■ 背中越しに見る光と、影(千と室)


屋上から見下ろす景色は殺風景で、人っ子一人いないグランドに唾でも掛けてみたくなる。
今頃全校生徒は体育館なんだろうな。
そんなことを考えながらマフラーを口元まで上げた。
校長先生の話は長くて、面倒だ。
あの辛気臭い独自の空気も好きじゃない。
寒い冬の体育館に押し込まれるのも、嫌。
どうして、冬は、色々なものが面倒で嫌なんだろう。
今だってそうだ。
空気は冷たいし、息を吐くと嫌でも白いもやが口から出る。
冬は、嫌いだ。
寒いし、指は悴むし、皮膚は切れるし、肺は染みるし、良いことなんてなんにもない。
外周が荒野のように思えてしまうくらいだ。
雨が降ってくれればと祈ったこともあるけれど、残念無念。雨なんかここぞという日に限って降ってくれやしない。
思い通りにならないなんて人生と一緒か。


「そろそろ戻ったほうがいいんじゃないですか」


溜息混じりに言えば、千石さんは「やだよ」と間髪入れずに言った。
オレンジ色の髪をフェンスにこすりつけて、グランドに背を向けている。
千石さんが身じろぎする度に整髪料の甘い香りが流れてきて、おしゃれって髪の先まで気を遣わなくてはいけないなんて何だか面倒くさいなぁと思ってしまう。あぁ、そうか。こんな風に考えてしまうから俺はモテないんだな。

「さっむ」

千石さんは両手を擦り合せながら言った。
学ランの袖から茶色のセーターが見える。毎年冬になると千石さんが着込んでいるそれだ。千石さんが身につけると様になるのに、俺が同じことをすればダサく見える。どうして同じ学ランなのに、こうも格好が悪くなるんだろう。


「大人になんかなりたくないなぁ」

「何言っているんですが」

「そのまんまの意味だよ」


大人になんか、ならなきゃいいのに。
独り言のようにもう一度、千石さんは言葉を投じた。
鉛のように沈んでいく、小さな言の葉。
それが、とても頼りなくて。
あれ、先輩ってこんなにかぼそかったっけ。
少しだけ、不安になる。


「卒業式終わっちゃいますよ」


話題を変えた。
早く、戻らないと本当に終わっちゃいますよ、って。
急かすように言う。
現に、本当に終わってしまいそうなんだ。卒業式が。
千石さんは細い指をオレンジ色の髪の間に入れて、さも人ごとのように「そうだね」と言う。何なんだ、この人は。

「サボりはよくないですよ」

「君もサボリじゃん」

「俺は在校生だから良いんです」

「なんだそりゃ」

カラカラと笑う。否、笑って見せている、らしい。
いつもの花の咲いたような笑顔が歪で、どちらかといえば泣いているように見える。


「大人になんかなりたくないなぁ。室町くんもそう思うでしょ? 映画だって安いし、動物園も美容院も安いしさぁ」

「何なんすか、それ」

「それにさぁ、室町くん。俺よりも背、伸びちゃったじゃん。やだなぁ、ほんと。数ヶ月で伸びるだなんてほんとありえないよ。檀君だってちょっとずつ伸びちゃうしさぁ。俺なんて中二からずっとこのまんまなんだよ、あぁ、もうやだなぁ」

「千石さんだってまだまだ伸びますよ」

「親父見たら望み薄いよぉ」

あぁ、だから、大人になんかなりたくない。
千石さんはズルズルと滑るように座り込んだ。お菓子を買って欲しいと強請る駄々っ子みたいだ。
嫌だ嫌だ、だなんて。
幾つだと思ってるんだか。


「高校受かって良かったじゃないですか」


グランドを見て言った。ちょうどヨレヨレのバスケットコートが風に靡いているのが目に止まる。
誰にもシュートされ ないコートは、孤独でかわいそうだ。


「あー、それね。俺もびっくりしたよー」


「凄いじゃないですか。うちら2年は暫くその話で持ちきりでしたよ」


「残念だけどちっとも凄くないんだよなぁ、これが。ヤマ当てたらあたったんだよ」


へへ、と千石さんはえくぼを作って小さく笑った。ラッキーでしょ、と言いたげだ。
そういえば、中学受験もヤマが当たったって言ってたっけ。
いつもそうだ。
俺はついてるからヤマが当たるんだって言う。
きっと、そんなだから千石さんは知らないんだと思う。
ヤマってものは勉強している人に当たるもんなんだってこと。

