静けさを破るようにピピピ、と小さな機会音が数回鳴り響いた。布団の中でもぞもぞと動きながらその音の主を掴み、うっすらと瞼を開けてそれを確認する。
「……38.5℃」
表示されていた数字に体の怠さと寒気が増した気がして、顔の半分を覆うぐらいまで布団を引き上げた。
昔から、身体は丈夫な方だった。
風邪を最後に引いたのは覚えている限りアカデミーの頃だし、体調不良が原因で任務を休んだ事は一度だってない…それなのに。
(最悪、なんでよりによって非番の日に…)
いや…任務を休んで迷惑をかけてしまう事を考えれば、逆に良かったのかもしれない。それでも久々の休みをこうしてベッドの上で過ごさなければならない事実に、自然とため息が漏れてしまう。
――それと、もうひとつ。
「けほ…っ、ゲンマに会えないって伝えなきゃ…」
自身の恋人である彼もまた、今日は休みをもらったと言っていた。同じ忍という職業、同じ特別上忍という階級。休みが重なるなんて滅多にない。
だからこそ、そんな滅多にない日は大切にしたかったのに。
熱のせいで普段より重く感じる身体に鞭打って上体を起こし、彼に向け式を送る。たったそれだけの事でも今は辛くて、直ぐにまたベッドに身を沈め天井をぼんやりと眺めていると、次第に意識が落ちていくような感覚に誘われる。
(久しぶりに、会いたかったな…)
美味しいものを食べに行ったり映画を見たり…ううん、そんな事しなくてもただ隣に、同じ空間にいるだけでいい。そう思いながら、重くなっていく瞼を重力のまま閉じてった。
沈んでいた意識が小さな音によって浮上していく。ゆらゆらと微睡の中を彷徨いながら、ゆっくりと。次に聞こえたのは扉を開く音…そして、"何か"の香りが鼻腔をくすぐって――
「お、なんだよ起きてんじゃねーか」
瞼を開けて視界に映ったのは、いつものように千本を銜えたゲンマの姿。
熱のせいで未だボンヤリする意識の中、ゲンマはベットの横に座って私の額に手をあてる。ひやりと冷たい、大きな掌。
「…なんで居るの」
熱があるから今日は会えないって、そう式も飛ばしておいたのに。
「なにって、見舞いに来ちゃいけねーのかよ」
「…うつっちゃうでしょ」
「これくらいで移るようなら特上やってねーよ。それにお前が風邪引くなんて珍しいからな」
今頃弱ってんだろーなと思って。そう言って小さく弧を描く口元。
その表情に、発せられた言葉に。柄にもなく胸の奥が熱くなり、鼻の奥がつんとして。それを悟られないよう慌ててゲンマから顔を背けた。
実際心細かったし、こうして会いに来てくれたことが泣きたくなるくらい嬉しかったけど。
それをそのまま言葉にするのはどうしても恥ずかしくて。話題を変えようと逸らしていた視線を戻して、さっきから気になっていたことを聞いた。
「ねぇ、さっきから気になってたんだけど…なんか焦げ臭くない?」
「あ?あ、いやー…そうか?俺は匂わねーけど」
問いかけに、ゲンマは一瞬視線を逸らしたもののすぐ私と目を合わせてサラリと答える。…けれど口元の千本は小さく揺れ動いていて。
それはゲンマの昔からの癖だ。落ち着かない時、感情を抑えようとする時…そして、嘘をついている時の癖。
「ゲンマ、何か隠してるでしょ」
「…してねー」
「怒らないから、正直に言って」
「……」
まるで子どものように押し黙ること数秒。その間もゆらゆら揺れる千本。暫くして根負けしたかのように交わっていた視線を逸らしたゲンマが、ぽつりと呟いた。
「…お前が、風邪ひいたっつうからよ」
「うん」
「なんか食うもんでもと思って…」
「…もしかして、おかゆ作ってくれた?」
「……」
普段キッチンに立つことなんてないゲンマ。ひとり暮らしは長いけれど自炊は滅多にしないと聞いていたし、私と付き合ってからも何かを一人で作っている姿を見たこともない。…それなのに、わざわざ。
「…食べたいな、そのおかゆ」
「いや、匂いでわかんだろ?焦がしちまったんだよ。だから捨て――」
「それでもいいから」
慣れないながらもキッチンに立って私の為にがんばってくれたのだと思うと、どうしようもなく嬉しさがこみあげてくる。
もう一度「食べたい」と思いを伝えると、小さく息を吐いて部屋を出ていくゲンマ。その後少ししてからお盆を手に戻ってきて、同時にふわりと香るお米の甘い匂いと、少しだけ焦げた匂い。
「…まずかったら構わず残せよ」
ぶっきらぼうに発せられた言葉と共に渡されるお盆。お礼をいいながらそれを受け取り見ると、卵が入っているのかほんのり黄色がかっていて。そして、ところどころ焦げている部分も。
「いただきます」
蓮華に掬い、十分に冷ましてから口に含む。
「…やっぱまずいだろ」
「ん〜…おいしいとは言えない」
確かに焦げているせいで苦みを感じるし、水が足りなかったのか芯が残っていてお世辞にもおいしいとは言えなかったけど……それでも私は。
「でも私、このお粥好きだよ」
このお粥のおかげで、風邪なんてすぐに治るような気がした。熱のせいで火照った身体も、怠さも。全部吹き飛ばしてくれるんじゃないかと思う程に。
「…そーかよ」
照れているのか、ふい、と視線を逸らしたゲンマの耳は少しだけ赤くなっていて。その様子を見て口元が緩みそうになるのを抑えつつ、お粥を口に運んだ。
そうして全てを食べ終えて再度ベッドに身を沈めていた時、後片付けを終えたゲンマが部屋に戻ってきた。
「ありがとうゲンマ、さっきよりだいぶ身体ラクになった」
「そりゃよかったな。けど油断してっとまた熱上がるぞ、さっさと寝ろよ」
言いながらベッドの端に腰掛け私の頭をくしゃりと撫でる姿を見て、ある感情が沸々と湧き上がっていく。
(なんで風邪なんてひいてるんだろ、わたし…)
もっと触れたいのに、抱きしめてもらうこともキスもできない…こんなに近くにいるのに。
「ねぇゲンマ」
「なんだよ」
「風邪治ったらキスしようね」
触れてもらえるのは、ここまで。
今はそれ以上を望んじゃいけない。
だからせめて約束だけでも……そう、思っていた時。
頭を撫でていたゲンマの手がふいに離れ、耳のすぐ横に置かれる。ギシリ、と小さく軋むベッド。
ゆっくりと近づいてくるゲンマの髪が揺れて、視界が遮断され――刹那、重なる唇。
私のよりも随分と体温の低いソレが離れて視線がぶつかった時、漸く我に返った。
「かっ、風邪治ったらって言ったじゃん…っ!移ったらどーするの!」
「だぁから、ンなことで移るような軟な鍛え方してねっつの。…まぁこれ以上はしねぇけどな」
――したきゃ早く治せよ。
直接耳に吹き込まれた言葉に、カァッと顔に熱が集まる。
……ああ、もう本当に。
「……移っちゃえ、バカゲンマ」
「それはもう一回してぇっておねだりか?」
「っ、言ってない!!」
今出せる精一杯の声で否定すると、目の前の恋人は喉の奥を鳴らしながら満足そうに笑った。
fin.