「オマエの好きに決めていいよ。お誂え向きの、……心優しくて可哀想な王子様のコメントをさ、国民が望んでる通りに決めたらいい」
 防弾仕様の特注・ロールスロイスの車内は静かだった。我が国の第一王子であるラジエル様は、弟の訃報を受けてまず初めにこう言った。ですが、と口を開きかけた私をふわりと挙げた左手で制すると、たっぷりと間を置いてから言い含めるように続けた。
「いままでもそうだっただろ。王室付の記者はオレたち王族の心をオレたちよりもよーく知ってんだから」
 王立劇場から屋敷へと向かう大通りは、まだ夜の20時を回った頃だというのに、まるで戦時中に戻ったかのような静けさを湛えていた。ぽつりぽつりと立てられた街灯だけが、車が等速を保って移動し続けていることを教えてくれている。
「……外交に関わる発言については例外かと存じますが」
 私が控えめに差し出した反論に、ラジエル王子は軽く頭をふって答える。
「ん、心配しなくていいよ。もし今回のコメントで他の国の連中がアレコレ言ってきたとしても、オレが責任取るし」
 たった一人の兄弟を亡くした一国の王子に、それでも第一王子としていち国民である記者の私に気を遣わねばならない彼に、かけるべき適切な言葉があったなら、どうか教えて欲しい。詰まった言葉が鼻のうらを通って両目から溢れ出す。
 あっ、と思ったときにはもう遅い。握り締め続けたせいで湿り気を帯び始めた黒い革の手帳カバーの上に、ぽつ、ぽつ、と、涙の落ちる音が響いた。
「オマエが泣くことねーじゃん」
「申し訳ありません」
「謝ることもねーよ」
 驚いて振り返り、慰めるように私の肩を叩いた彼の表情は、逆光でよく見えない。

 演目の終了後、執事のオルゲルト氏を伴って王立劇場の専用扉から出てきたラジエル王子を待ち構えていたのは、王室から公的な承認を受けた「王室付記者」である私ひとりだけだった。普段なら規則を破ってでもスクープに喰らい付いてくる他の報道社の記者たちは皆音沙汰もなく沈黙を守っていて、それがこの事件の悲痛さを殊更はっきりと示しているようで胸が痛い。
 ことのはじめは、ラジエル王子の双子の弟である第二王子のベルフェゴール様が消息を絶ったという衝撃的な知らせだった。それは、彼らが16歳の誕生日を迎える12月22日のたった二週間前のことで、その晩、就寝前に執事と会話したのが最後のお姿だったのだという。
「おい、お前、とんでもないニュースだ。ラジエル様の弟君が行方不明らしい」
 深夜、記事を組版する紙面整理部だけが残っていた社内から電話をかけてきたのは一度挨拶をしただけの特に仲良くもない初老の男で、ベッドの中でその電話をとった私は焦点の定まらないぼやけた頭で、こいつにお前呼ばわりされる筋合いなどないはずだ、などと会話の主旨とは全く関係のない点に気を取られ、電話を切るまでその事件の重要性に全く気づくことができなかった。
「……弟が、ベルフェゴールが、行方不明……」
 口腔のなかでそう繰り返したあと、弾かれたようにベッドから飛び起きた。
 突然の大スクープ、もちろん報道陣のあいだにはかなりの驚きが走ったが、社を超えて開かれた長い長い会議の末、国民に伝えられたのは「ベルフェゴール王子の容態が思わしくない」という幾重にも緩衝材に包まれたわずかな情報のみだった。それでも国民たちは誰ともなく行楽やお祝いの自粛を始め、ひと月以上経った今でも日没後の賑やかさは戻っていない。

 元来私たち報道陣には、王室について国民へ「適切な」情報提供をすることを目的とした細かな規則が定められている。王室を取材できるのは、各社で王室から承認された記者数名だけであり、王や妃、王子など、主要な人物へ直接コンタクトを取れるのは、そのうち一名だけ。ここで得た情報についても、全てをありのままに公開していいわけではない。国民に対し、どういった「印象」を与えることが適切なのかを、数度のレビューと「報道会議」にて審議し、その決定に沿った記事が国民の元へ届けられている。
 このレビューと会議に付議されるもととなる文章を書くのが、「王室付記者」である私の仕事だった。基本的にはラジエル王子の公務についてまわり、移動時間や月に一回開催される「報道懇談」でのコメントを受け、数千字程度の特集記事を仕上げるのが常だが、ときには本人の許可を得てゴーストライターとなり、彼のコメントを捏造することもある。ただしそれは、たとえば今日、王立劇場で催された演劇観賞会のご感想であったり、毎年やってくる些細な記念日などにあたってのコメントなど、国民が流し読みする程度の「注目度の低い」イベントに関するお言葉なのであって、今回のような非常事態に依頼されるものではなかった。

「コメント発表は早ければ早いほどいい。クリスマスも新年もろくに祝えなかった国民を安心させてやんねーとじゃん」
 そう言い残して車を降りたラジエル王子の後ろ姿に、私は違和感を覚える。彼の悲痛な心境には似つかわしくない、どこか誇らしげな背中だったからだ。


