夕刻を過ぎた辺りから、アスタに霧の様な雨がしとしとと降り注いでいた。
夜も煌びやかで活気もある中心街とは異なり、寂れた外周地区はどこか薄暗く小汚い雰囲気だった。
都市開発の際に行き場の無かった貧困層がいつの間にか集まって出来上がった、華やかなこの街の闇の部分。大都市のアスタでは最も治安が悪く、真っ当な人間であればまず近づかない危険な地区だ。当然、表を堂々と歩く事ができないような者が身を潜めるのにうってつけの場所でもあった。
飲み屋らしき店からの喧騒や、いかがわしいホテルの下品な電飾がちかちかと点滅するのが鬱陶しく感じる街路。厚化粧の娼婦が蠱惑的な仕種で道行く男たちを誘うのを横目に、ランスロットは外套から伸びたフードを雨避け代わりに目深に被る。
公衆の前面に顔を晒したことで、どうやら巷では懸賞金がかけられているようだった。魔術士と思しき風貌の者とやたらとすれ違うのは、もしかしたら彼の懸賞金が目当ての者たちかもしれない。オーウェンはあまり外をうろつくなとランスロットに釘を刺したが、当の本人はそ知らぬ顔で街中を徘徊していた。
ただの人間相手に負ける気はしない。
予定している力の貯蓄まではまだまだ足りない。力を集めるなら、向こうから集まってくれるくらいの方がむしろ好都合だ。
質の良し悪しは置いておき、普段から魔法を嗜む魔術士の魔力の方が一般人のものよりもいくらかは足しになる。サー・ウェイル並みの魔力に優れた人間がいれば事はもう少し楽になるが、そんな化け物のような人間は滅多に存在しない。となればやはり、数で稼ぐのが手っ取り早い。幸い、この街には人間が有り余るほどいる。
ここまで考えて、ランスロットは自嘲の笑みを唇に刻んだ。
我ながら、中々に極悪非道な人間に成り果てたものである。
苦しむ暇を与えず奪っている分、いくらかはましなつもりだ。自分があそこで味わった、地獄の苦痛よりは。
人気の無くなった狭い路地で、ふと、ランスロットは当ても無く彷徨っていた足を止めた。
「何か用か」
呟くと、暗がりから大剣を携えた男が現れる。その男に続くように、隠れていた魔術士の男たちがランスロットを挟み撃ちする形でぞろぞろと姿を現した。
彼らにずっとつけられていたことは、ランスロットは気が付いていた。
「あんた自身に用はねえ。用があるのは、あんたの首にかかった金だ」
やはりか、と内心で呟き、ランスロットはゆっくりと顔を上げた。
品の無い男の顔が前と背後で五名ずつ。逞しい体躯に魔具らしき武器を引っさげ、自信有り気な笑みを浮かべていた。
ランスロットの背後を取っていた男の一人が、隙を突く様に斬りかかる。
その刃を振り向き様抜刀と同時に弾き、さらにその軌跡は凄まじい勢いで男の胴体を切断した。
びしゃり、と血が飛び散ったのか、水溜りに倒れた下半身の音なのか判別し辛い水音が鼓膜を震わせる。
男はあらかじめリィンフォースを発動していたようだが、それでもランスロットにとってはか弱い女性の細腕のような力に感じられた。
もはや剣士として、魔術士としての力量以前の問題だった。
「来ないのか?」
言って、口の端を吊り上げる。
一瞬の出来事を呆けたように眺めていた男たちは、ランスロットの言葉に我に返る。数の上では圧倒的に劣っているはずの彼の余裕の笑みに怒気と恐怖、二つの感情が鬩ぎ合い動けないでいるようだ。
張り詰めた緊張感に絶えられなかった男の一人が叫びながら、襲い掛かる。
剣で受け止めながら魔法の詠唱をやりかけ、ランスロットは思いとどまった。今ここで、無駄に魔力を消費するのは得策とは言え無い。昨日の戦闘で、かなり消耗していたからだ。
魔法を使う気配の無いランスロットに、男たちは僅かながらの希望を感じ取る。すでに一人死んだ事はもう忘れたのか、数名が詠唱を始め、残った者はランスロットへ刃を振り下ろす。
