胸中がざらついて落ち着かない。この感情は、怒りだろうと思う。
がらんとした無機質な廊下の長椅子で、エリアは一人項垂れるように座っていた。
地下の研究フロアは誰もいない。ここを取り仕切るのはマリーしかいないのだから。隔絶された様な静寂の中でただ一人、手当てを終えたセツナが出てくるのをじっと待った。
ともすれば、あの瞬間の光景を思い出す。
迫りくる攻撃の前に身を差し出し、自分自身を盾にしたセツナの背中を。
例え怪我人を連れていようとも、あの程度の攻撃ならどうにでも凌げた。
侮られているからではない事は分かっている。何故と問い質せば、きっと彼は困ったように笑いながら答えるだろう。咄嗟に体が動いた、と。セツナは、そういう人なのだ。
いくら再生力が通常の人間よりも優れていても、そんなことを繰り返していれば体が持つはずがない。
そういう人なのだ、と理解しているからこそ自分は強くなければならなかった。
全ては、自分の力が及ばないが故に起こったことなのだ。
この怒りは、何も無茶な事をしたセツナに対してのみではない。分かっていながらも何もできなかった弱い自分に対して、だ。
「お一人ですか」
静寂を打ち消す澄んだ声音と足音に、エリアは顔を上げた。
純白を纏った青年の菫色をした大きな瞳が、柔和に細められた。
「あなたは無事だったようで何よりです」
「ウェイル……」
エリアは無意識に、縋るような目で見上げていた。その視線を受けて、ウェイルは小さく首を傾げた。
しかしエリアはすぐに居住まいを正した。ウェイルが、スーツ姿の男性を二人従えるように連れていたからだ。セツナならばともかく、第三者の目がある場所で上官に対し馴れ馴れしい態度を取るのが好ましくないのはエリアも分かっていた。
「大体の事情は把握しています。あなたは先に帰りなさい」
「でも……」
エリアは躊躇いながら呟いた。
俯き加減に、視線を閉ざされたままの扉のへと向けた。マリーの研究室へと運ばれたまま。セツナはまだ、出てこない。怪我の具合が、分からない。
その視線の意味を理解したウェイルは、宥めるように笑みを深めた。
「セツナなら大丈夫ですよ。すぐに帰るよう僕から言っておきますから」
「……」
エリアは渋々だが頷いた。
今日は強引に納得させられてばかりな気がする、と内心では不満を覚えながら。
「あともう一つ」
立ち上がるエリアがぴたり、と動きを止めた。
「今あなたが所持している魔具は全てこちらで預かります。出してください」
明らかに嫌そうな顔をしたエリアだが、ウェイルは気にも留めず手の平を差し出した。その手が早く、と有無を言わせない圧力で急かしているのが感じられた。
エリアは観念したように小さく溜息を吐くと、身に着けていた魔具を一つずつ外してゆく。
しかし手の平の上で積み重なっていく数が増えるに連れて、ウェイルの表情が段々と呆れたものへと変わっていった。
「ペネトレイション? ……なにと戦うつもりだったんですか」
一目で術式を読むことが出来るウェイルは独り言の様に呟いた。
文字通り物体を貫通させる効果がある。例えば己の体の一部、手に平に施せば、素手で相手を貫く事も容易となる。暗殺術としては重宝されている魔法だ。護身用の範疇からは逸脱した、凶悪なチョイスだった。
「これで全てですか?」
エリアは嘘偽りなく、素直に頷いた。
魔力に優れたウェイルが相手なら、すぐにバレることは分かっている。
「丸腰で不安でしょうから、護衛として二人に送らせます」
スーツの男二人が静かに頭を下げるのを横目に見て、エリアは小さく眉を顰めた。
いらない、とエリアは言いたかった。
しかし、ウェイルの言う事はただの建前だろう。
魔法以前に、身体能力が優れているミリティアに並の人間は相手にならない。護衛を付けようなどと言う発想がそもそもおかしいのだ。それでなくともエリアは戦い方を心得ている人間なのだから。
ならば彼ら二人の役割は、規則違反を犯した自分たちの監視だ。エリアもそれが察せないほど愚かではなかった。
そして。
監視を付けることであらぬ疑いを払拭させる為に、と言うウェイルの配慮であることも。
躊躇った後、エリアは小さく頷いた。これが最大級の譲歩だった。
何よりも、これ以上はセツナの立場も悪くするかもしれない。
「パートナーの具合を心配するのもいいですが、あなたも何らかの処分は免れませんよ」
すれ違い様、ウェイルは囁くように言った。
立ち止まったのは一瞬。エリアはすぐに前を見て歩き出した。
「セツナが無事なら、後は何でも構わない」
そんなことに興味はない。
そう。セツナが誰かを守りたいと願い盾となることが個人の勝手な都合なら、そんな彼を守りたいと思い戦うのも、エリア個人の勝手な都合だ。
お互い自分の意思を貫いた行動の結果なのだから、誰にも咎められるいわれは無い。ましてや、それに負い目を感じる必要も。
ウェイルの、小さい溜息を零した音が聞こえた。
一方。
ドクター・マリーがおわす地下研究室にて、セツナは縮こまって座っていた。
「えー……っと、随分とお怒りのご様子で」
「あら驚いた。君が女性の複雑で繊細な心情を察知できる様な男だったとは、思ってなかったよ」
マリーはだらしなくデスクに肘をつき、口元だけで笑って見せる。
「言いつけを守らず診察をすっぽかしてばかりで、やっと現れたかと思ったら任務でもないのに怪我を拵えてるときたものだ。馬鹿なのかな君は。この唐変木め」
「痛だだだだだ!」
包帯の上から拳をぐりぐりと容赦なく押し当てられ、セツナは叫ぶ。思わず涙目になって睨めば、これ見よがしに溜息を吐かれた。
「それぐらいすぐに治るだろう大袈裟な。少しは反省しなさい、理解しなさい。次やったら麻酔無しで解剖したあと、君の腎臓をエリアに見せびらかすから」
「ほんっとすみませんマジ勘弁してください」
セツナは膝に両手をつき、高速で頭を下げた。
目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、えげつない事をさらりと言ってのけるマリーの瞳からは底知れぬ暗い輝きが垣間見えた。
あの目は冗談ではなく、マジだ。
セツナが膝に置いた拳にじんわりと汗をかきながら震え上がっているところで、扉をノックする控え目な音が響いた。
どぉぞ、と間延びした声でマリーも答える。彼女の意識がそれた事に救われた面持ちで、セツナも顔を上げる。
開いたドアから、フィズがひょっこりと顔を出した。彼女は何故か気まずそうに、視線を彷徨わせる。
「来客、なんですけど……」
誰だと問う前に、来訪者が顔を出した。
「失礼しますね」
我らミリティア達のボス、ウェイルが現れたことに、セツナは軽く目を瞠って驚いた。