ほんの数分であの怖さが溶けてなくなるなんて、まるで魔法みたいだ。
「ありがとう西川。お礼に今晩のおかず一品あげる」
「やりい」
そのままなんとなく服を掴んだまま並んで歩いて、途中で手を振って別れた。人通りの多いところまでついてきてくれた優しさに気付いたのは、少しあと。無駄のないすっとした背中が闇に溶けるころだった。
・・・
その晩おかずをあげて、お風呂上がりになんとなくロビーのベンチに座っていると横に西川が座った。西川もお風呂上がりらしく、ジュースを買って飲みながらキャラクターの描いてある財布に小銭をしまう。
「それ何のキャラクター?」
「剥きむきメモリアルってゲームのキャラ。可愛いだろ?」
「うん、可愛いね。西川ってゲームするの?」
「おう。楽しいぞー」
「あんまりゲームしてこなかったけど、こうしてみると楽しそう。やってみたいな」
「ソフト貸してやろうか?」
「ほんと!?あ、でも駄目だ。本体がないや」
一瞬で盛り上がった気持ちが冷めて、壁にずるずると背中を預ける。今日は散々な一日だったから、早く寝よう。そしてリフレッシュして明日も牛のうんこを運ぶんだ。
首にかけたタオルで髪の水分を吸い取りながら、細く長いため息をつく。そういえば娯楽の類は全部売っちゃったからなにもない。
「GW……行かなきゃいけないのかなあ……」
「……名字、」
「しまった、髪乾かさなきゃ!早くしないと学習時間になっちゃう!おやすみ西川、また明日」
深く考えるのは性に合わない。今度言われたらはっきりきっぱり断ってやる。あんまりしつこいとハゲって言ってやるんだから。そう決意する私の背中を西川が見ていたことを、私は知らない。
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