浅はかな連中だ、とランスロットは思った。もとより自身の優劣すらも判断できない程度の輩なのだ。魔法を使うまでも無い。
「……え?」
誰が発した声だったのか。
僅か一瞬の内に何かが舞った。水溜りを跳ねて地面にごろりと転がったところで、それがヒトの頭である事をようやく認識した声だった。
ランスロットが地を蹴り、剣を振る。
衝撃波が出そうなほどの凄まじい一振りで、一気に二人の体が分断される。剣術などと言う技術も何も無く、ランスロットにとってはただの力任せの一撃だった。
出鱈目過ぎる力を見せ付けられ、詠唱が途中で止まっていた後衛の魔術士へ距離を詰め、頭を叩き潰す勢いで剣を振り下ろす。辺りに血と、内容物と思われるものが一緒に飛び散った。
薄暗闇の中で漆黒の光沢を放つ飾り気のない無骨な大剣を、ランスロットは両手で握る。
本来の持ち方で振るわれる大剣の剣速は、羽根のようだと錯覚させるほど早い。さらに両手で持つ分、威力は殺ぐどころかむしろ増す。ここからは一方的な虐殺だった。
僅か数分で出来上がった血の海の中で立っている者は、一人しか残っていなかった。
「来い。ヴァーリ、レスター」
沈黙した肉塊を冷然と見下ろして、ランスロットは呟いた。
手の平から零れる淡い輝き。薄暗い周囲を照らす魔法陣が浮かびすぐに消失する。すると、先ほどまで何もいなかったはずのランスロットの背後に突如、黒い影が落ちた。
騎士の様な人型の風貌と、もう一方は四足の獣の風貌。ランスロットが従える二体のネフィリムだった。
「食らえ」
二体のネフィリムはランスロットの命令に驚くほど従順に行動した。
まだ息があった者、たった今絶命した者。等しく食らわれていく人間の姿は壮絶だった。それを詰まらなそうに見下して、ランスロットは刀身にこびり付いた血を振り払う。
一通り暴れたように思うが、誰かが駆けつける気配は微塵も感じられなかった。このような小競り合いは日常茶飯事なのだろうと推測できる。自身を危険に晒してまで関わろうと思う正義感のある者は、ここには誰もいないのだ。
司法の目からほど遠い街。危険の度合いは違えど、ロゾフにいた頃を想起させる。
内戦の絶えない国だった。短い期間に何度も指導者が変わり、それでも国が良くなった事など一度も無い。治安の悪さを絵に描いたような国だった。そこでもやはり、他人の小競り合いに首を突っ込むような輩はいなかった。
誰かの為に手を伸ばす行為は、その人物の心にゆとりがあるからできることだ。
これほど豊かな国ですら闇を抱えた人間は存在する。そんな人間たちを踏み台に、富を得ている者がいる。そんな理不尽が許容されてもいいのか。
ぎり、と。剣の柄を握る手に力を込めた時、ランスロットは新たなヒトの気配に咄嗟に反応していた。振り向き様に剣を持ち上げ、一瞬で対象へ迫る。
「……っ」
喉元に剣を突きつけられた女の口から、小さく息を飲み込む声が聞こえた。ローブの様な物を被っているため女の顔は見えない。隙間から零れた金の髪が剣圧でひらりと靡いた。
虚を突かれたように、ランスロットの動きが一瞬止まる。
すでに虐殺者として堕ちた身だが、彼とて女や子ども、一般的にか弱い立場の者に対して命を奪う事に哀れみの念を抱かないわけではない。
しかし、それだけだ。
ランスロットがこの行動を止める理由にはならない。
「思った通り、強いのね」
女の唐突な言葉に、再びランスロットの動きが止まった。
「あなたに渡したい物があって探してたの」
「……」
ランスロットがあからさまに眉間に皺を刻む。
