Re:you | ナノ




 雪が降った。もう春も間近だというのに、珍しいこともあるものだ。屋敷の外へ出ることはほとんどないので、生活に影響はない。犲衆は島の内部に雪が積もらないようにするために奔走するらしいので、雪なんざ降らないほうがいいだろうが、雪は好きだった。

 かつて、自分を呼び出した寂しい女が、雪を好きだった。

 冷える夜。主が風邪を引かないように、暖かくなってきたために一度仕舞った火鉢をもう一度出してきた時だった。

 屋敷の玄関の、厳かな扉が開く音を聞いた。こんな遅くに訪ねてくるひとは少ない。ましてここは火螢の御島の絶対たる沙月の宮だ。門を潜り庭を抜けてここまでくる人など数えるほどだ。 秋の旦那だろうか、とイノリは考える。あの幼い風貌の御仁はこの島でただ一人、沙月に会いたいときに会える螢守だ。螢守の仕事はおおよそ沙月の使い走りだと本人はぼやいていたが、なくてはならない役割だろう。そんな役割もあって、秋に限っては夜遅くに訪ねてくることもさして珍しくはなかった。

 あ、いや、違う。中に入ってくる気配に、秋ではないことを知る。秋の気配はもっと、こう、水だ。静謐な水面のそばにいるような錯覚を見る。 歩いてきているのは二人。それと、もうひとつ、知らない気配。

 なるほど、帰ってきたのか。出て行って二ヵ月ばかりか。今回は少し早かったな。イノリは精霊器であり、精霊がほかの精霊器の気配を間違えることはない。――これは蜻蛉の宿る守り刀と、新しい仲間の気配だ。

 彼女たちが帰ってきたことに、主は気付いているだろうが知らせに行こう。重い火鉢を抱え直し、屋敷の最も端にいる主の部屋へと急いだ。「主、ツバメのお嬢が帰ってきたみたいだぜ」 塞がった両手の代わりに足で襖を開けた。滑りのいい襖はいい音を立て、半纏のみを掛けて寝こけるメグムのいい目覚ましになったようだった。「イノリ、手入れ明けはもう少し穏やかにしてくれ」

「それは悪いな。両手塞がっていると、つい」 メグムは隈が色濃くできてしまっている目を擦り、唸る。返事こそしているが、今にも意識は落ちそうだ。なにより、落としてしまいたいことだろう。ツバメが帰ってきたということは、メグムの仕事も一緒にきているのだ。精霊器の管理を一手に任されるメグムに暇はあまりない。

 メグムはつい半刻程までほかの精霊器の手入れをしていたところだ。精霊器は宿る精霊がいて、外部の干渉によって破壊されない限りは劣化しないのだが、それでも定期的な手入れはいるものだ。どちらかというと、器のほうではなく、精霊のほうの手入れで、なかなか大変である。 今日の手入れは朝から続けて四器行い、ほぼ休みがなかった。昨日も同じく四器、一昨日は五器。普段は一器二器ずつやるのだが、今回は少しかかりきりになりすぎた。それも今夜で終わり、明日からはまたすこしずつとなる予定だったのだが。「師匠、ただいま帰りました」 黒髪の少女が帰還を知らせ、床に膝を付く。その後ろに控える彼女の精霊器も同様にした。メグムとか体を起こし、「おかえり」と言う。

 ツバメらを部屋に入れてやり、労う。飯は食べてきたというので、茶菓子のみだ。ツバメは世界中を渡り歩き、精霊器を回収してくるという役割を担っている。以前はメグムがしていたが、その量が増えたこと、管理ができるのはメグムしかいなかったことなど諸問題が多くなり、困っていたところに彼女がこの島へやってきた。メグムには劣るものの、多くの精霊器を扱えるという逸材が現れてからは隠居している。隠居、とはいえやることは山積みであり、ほとんど休みなどないのだが。

 そして彼女は新しい精霊器を見つけたときのみ、この島へ帰ってくる。ほんとうはもっと気楽に帰ってきてもよいのだが、何分彼女は真面目だった。「お疲れ様、ツバメ、メイ。どうだった、今回の旅は」

「師匠。お疲れのようですし、その話はまた後日しませんか。こちらだけ、今日は引き渡したほうがいいかと思うのですが」

「――そうだな、助かる」 ツバメは頷き、後ろに控えるメイに目配せした。メイは脇に携えていた黒い箱。ずいぶんと大きい。四つほどの鍵がかけられたそれを、一つずつ慎重に開けていき――現れたのは、美しい黒の弦楽器ヴァイオリンだった。

