S1


「なぁ、海は地上にある川と違うのか?」

「そうだな。お前、川の水を飲んだことがあるか?」

「一緒に地上へ出た時、一度だけ。普通の水と同じだった」

「海は塩が溶け込んでる分、味も違う」

「え、塩が入ってるのか?」

「あぁ」

小さな子供の純粋な疑問に答える男は眼深くかぶる真鱈模様の帽子で表情こそ伺えないが心なしか声に優しさが含まれているように感じた。何処か懐かしい光景に眼を細め、このままここに居るのも悪くはないと彼等と離れた場所で眺める。

「…おれも行ってみたい」

「お前が?…はっ、弱ェお前が海まで辿り着けるわけがねェだろ。その前に巨人とやらの餌にでもなってる」

「っうるせぇ!おれはこれから強くなるんだ!」

「そりゃ、楽しみだな」

「…っ、くそ」

海という未知なるものを知っている男と知らない少年。そう、あの少年は俺だ。親を失って1人外に飛び出し飢え死にしそうだった餓鬼の頃の俺自身。ならば、あの男は…

「ふふっ、そんなに見てみたいか?本物の海を」

「当たり前だ!…あんたのみていた世界を、おれもみたい」

死にかけのおれを助け、自分がいる限り面倒を見てやると言った変わり者。この人に俺は何度も救われた。共に過ごしていた時だけではなく、この人が消えてからも俺をこの世界に繋ぎ止めてくれた。もう一度会いたい…、その一心で俺はここまで来ることができた

「…なら、いつか連れて行ってやるよ」
「?!本当か!!約束だからな!」

もうあんたが消えて20年近く経った。俺は調査兵団に入り、何度も目の前で仲間の死体を見てきた。それでも後ろを振り向かず前だけ見据え屍を踏み越えてきたんだ。…そろそろ俺の願いの1つくらい、叶えてくれたっていいじゃねェか。なぁ、

「ロード!!」
ーーロード













「っん、」

重たい瞼を無理やり上げると窓から陽射しが差し込んで来ては俺の部屋を照らす。懐かしい夢を見た。夢なんてここ最近見ることはなかったのに、よりによってあの頃の夢とは…
これは願望がそろそろ限界まできたということか。こんなに鮮明な夢を見たのは久しぶりだ。ベッドから降り、引き出しの中にしまってある指輪を取り出しその内側に刻まれた名を指の腹で撫ぜる。

”ロード”

刻まれた名は褪せること無くあの頃のまま、何も変わっていない。変わったのは俺で。チェーンから指輪を外し己の指に通すとピタリと嵌り自身が成長したことを物語った。そう、時間だけが過ぎていく。ロードはだいぶ歳をとっただろうか、まさか死んだなんてことはねェだろうな。無意味な心配が頭を埋めていく、そんなことを思ったところで何も変わらない。長い年月待ち続けたのだ、それでも再び偶然が起こることはない。ならばいっそ

「忘れちまった方が楽なのかもな」

現実を見なければならないことを理解しながらも僅かな希望にすがる愚かな自分に嘲笑する。もうあの頃とは違うのだ。環境も、自身が置かれている立場も。俺は調査兵団の兵士長で部下達を先導し、人類の希望を託された身…、進むしかないのだ。過去に囚われず巨人を殺し巨人に奪われた自由を取り戻すために、俺は前を向くしかない。だから、今日で最後にしよう。過去の思い出はこの指輪と共に開くことのないパンドラに閉じ込める、後ろを向くことのないように。これは俺なりのケジメ。

「俺はエルヴィンの下、やらなきゃならねェんだ」

チェーンに通した指輪を机上に置き朝遠出する為に身支度を整える。部屋の近くにあってはまた縋り付いてしまいそうだから、目につかない場所に、思い出す事のないように別れなければならない。支度を終え最後だからとチェーンを首にかけると2つの指輪が寄り添うように繋がり陽を浴び煌めく。捨てると覚悟したのに、まだ放り出すことを躊躇してしまう。あんな夢を見てしまったからか…、やはりお前と海をみたい、なんて。会えないことなど既に心のどこかで分かっていたのに気づかぬふりばかりしてきた。分かっていた、はずなのに

「…俺はいつからこんな情けねェ野郎になったんだか」


指輪1つ、思い出1つ捨てる事さえ出来ない。
こんな俺を見たらお前はなんと言うだろうか。馬鹿げていると、さっさと捨ててしまえと笑うのだろうか。笑ってくれるのだろうか。

「………」

何もない変わらない日常が始まるまで感傷に浸らせて。後少ししたら何時もの人類最強なんて謳われるに等しい俺に戻るから、もう少しだけ。俺自身への願いが叶わないのなら、どうか、貴方が幸せでありますように。俺に愛を教えてくれて、与えてくれてありがとう。頬に伝ったものは何だったのだろうか、忘れてしまった雫が1つ床を濡らした。








(川へと放った指輪が夕陽を浴び一層美しさを増しながら落ちて行く)
(もう希望など持たない)
(あぁ、また残酷な現実が繰り返される)


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