物好きなヤツがいるものだ、とランスロットは思った。模倣犯が現れてもおかしくはない程度には大々的な事件を起こした。犯罪者やテロリストの思想に感銘を受ける話は珍しくはない。だからと言って、女ひとりで治安の悪い地区を会えるかも分からない相手を探して回る行動力の、根幹にある思考は理解しがたい。
ランスロットが殺した市民の中に、恋人や家族がいたのだとすれば。復讐のためなら、あるいは。
「そんなに物騒な顔しないで。今のところは敵対するつもりはないから。見た方が早いでしょ」
言いながら女は懐から取り出した電子機器のスイッチを押す。液晶が灯り、淡い光が生まれる。映っていたのは黒髪の男の写真。もう一度操作すると、次は男と同年代くらいの女性の写真に切り替わる。
この二人には覚えがあった。昨日セントラルタワーで戦った二人だ。
「あなたの件を担当するミリティア二人の基本スペックよ」
空いた手で端末を受け取る。
ざっと流し見ると、数値化された能力値からこれまでの戦歴、得意な戦術まで記載されていた。
現役で軍に所属するエージェントのデータとなればそれだけで極秘扱いだ。ことミリティアの情報となると、セキュリティレベルは更に高くなる。それを抜き出せるとなると、それなりの地位にいる人物が裏にいることも推測できるが。
「相手の情報が分かれば少しでも戦いやすくなるでしょう?」
「……俺の目的はこの国を壊す事。当然、あんたも対象内だが?」
「勘違いしないで。私にとって邪魔なこいつを、あんたに消してもらえればと思っただけ。それ以外のことに関して、私とあんたはむしろ敵よ」
利害が一致している部分にのみは協力する、と。
ランスロットは僅か逡巡し、受け取った情報端末をズボンのポケットへぞんざいに押し込んだ。
お偉い地位にいる人間たちの思惑など一切興味も湧かないが、利用できるものならば何であれ使わせてもらう。
女の喉へ突きつけていた剣をゆっくりと下ろし、ランスロットは少しずつ後退する。女が動こうとする気配は全く無かった。本当に危害を加えるつもりで接触してきたわけではないらしい。
今まで“食事”をしていたネフィリムが、この場から離脱しようとるランスロットに気付いたようにゆっくりと顔を持ち上げた。ランスロットが小さく詠唱すると、ネフィリムが魔法陣の中へ消える。
「その女だけは、絶対殺して」
小さな雨音に消えてしまいそうなほど、小さな囁きだった。
ランスロットは肯定するでもなく、ただ曖昧に相槌を打った。
適度に温かいシャワーのお湯に身を委ね、うるさい心臓をなんとか宥めようと努めた。
主を待たせてまでシャワーを浴びるのは、先ほどまで雨に打たれていた事実を隠すため。動揺していた自分の心を落ち着けるためだった。
殺気の篭った眼光を思い出し、身震いした。
一種の賭けだった。
重罪を犯した犯罪者が身を潜めるなら外周地区が最も妥当であるだろうと見当をつけ、あとは手当たり次第に町を回った。まさか本当に上手くいくとは、我ながらかなり運がいい。彼に出会えたとして、殺される可能性すらあったというのに。
浴室から出て、素早く衣服を身に纏う。薄く化粧を施し、髪をブローする。念入りにやればもっと時間がかかるが、今は早さが優先だった。機嫌を損ねた主に殴られるのは嫌だ。
艶やかな金の髪に、同じ金の睫毛で縁取られたアイスブルーの瞳。白人系である肌の色は、今は湯上りのためほんのりと上気していた。
何をやっても愚鈍で臆病な自分の唯一褒められた部分は、この容姿である。
女でありながら、強化兵士の被験者だった自分が生き残るための方法は、権力のある者に媚びる事しかなかった。それも、醜悪な外見だったならば適わなかっただろう。
もちろん。生き残る代償として、心を摺り減らしてきたのだが。
先ほどとは違う意味で緊張に震える身体を叱咤しながら、主が待つ扉をノックする。私です、と扉の向こうの人物に声を掛けながら、どうか何事もありませんように、と心の中で祈った。