 一目でわかる。この世界で作られたものではない。そしてイノリ自身にとっては、懐かしさを感じるほど色濃いかつての残り香。

「師匠、ただ、その、今回は、かなり厄介そうです」 ツバメが耳打ちする。メグムはうんと頷き、ツバメを下がらせる。

 メグムは弦楽器に手を触れ、そっと起こす。独特の柔らかい魔力がほんのりと光を帯び、すうっと浸透していく。可視化される魔力も、未契約の精霊器へ魔力を流し込むときくらいにしか見なくなって久しい。メグムは魔力こそ膨大だが、精霊器以外への扱いはほんとうにひどいのだ。――ああ、いや。秋がいたか。あのひとは体の内に秘めた魔力を水に変換して使っている。前の世界では、そうした魔術はそこらじゅうにあったというのに。「さあ、おはよう。夜中だけどな。そしていらっしゃい、火螢の御島へ」 弦楽器がゆらりと姿を変える。すっきりと首元が見えるように切りそろえられた、弦楽器ほんたいと相違ないきれいな黒髪。長い手足。透明感のあるその姿は、おそらくとてもきれいな音を出すのだろう、と思った。

 メグムの愛刀などに比べるといささか痩躯だが、メイに比べれば上背もあるし、イノリやトモリのような外見にわかる幼さもない。まあ、精霊器の人型の差異はほとんど運と、せいぜい元のカタチが少し反映されるくらいで、さしたる意味はない。外見を眺めたところでその本質は見抜けまい。

 緩やかにその瞼が持ち上げられる――次の瞬間。「師匠!」 強い音が響いた。金属と、細い何かが擦れる音。ツバメの呼ぶ声が重なる。

 ただ、そのメグムはごく自然に、「イノリ」と先ほどまで後ろに控えていた少年を呼んだ。「どういうつもりだい、お兄さんよ。この御仁は俺たちの大事な主様なんだが」 メグムと黒い精霊器との間に、右腕を片刃に変えたイノリが滑り込んでいた。対する黒い精霊器も、膝から足首までが弓に変化している。弦を弾くための弓だろうが、ぴんと張られ、鋭い。あんなもので首を蹴られていれば、流血沙汰どころではない。

 黒い精霊器はわかりやすく舌打ちをし、足を戻した。イノリの本体は鋏であり、片刃では切れない。だが、もしも、片刃で切れる切れ味があったとして、あの弓を切ることはできただろうか。楽器だから、戦いに向くわけではない。だが、その身を、人を傷つけるために変容させられるということは、よほどの激情を秘めていると見える。「師匠、だいじょうぶですか?」

「問題ない」

「おい女。こいつが、おまえがあわせなきゃならないっていっていたやつか」 黒い精霊器が、低い声で問う。「そうだよ、そんなふうに敵意を向けていい人じゃない」

「――は、笑わせんな。精霊器を統べるって言ってやがったからあの世界の生き残りを期待しちまったじゃねえか」

「生き残りだったら、どうしてたんだ、おまえ」 落胆が苛立ちへと塗り替えられているその男に、メグムはそう尋ねた。実際精霊器の多くはあの大洪水で主を強制的に亡くしたものばかりで、亡くした主を思って想い過ぎて、結果こころがすさむのだ。そんな精霊器を集め、管理得するメグムは殺意を向けられることも、実際に首に得物を突きつけられることばかりだ。しかしまあ、ほんとうに最初の頃の、怯えて小便を漏らしていた頃のことは懐かしい。立派になったものだ、とイノリはふと思った。「決まってんだろう、生き残りならあの魔術師について知っているはずだ。あれだけの規模、あれだけの災厄、生き延びるならよほどだ。今なお生きているならば、なおさら」 まあ、確かに。言いたいことは間違ってはいない。そして想像通りの答えだ。

 精霊器というのは、往々にして自分を世界から切り離し、人の作った器物の中に宿らされるものだが、その所為か、どうも人を愛するように出来ているらしい。特に、最初に自分を呼んだ魔術師のことは特別らしい。

 精霊を呼び、器に宿すものの、それを商売道具にして売り払う魔術師もいたが、ほとんどの魔術師が精霊器は自分のために作る。その精霊を返せるのは呼び出した魔術師だけという制約のために、死後別の者の手に渡ることなどもあるし、その先で元の主以上の信頼関係を築く例もある。だが、まあ、最初に自分を必要としてくれたひとというのは、やはり大きい。精霊器の本能たる部分に、その感情はまず生まれるのだ。

 聞けば。

 この弦楽器は、運良く最初の魔術師と悠久とも言える時間を共に過ごしたらしい。それを、すべて流されてしまった。なるほど、ここまで憤るものも久方ぶりに見たとは思ったが、それならば分かる。「その魔術師を、ぶっとばしてやるつもりなんだな」

「ああ、そうだ。この島に渡って来てから、水の気配が強い。強すぎてどこにいるのかわかんねえが、この島のどこかにはいるんだろう」

「――さあ、それは今すべき話じゃあないな。おまえはまだ俺と契約を交わしていない」 黒の精霊器が形相を歪める。「誰が、誰と契約するって?」「俺と、おまえだ、弦楽器キリギリス。ここに来た以上、そうしてもらう」

「誰が! エマ以外を主と定める気は無い!」

「だとしてもだ。それに、じゃあおまえ。魔力もないまま終末の魔術師を殺せると、思うのか?」 黒い精霊器は押し黙る。出来るわけがないのだ。こうして人の形をとって話すことすら、メグムが少しばかりの魔力を貸し与えたからにすぎない。