 ◇◇◇


 あの夜ラジエル王子がご鑑賞なさっていたのは、シェイクスピアのロマンス演劇「テンペスト」だった。
「あれさあ、最後に観客が舞台に向かって拍手させられんの。船を難破させて王を島に閉じ込めたプロスペローの姦計を許してやるために」
 ラジエル王子が自ら運転する新品のプレジャーボートは、南フランスの別荘地に面した地中海の穏やかな波の上を漂うようにゆっくりと周ったあと、VIP専用のバースへ戻ってくる。今日の彼は少々ご立腹の様子で、私だけを乗せたクルーズの最中、一言も口を開かなかった。
「なんで許してやんないといけないんだろうね」
 黙ったまま岸へ降りると、その後ろから長い足がひょいと着いてくる。私の隣に並ぶや否や唐突に十年前の「あの夜」のことを語り始めるものだから、驚いて彼の横顔を振り向けば、珍しく最初からこちらを見つめていた瞳と視線が交わった。
「許したくないと仰る?」
 私は彼から慰労の品として贈られた、イタリア製のレースが縁取られた日傘をおもむろに開いて二人のあいだへ傾けた。ラジエル王子は当然のようにその柄を掴み、私の代わりに持ち上げる。夕暮れ時を前にして、プライベートビーチの向こうにある街の民草の活気が悦ばしい。ずっと先まで続いている白い砂浜に沿って、どちらともなく歩き出す。
「オレなら絶対許さないね」
「それでも拍手はなさるんでしょう」
「する」
「それはあなたが王子だから?」
「そう。オレはオレである前に王子だから」
 仕事用のショルダーバッグから手帳を取り出す。十年経ち、すっかり手に馴染んだ革のそれは、そろそろお役御免となることを分かっているのか、内側の縫い目が裂けはじめていた。
「あの夜、私、泣いてしまったでしょう。あなたが心を痛めていると本気で思っていたから。騙された」
「王子のオレは心を痛めたよ」
「……あなた自身は?」
「失敗作の弟チャンのことなんてどうでもよかったね。仮に今生きてたとしたって、どうせオレの影にしかなれてねーだろ」
 口元に手を添え、二人して密かに笑う。私自身は、これでこそ第一王子なのだと心の底から思っているが、……次の「王室付記者」がどう感じるのかは分からない。
 今朝ようやく、私の退職に伴う「王室付記者」の担当替えの話を耳にしたらしいこの口の悪い王子様は、それを知ってすぐに私用携帯を鳴らして最終出勤中の私を呼び出した。王族との私的な交流は報道の独立性を損なうとして全面的に禁止されていたものの、それよりもずっと恐ろしいのは王族との友好関係にヒビが入ってしまうことだった。
「先程のクルーズ、心から楽しめたとは言えませんでした」
「二人してむっつり無言だったらつまんねーのは当然だろ」
「担当記者の代替わりはやはりご不満?」
「さーね。次の記者もオマエみたいに素直で賢いやつだったらいいなってだけ」
 私は日傘の向こうに広がる空をぐるりと見上げながら、おめがねに適うかしら、と新人記者の顔を思い浮かべる。
「明日からどうすんの」
「少し、長いお休みをいただきます。イギリスの友人のところで過ごそうかと」
「あんな寒くて暗いとこでリフレッシュになんの」
「さあ? 行ってみないと分かりません」
 少なくともこの南フランスの別荘地よりは悪条件だろう、と思った私も、やはりこの職を辞するのが名残惜しいのだろう。今日までとは全く違う景色に飲み込まれていくであろうこれからの暮らしを想像しながら、目を閉じてやわらかな空気を胸いっぱいに吸い込む。

----ああ、素晴らしい日々だった。あなたと、あなたの弟君の成長を見つめたこの十年。

 潮風が肺の底まで満ちたそのとき、日傘を持つラジエル王子の手が不意に肩へと触れた。
 閉ざされた視界に影が差す。
「オマエもオレに負けず劣らず演技派じゃん。騙された」
 そのまま抱き寄せられる。私は目を開く。
「オマエがただの記者じゃないってこと、分かってたよ」
 彼の言葉が日傘の内側で渦を巻く。二人のあいだを抜けるようにして黒い手帳が足元へと滑り落ちた。
「ベルが死んでないってことも。いずれまたオレを殺しに現れるってことも」
 それでも彼の心臓は凪いでいて、きっとあのとき私を記者として送り込んだベルフェゴールも彼のことは殺せないのではないだろうかと、鈍い諦念のようなものが湧き上がる。
「でも、秘密にしておいてやるよ。オマエと話すのけっこー楽しかったし」
「ありがとう」
 それだけ返せば、体はすぐに離れる。私の手に戻ってきた日傘を、今度は自分のためだけに傾けた。
「その言葉、信じますね」
「……オレは『王子』だけど」
「ええ」
「それでも信じる?」
 一度目線を落とし、考えるふりをしてから答える。
「それは、私の好きに決めていいの?」
 私の言葉に、乱れた前髪の隙間から覗く涼やかな瞳がおどけたように見開かれた。言うじゃん、と喉の奥で笑ってから、砂浜に落ちた手帳を拾い上げる。
「お好きにどうぞ」
 手帳を受け取ると、右腕を上げて彼の前髪を指先で梳く。そのまま頬へ手を添えて別れのキスを落としてから、かの国の偉大な劇作家が紡いだ最高にキザな言葉を、耳元でそっと囁いた。

「信じます。そうではないと、神がお告げになっても」



ファーディナンド
20211222 h.niwasaki
Buon Compleanno, Rasiel !