Re:you | ナノ





「――■■、ねえ、■■ってば!」 揺さぶられて、その揺れがいやに心地よくて、意識は停滞を望む。体に受けていた日差しが遮られて、わずかにぬくもりがなくなったものの、別のぬくもりを感じる。新たなぬくもりは重さを伴い、望みはあえなく潰える。「もう、■■が起きてくれないなら、わたしだって怒っちゃうんだからね!」
 えいッという愛らしい掛け声とともに腹へ平穏とは程遠い衝撃が届いた。ほんの数時間前に食べたものが圧迫されて苦い味が喉にせりあがった。さらに腹の上のものは何度も同じことをしてくる。
「うッ、おい、やめろバカ!」

「あっ起きた。■■が起きないのが悪いんです!」
 胃に圧力をかけるのを止め、にぱっと満面の笑みを見せる幼気な少女に悪気はない。困ったことに、その無垢さと純真さを溶かして砂糖で煮詰めたような愛らしさを前にするすべてどうでもよくなる。未だ存在を主張する腹の痛みだってなんてことはない、ないったらない。

 軽い体を抱え込むようにして起き上がり、その勢いを保ったまま立つ。少女の脇を掴み、くるくると回ってやる。彼女の長い髪が風をはらんで膨らみ、視界が彼女で埋め尽くされる。
「悪戯するやつはこうだ! 覚悟しろー!」

「やあだー、■■のばかー!」
 甲高く悲鳴をあげても、それはじゃれるときのものだ。両手でしっかりと掴まってくる少女を落とさないように七度ほどまわったところで足がもつれた。柔らかい草の感触が背中から全身へと伝わる。
「もー、痛いでしょ! 危ないでしょー!」

「何言ってんだ、おまえはおれを下敷きにしてるんだから痛かないだろ」

「■■が痛いでしょ、ばかッ! 罰として今日のおひるごはんはナナハのパイがいいです!」

「はいはい、仰せのままに――エマ」
 形だけは不機嫌を示していた少女の唇が綻ぶ。本人はいたって怒っている顔をしているつもりなので、あえて指摘はしないが、かわいい。 木漏れ日を吸い込んできらきらと光る柔らかな翠玉色の髪。

 くりくりと大きな、ただ純粋に透き通った鮮やかな赤の瞳。

 そんな美しい容姿の形容など意味を為さなくなるくらいに天真爛漫な彼女の名前はエマ。この静かで緑豊かなこの森の中、ひとりで暮らす魔術師だ。 年の頃はおそらく十前後。おそらく、というのは正確な年を知るものがいなかったからだ。彼女には親もなく、魔術の師匠もなく、そのほかそれらに相当するものもなく、ほんとうに天涯孤独なのだ。 エマは一人きりだった。寂しくて、話し相手が欲しくて、だからある欠片を弦楽器に落とし込んだ。

 その時のことは、今でもはっきりと覚えている。急に世界から切り離される言いようもない不安感が、最初に覚えた感情だ。そうして目の前にいたのが年端もいかない少女となれば、その驚きかくやといったところだ。

 無邪気で無垢で純粋で、それが犯されないほど静かな森の奥。

 元々が世界の一部であるがゆえに、ここがどこであるかくらいはわかっていた。なんのための場所かまでは把握できなかったが。

 ここは俗世から遠く隔離され、時間の枠からも外れたどこでもない名無しの森。四季はなく、しかし色とりどりの花が咲き乱れ、日差しが常に温かい。たまに降る雨も森を侵す嵐になることはない。

 穏やかな場所だった。

 そこになぜ少女がひとりでいたのか、精霊器を呼んだのか、自分の依代となた弦楽器があったのか、何もわからなかった。とりあえず少女はそのすべてをなにも知らなかった。「はー、おなかいっぱい。ごちそうさまでした!」 大皿のパイを二枚も平らげればそれは満腹にもなる。ぽこんと膨らんだ腹をぺちぺちと叩いて満足げだ。

 エマはわりとよく食べる。反面精霊器キリギリスはそう食べずとも存在できるため、あまり食べない。むしろエマがたくさん食べる姿を見る方が好きだ。エマがおいしそうに食べている姿を見ていると、こちらまで満腹感が得られる気さえする。