 精霊器というのは、残念ながらそういうものだ。「さあ、契約だ。手ぇ出しな」 メグムが右手を差し出す。メグムは契約の際、相手の体の一部に触れないと、その回路をうまく繋げることができない。これは、すでに五十を超える精霊器と契約していることによる弊害だろう。

 黒の精霊器は逡巡する。迷って、迷って、そして。

 堪えるように奥歯を噛みしめながら、握り締めすぎて震え手を、差し出した。「よし。これより回路を繋ぎ、今一度、貴方に姿と名を授けよう。弦楽器に宿る精霊よ、貴方の名は――」

「――誰が、誰が素直に名前なんざ受け取るかよ」 メグムが重ねた手を強引に掴み、黒の精霊器の気配がざわりと膨らむ。あ、まずい。「主!」咄嗟にイノリがメグムを後ろへ引っ張ろうとし、メイが黒の精霊器を剥がそうとする。――だが、遅い。

 鋭い光を放ち、黒の精霊器の魔力がメグムの腕を伝い、走る。捲った袖から露出していた腕は二秒と経たないうちにある紋様が刻み込まれた。弦楽器を携える、キリギリス。「魔力なら勝手に奪ってやるさ。名前なんか貰わない。エマ以外の主なんて作らない。おれはおれで、好きにやる」 ――仮契約、本来の契約とは真逆の性質を持つ繋がりの証だった。

 キリギリスは踵を返して出ていく。「待って、ねえ!」とツバメが後を追っていった。それについて、メイも立ち上がる。「ごめんね、メグム。あの楽器はとりあえず捕まえて俺らの部屋に入れておくから」

「ああ、頼む」 ずきずきと疼くだろう右腕を抑え、メグムは「行け」と手を振る。

 たん、と襖は閉まった。かわいい弟子の目がなくなったところで、メグムはずるずると横になった。右腕を抱えるようにして丸くなる。「主は、ほんとう、お人好しだよなあ」 イノリの苦笑にメグムはじろりと睨んで返す。それにまた彼の不器用さを垣間見えて、イノリはまた笑う。

 ほんとうは話なんて聞いてやらなくてもよいのだ。言葉なんて与えなくても、手足なんて与えなくても、ただ手元において保管できれば、その形は封印出会ったとしても、よいのだ。「それを、侵食させてまで体を与えてやるんだから、お人好しと呼ばずになんというんだ、主」

「うるさい」 黙れ、と言外に訴えられたので、これ以上は追求しない。押入の中から布団を取り出し、畳の上に寝転がって歯を食い縛るメグムの隣に敷く。捲った袖はとうに下ろし、服の上から腕をぎりぎりと押さえつけている。押さえる指の方が白くなるくらいだ。「ほら、主。布団敷いたから、寝な」 返事は呻き声だったが、どうにか布団の上には倒れこむこと自体は成功に終わる。畳で寝ても痛みが増すだけだ。ならば無理を押してでも布団に入ってしまった方が楽だというのは学んだ。先日の晴れ間に干したばかりの布団はすでに厚みを失いつつある。右腕を抱えるようにして布団の中央に小さくなるメグムの頭の下に枕を差込み、掛布団を掛けてやる。

 灯りが掻き消えトモリが人型へかえり、痛みに悶える主の枕元に腰を下ろす。トモリは長い髪の先を小さな角灯に変え、明るさはずいぶん控えられた。イノリは、す、と白衣の裏側に仕舞われた銀製の細い鋏を取り出した。指先でくるりと回し、持ち直す。「主、おやすみ。明日はゆうに寝坊するといい」 しゃきん、とメグムの頭上でそれを切り鳴らす。途端呻き声は落ち着き、穏やかな寝息へと変わった。

イノリは蟷螂かまきりで、そのカタチは薬箱の鋏だった。こうして痛みや辛さを『切り離してやる』ことに長けた精霊器であり、無理をおす主が無理をおせる理由でもあった。直接傷を癒してやることはできないから、それは他の精霊器に任せてしまう。ただ、精霊との仮契約における痛みはその精霊との仲を正さない限り、消えることはない。

 そしてその痛みを、メグムは消したがらない。イノリが絶ってやるのは、疲れた体を休ませられる程度、ほんの一晩、ゆっくり眠れる程度の痛みだ。朝になればその痛みは再び顔を出す。

 その身と契約する精霊器は実に五十以上。契約者には精霊器のこころの揺れは大きく影響し、痛みや精神の違和感を伴って契約者を侵す。本来ならばこれほと複数の精霊器と契約するようなことがないのは、こころを与えられた精霊器に振り回され、侵され、契約者のこころがだめになってしまうのだ。

 メグムはそれを知っていて、そしてそれらの一切を遮断できるイノリという精霊器がいて、しかし痛みを手放すことを選ばなかった。 文字通り、お人好しなのだ、この男は。

 さて、夜はそう長くはない。もう日付はとうに跨いだ。今夜はもうあちらも来ないだろうし、イノリは本来荒事とは無縁だが――念には念を。この場をイノリが離れたことを察して忍び込んでこられては堪らない。

 イノリはメグムの枕元に胡坐をかいたまま、朝を待つ。



mae tugi

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