「入れ」
たった一言の短い命令だった。
別段珍しい事ではない。ただ、声音からそれほど機嫌は悪くないらしいと分かり、密かに胸を撫で下ろした。
「遅かったなラシェル」
部屋の主、ランベルトは椅子に背を預け鷹揚な態度でラシェルを迎え入れた。
申し訳ありません、とラシェルはただ謝罪の言葉を口にする。下手に言い訳を並べてはボロが出るかもしれないと思ったからだ。
「まあいい。調べはついたか」
「こちらです」
おずおずと差し出された情報を保存した媒体を受け取り、ランベルトは満足そうに微笑んみながら顎をしゃくる。横のベッドへ座るように促す意味だと心得ていたラシェルの心臓が跳ねる。
いつもしていることだが、この瞬間だけは窒息しそうになるほど息が詰まる。
同じくベッドへ移動したランベルトの上に跨るように座り、身に纏っていた衣服を脱いでいく。
ランベルトは一糸纏わぬラシェル裸体には何でもないような様子で、右手に持っていた端末を操作し照明を落とす。しかし次の瞬間にはすぐに薄明かりが灯る。空中に浮かび上がったホログラムの明かりだった。
そこに映っているのは、ラシェルが先ほどランベルトに手渡した情報媒体の中身だ。
ある人物の経歴を調べてくるように言われた。
「ああ、ほんとうに美しいな、彼女は」
少し熱を帯びた吐息交じりに呟かれた言葉は、誰に向けられたものでもない。
目の前で丁寧に愛撫を施すラシェルそっちのけで、彼はホログラムに映された女性の顔写真を食い入る様に眺めている。
意志の強そうな深紅の瞳が、こちらを見返していた。
白い肌に絹の様な艶やかな髪。誰が見ても目を惹くような、恐ろしく容姿の整った女性だった。
廊下ですれ違った時に初めて見たが、あの男のパートナーという事は彼女もミリティアなのだろう。色々と噂が流れていたが、まさか実物があれほどまでの美人だとは誰も、ラシェルも信じていなかった。
どうやらラシェルの主は、あれ以来密かにこの美しい少女にご執心のようだった。彼女の経歴を、秘密裏に調べさせるほどに。
冗談ではない、とラシェルは思った。
もしもランベルトが望み通り彼女を手に入れたとして、そうすればラシェルの立場はどうなるのか。
今以上に待遇が悪い状況になるのは想像に難くない。
ランベルトに命令されるがまま、様々な汚い事もこなして来た。口封じのために殺される可能性もある。
そんな身勝手が許されていいはずが無い。
戦場は怖い。手足がもげて、首が無くなり、腹が破ける。そんなミリティアを何人も見てきた。強化された人間とは言え、死ぬときはあっけなく死ぬのだ。普通の人間にはそれが分かっていない。だからウェイルのところへは残りたくなかった。
だからと言って、開放されたミリティアたちのように何の支援も無しに社会へでることもできない。
ラシェルは、よりマシだと思える逃げ方だけは理解していた。
あの男に請い、媚び、できる限り気に入られる事で生き延びてきた。しかも自分さえ我慢していれば、ある程度の物は与えられる。自分自身を殺して命令には素直に従い、陵辱に耐えてさえいればある程度裕福に生きてゆけるのだ。そう思えば楽な生き方だった。
にも関わらず、今はそれすらも危うくなっている。
だから、いなくなってしまえばいいと思った。
そうすれば、今まで通りここで生きてゆける。全ては、自分が生き抜くためだ。
臆病で卑怯。それはラシェル自身が最も理解している。
身体を売り心を売り。それどころか今、同胞すら売ろうとしている。それがどれだけヒトとして落ちぶれた行為だろうと、最早他人など知った事ではなかった。
どれほど無様でもそれでも生きたい。いや、ただ死ぬ事と言う未知の体験が、想像しただけで恐ろしかったのだ。