 自分を呼び出す前は、どうしていたのだろう。あまり聞きたくないのが本音だ。最初に出された料理とも呼べない何かに戦慄して、これではだめだと死に物狂いで研究したことまで一緒に思い出してしまうので、この案件は記憶の奥の奥へ追いやることにする。「■■のつくるごはんはおいしいから、つい食べ過ぎてしまうんだなあ」

「その妙に悟った感じなのはなんで?」 態度がもうなんか違う。年と見た目の一致していないのがよくわかる。いや別に見た目らしさなど求めていないが。本物の幼女など見たこともないが。「あっ、あのね! 昨日はね、できなかったんだけどね、できるようになったことがあるの!」

「ほほう、弓の弾き方でも覚えたか? それとも変身魔術か?」

「見てて!」 まったく、食べ終ったばかりで元気だ。後にしようと言ったところで聞きはしないのだ。

 ようやく依代の弦楽器を持てるようになったエマだが、それでもまだ長い間持つのは難しく、楽器をきちんと構えるのも困難だ。当然弾けない。

 精霊器としては、せっかくもらった体の一つであるから、埃を被るよりは使ってもらいたいところだ。なので、手始めに弓の持ち方から教えている。

 精霊器というのは不思議なもので、自分に与えられたからだは、与えられたその時に使い方を覚えるらしい。世界の一部であった頃には個々の意識はないため、それ以前に知っていることがあったとしても、切り離された段階で必要なもののみ与えられるようだった。「せーえの!」 勇ましい掛け声を発するエマの手に弓は無く、そもそも弓を弾くのにそんな掛け声はいらない。半ば残念に思いつつ、もう一つの予想かと期待する。

 エマは魔術が得意ではない。精霊器を呼び出せているのだから、素養がない訳ではないと思う。精霊器を創ることは、他の魔術と比べ物にならないことだからだ。きっと、その理由はエマが幼く、まだ魔力を上手く扱えないのだろうと、思うことにしてはいる。

 だが。「できた――!」

「できたっておい、逆立ちじゃねえか! 何にも関係ない上に夜な夜な布団抜け出して練習してたのはそれかよ!」 文字通り頭に血が上り、真っ赤になった顔は清々しいまでに自慢げだ。確かに完璧な逆立ちだ。壁の補助もなく、斜めになるわけでもなく、しっかりとまっすぐに立っている姿はいっそ凛々しい。「……着ているのがスカートじゃなければな!?」 座っていた椅子が倒れるのも気にせず、エマのもとへすっ飛び、腰を引っ掴んでぐりんとひっくりかえす。すとんと勢いを殺して立たされたエマはたいそう不満げだ。「寝ないでがんばったのに!」

「寝ろ。そして恥じらえ」 腰にリボンがあってよかった。なければあの自慢げな笑顔でさえ布の下だ。こちらから見えるのはなんとも間抜けな姿だったことだろう。

 膨らんだ頬を左右から挟んで潰すと、エマの顔が面白おかしく歪む。

 口では怒るが、エマの突飛な行動に驚かされるのにはもう慣れた。いちいち怒るのも馬鹿らしく思えるほど、そんなエマでさえ愛しく思えるだけの年月は過ぎた。見た目も中身もエマの成長はゆるやかで、ともすればしていないのではないかと思えるくらいだ。 それは老いを知らない精霊器にとって、都合がよかった。

 その日からしばらくは夜布団を抜け出すことはなかった。寒暖差がないから体調を崩すこともなく、食べる物はありとあらゆる種類があるから飢えることもない。であれば、わざわざ夜に眠ることはない。精霊器に至っては眠ることすら必要ない。 それでも、エマにはきちんと夜に眠って欲しい。特段の理由があるわけではない、ただの精霊器キリギリスのわがままだ。

 暗い場所では花のように愛らしい笑顔がよく見えない。

 はしゃぎまわる姿がよく見えない。

 夜眠るとき傍らにぬくもりがない。 そういうのが嫌で、自分のわがままをそれと知らせず、精霊器キリギリスはエマにそうさせていた。

 望むようになったのは、いつだったか。詳しくは覚えていないが、最初は気にも留めていなかった。むしろ、エマに対して腹立たしいと思うことの方が多かったくらいだ。何度喧嘩したかもわからない。依代を叩きつけようとしたのはエマだったか、精霊器キリギリスだったか。

