夏の暑い日差しのせいでガラスのコップに入ったジンジャエールが大粒の汗をかいていた。僕は黙ってそれを指で拭った。この暑さの裏側で息をひそめているような種類の冷たさがしばらくの間、指の周りでためらうようにうろうろとしていた。夏だ。僕はもう一度コップの水滴を拭った。拭いきれなかった水滴が仲間を連れながら落下していく。大きな氷が傾いた。
カラン。
その時僕はその日初めて我に返って目の前の女の子を見た。女の子は「初めてこっち向いたね」と、僕を責めるわけでもなく笑った。僕は返す言葉がない。なんたって彼女は失恋をしたのだから。それでも僕のことを振り向いてくれる気配なんてのは、皆無だったのだから。

虎徹はいつも僕のずっと前を歩いていた。
僕だって申し分ない人生を歩んできたと思ってる。だけど僕の前にはいつも虎徹がいる。だから僕は彼のスポットライトにちょっと右足を差し出してみるくらいのことしかできない存在で、この17年間まるで注目されたためしがない男だ。だから僕はいつだって何かを成功させるたびに頭を抱えた。これじゃだめだ。これじゃあまた虎徹の次にしかなれない。17年間僕は頭を抱え続けていた。僕だって幸せな位置にいるはずなのに…。
僕はヒーローになんてなれない。
虎徹は昔から、おれはヒーローになって困っている人を助けたいと、事あるごとに言っていた。だから僕は安心していた。僕がヒーローになれないことはもちろん悲しいことだったけれど、高校を卒業してしまえば、僕と虎徹はお互い別の道を行く。もう虎徹の次なんて言われないのだ。

だけど、

だけど、僕と虎徹は高校生になって、胸が張り裂けるような思いの恋をして、恋をして、虎徹は彼女の手を握ることを許されたけれど、僕はもっともっと苦しくなった。なあ虎徹。お前が苦しんだのと同じくらいにお前に焦がれてる奴がいるんだよ。それは代わりなんかいないんだよ。でもなあ虎徹、お前は、一人しかいないからなあ……。

僕が恋をした女の子は虎徹に恋をしていた。僕は17年間しか生きていないけれど、彼に負け続けてきた僕の歴史の中で一番、そしてこれ以上なんてないだろうと思えるくらいにみじめだと思った。僕は何度も、僕は君のことが好きだといった。そのたび彼女はほんとうに悲しそうに首を振るのだ。「どうして、神様って、結べない、余りの赤い糸ばっかり、置いていくんだろうね…」僕らの糸は今でも夏の空に宙ぶらりんに揺れている。

「虎徹は卒業したらヒーローになるんだ」もともと角の欠けていた、一番小さな氷がまず消えた。僕は罪悪感から額に汗をかいていた。ジンジャエールを傾けるとシュワシュワとしたなにか味の薄い甘っこいものが喉を調べるようにゆっくりと流れていった。一つ咳をした。「小さいころからそう言ってる」
「そうだったの」彼女のサマーセーターは店内の照明を浴びて、ときどき思い出したようにきらりと光った。
「本当はこれは秘密の話なんだ」
僕は調子に乗って口元に人差し指をあてた。きもいくらいにきざだ。だって好きな女の子の前なんだからきざになりもするさ。さっき拭った水滴がまだ少しだけ残っている。
「秘密の、ね」
彼女もおかしそうに肩をすぼめて人差し指をあてた。
僕は知っている。
その笑顔を起こしたのは僕じゃなくて虎徹だということを知っている。
それでも僕は彼女の笑顔が見たくて虎徹を、いつだって追い越せない男を、彼女の前でちらつかせるなんて馬鹿げたことをしだす。
「君とこうやって話ができてよかった」
嘘だ。今でも僕は君の一番になれないことを生涯の苦しみにしているくらいなのに。





「あの人は大活躍だことね」と、あの時と変わらない笑顔で彼女は言った。

あの時と同じ喫茶店で僕たちは向かい合った。同窓会も予定が会わなくて行かなかったから、彼女とばったり出会ったときにお互い顔を認めたのは奇跡に近かったのかもしれない。といっても僕は彼女がなんてったって初恋の相手な訳だから、覚えているのは当然のことなんだけれど。
彼女は結婚をしたらしい。子どももいるらしい。
自慢じゃないけど僕だって結婚をしていた。もう誰だって結婚をしていてもおかしくない年齢になっていたのだ。初恋に溺れていられるのにも期限ってものがあった。
僕はあの時、彼女を誘ったはいいもののなにを話したらいいかなんてなんにも分からなくて、そのくせ黙っているのは失礼だろうとか変なところだけは気が利いたから、…簡潔に言えば虎徹の話ばかりしていた記憶しかない。彼女も笑って、そういえばあなたは昔ここで鏑木くんの話ばかりしてたよね、と言った。僕は頬を掻きながら頷いた。
彼の奥さんが死んでしまった話についてはどちらとも言及しなかった。
歳を重ねるということは多分そういうことだと僕は思う。そっと埋めておく事実を判別できるように、僕たちは経験を重ねるのだ。
僕はまたジンジャエールを注文した。彼女も同じものをお願い、と言った。

あの人は大活躍だことね、と、あの時と変わらない笑顔で彼女は言った。そうだね、と、僕は言う。
「あの時、あなたの言ったこと、ほんとにほんとかしらって、ずっと思ってたの」
僕は窓の外に視線を移した。初夏の繁華街はまだ熱しきれない人々が夏へ向かってエンジンをかけようと躍起になり足を前へ前へと動かしていた。人々の手はまだ冷えてる。冬がまだ残ってる。昨日だって最高気温が2月下旬並だとか言って妻がマフラーを出していた。
「ほんとだったのね」
そのとき僕は彼女がまだ17歳のまま彼に恋をしているのだということが分かった。息をするように、自然に。カラン。氷が傾いた。僕は彼女を見つめた。
「君に嘘をつくわけがないじゃないか」

その時だった。
春という名の冬の尻尾が夏に追い払われていくグラデーションが僕の網膜の全面で、はっとするほど鮮やかに受け止められた。人ごみの中を掻き分けて少年のように駆け抜けていくその人が景色の真ん中で右手を挙げ咲いた。数秒のことだった。だけど僕はいつまでも瞬きをすることができなかった。
「虎徹だ」
それを合図として待っていたように彼女はテーブルから身を乗り出して窓の向こう側を探した。僕は悔しいも悲しいもどんな感情も通り越して彼が偉大だとただ思った。体が震えた。


だけど、僕と虎徹は高校生になって、胸が張り裂けるような思いの恋をして、恋をして、虎徹は彼女の手を握ることを許されたけれど、僕はもっともっと苦しくなった。なあ虎徹。お前が苦しんだのと同じくらいにお前に焦がれてる奴がいるんだよ。それは代わりなんかいないんだよ。でもなあ虎徹、お前は、一人しかいないからなあ……。


なあヒーロー。 俺もお前に焦がれてたのかもしれない。

カウンター席の小さなテレビからHERO TVのオープニングが聞こえた。彼女ははっとして我に返るとテレビを振り返って、ヒーロー、と、ひとつ、ちいさな呟きを落とした。


ヒーロー
20120430 h.niwasaki
マドンナの庭咲から藻屑のひふみさんへ愛を込めて
私はあなたに焦がれています、とか(笑)