「山吹じゃなくなりますよね」

冬の風は冷たい。体感的にも、精神的にも。

「正直な話ですけど、外部受けたって聞いてびっくりしました。高校に行かれても、直ぐに会えるかなぁって思ってたんで」

「へぇ、そうなんだ」

ちょっとだけ、イラッとした。
あまりにも他人ごとだったから。
誰もいないグランドを見限り、くるんと背を向ける。
見上げる空は、茶色のグランドと違って青くて、青い。真っ青の冬の空。



「俺も大人になんかなりたくないです。だって千石さんがいないじゃないですか」

投げた。
言葉を。
あの青い空に向かって。


「なんだそれ」


キョトンとする千石さんを無視して、フェンスに背中を預けたままズルズルと滑った。
丁度、千石さんの真横。
同じ、目線。
同じ、場所で、たぶん、同じものを見ていると思う。


「千石さんが中二の時には既に全国レベルだったじゃないですか。選抜とか…ラッキーって言わないで下さいよ。俺なんて補欠にすら選ばれなかったのに」


「だってあれは」


「千石さんはズルいですよ。オシャレだし、学ランだって格好良く着こなせるし、社交的だし、彼女いないけど、テニスしてる癖に指は細いし、汗臭くないし、テニス、上手いし」


自然と視線が落ちる。青い空から今度はねずみ色のアスファルト。ひびいってら。
今の俺、たぶん、このアスファルトみたいに相当格好悪い。


「どんなに練習したって、全国行けばもっとテニスできる人が沢山いるし、千石さんでも適わない人とか、いっぱいて、でもシングルスは落とせないし、落としちゃいけないし」


その、シングルスを。
俺は平気で落としてしまう。
みんなに繋げなきゃいけない、バトンを。
俺は平気で、落としてしまう。


「ダブルスの山吹って言うけど、シングルスがどんなに辛いか皆知らないんだ」


どうして、千石さんは。
あんなにも強いんだろう。
千石さんが抜ければ。
誰がシングルスを抑えるんだろう。


阿久津さんがテニス部に入部するまで、また、阿久津さんが来なくなった後も、たった一人でシングルスを支えてた千石さんの穴を、一体誰が埋めるんだろう。


ダブルスの山吹。
山吹はダブルスが強い。
だったら、シングルスは一戦も落とせないんだよね?
俺は、どうすれば良いんですか?
千石さん、山吹じゃなくなるじゃないですか。



「彼女いないは余計だよ、室町くん」


千石さんはくしゃくしゃと俺の頭を撫でた。触れる指は冷たい。外にいるからだ。


「男の涙はみっともないぞ」

「わかってますよ」


わかってる、とてもみっともない。
アスファルトは滲んでいくし、もう、何してるんだろう。俺は。
サングラスを外して、冷たいものを拭う。
逆パンダって笑うんだろ。笑えばいいよ。つまんねぇことで泣いてるって言えば良い。いっそ、カッコ悪い俺なんか笑い飛ばしてくれた方がすっきりする。


「…室町くんなら、大丈夫」


やめて、くれ。


「そう、室町くんなら大丈夫だよ。俺だって先輩に言われたんだ。キヨなら大丈夫ってさ。だから、室町くんなら大丈夫。プレッシャーとか期待とか、そんなもの全て応援だって思えば良いんだよ」


「意味が、わかりません」


「俺も分かんなかった」


なら言うな。
思った。
なら言うなと。
千石さんは、無言で俺の髪をくしゃくしゃ撫でて、それから「あーあ」と抜けた声音で言う。



「大人になんかなりたくないね」



って。時間を戻せる魔法があれば、良いのにって。


もし戻せるならどうするんですか?
高校受験まで、戻りますか?
夏のあの日まで、戻りますか?
それとも、俺と特訓したあの放課後まで、戻りますか?
選抜まで? 中二の? それともテニス部に入部するまで?
山吹受ける前、ぐらいまで?
色々な言葉の欠けらが頭の中をぐるぐる回るのに、何一つ、音にならない。
何一つ、音になんか、なってくれやしない。


「…卒業式、終わっちゃう」


漸く舌から生えた言葉は、なんか、情けないくらいに間抜けな声で、しかも、俺の嫌いな言葉だった。



20130421

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