 だけれど、どうしたってふたりきりだった。

 どれほど喧嘩しようと終ぞエマは精霊器を世界へ帰そうとしたことはなかったし、精霊器キリギリスも返せと吠えることもなかった。二人でこの時間を忘れた穏やかな森の奥で、長い長い時間を過ごした。

 そんな変わり映えのないあたたかな日々のことを、人は幸せと呼ぶことを、二人は知らずにいた。「■■、また何か弾いて。弾いてくれたら許してあげる」

「許すも何もねえよ、お嬢さん。――弾くのは大歓迎だけどな」   ◆

 ――――ある、雨の日のことだった。

 しとしと静かな雨と、雲の切れ目からそそぐ日差しが幻想的な光景を作りだしていた。隣にいないエマの姿を探し、寝ぼけたまま外へ出ると、その光景にきらめく女がいた。「――――――エマ?」 ああ、そうだ。あの美しい翠緑の髪はエマのものだ。ここに自分とエマ以外に誰がいることもない。どう考えても、エマ以外がそこにいるはずはなかった。「エマ、どうした。雨降ってんだから、風邪引くぞ」 返事は無い。こちらに背を向けて立ち尽くす彼女は、頭の先から足元まで濡れ鼠になっていて、いつからそこへ立っていたのかも分からない。別にエマは風邪なんて引かないが、寒そうだ。

 その濡れた服を乾かすのはエマではないのだから、やめてほしい。「おい、エマ。何してるんだ……?」 今の依代が楽器だからか、雨には出来るだけ濡れたくはなかった。なんとなく、濡れると錆びて使い物にならなくなるような気がしていた。

 だが、微動だにしないエマを前に、そうも言っていられない。返事をしないエマなど眠っているときくらいで、仮に今眠ったまま立ち尽くしているのであれば、それはそれで問題だ。いつから眠ったまま歩き回るようになったのだと問いたださなければいけない。

 仕方なく、雨の中へと出る。少し速足でエマのもとへ駆け寄る。雨粒はなぜか、痛いほど冷たい。触れたところから体力がごっそり持って行かれるようだった、この雨はどこかおかしい。あんまり触れたくない、触れてはいけない気がした。「エマ、中へ入ろう」 エマの肩を掴んで、強烈な違和感に見舞われた。

 エマの肩は、こんなにも高い位置だっただろうか。

 そんなはずはない。エマは十前後の姿から大きく成長したことはない。今掴んでいるのは少なくとも十代後半から二十代前半くらいの女の肩だ。

 こんな感触は知らない。でもこの場所に自分とエマ以外がいるはずはない。

 ここは外界から入るすべのない、時の止まった森なのだ。

 だとすればこの女はいったいどこから来たのだろう。困惑に体が硬直する。けれど、この翠緑の髪はまぎれもなくエマのものだ。この女は――エマなのか?「――――――――■■」 今まで人形であるかのように身動き一つしなかった女が知らない声で、唯一の名を呼ぶ。冷え切った細い指が重ねる。緩やかに、そうして、振り向いた。

 雨に濡れていることを差し引いても、その緋色の双眸が厚い涙の膜を張っているのが見て取れた。

 眉間に皺を寄せ、眉を八の字に下げて今にも泣きだす寸前の彼女の表情に姿は違えど愛しい主たるエマだという確信を得た。どうして急激に成長したのか、見当もつかないが、分からないのは彼女自身も同じようだ。どうした、なんで泣いているんだ、と声をかけようにも言葉にならない。雨の勢いが増す。こんなに近くにいるのに声が届かないのなら、抱き寄せて、抱きあげて、家に入ったほうがよい。

 それも――叶わない。彼女を引き寄せようとした手はほかでもない彼女に拒まれてしまった。頑なに強く立っていてその場から動こうとしない。なぜ、とというとしても雨に音をかき消されてしまう。

 彼女が緩やかに首に手を回し、彼女の口元が耳元に寄せられる。「――――――ごめんね」 その。

 その言葉だけが切り取られたかのようにはっきりと耳朶を叩き、再びひどい雨の音で意識は消えた。

 


mae tugi

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