あの男がおそらく自死したという知らせが届いたのはもう日もとっぷりと暮れた午後8時のことだった。「おわったよ。もうおわった」私は何度も天井を見上げては「ああ」と声になる寸前の音のようなものを発した。悲しみであろうか?怒りであろうか。とにかく私の臓器という臓器が音をたてて絞れるだけの「やるせなさ」を絞ってそこらじゅうの床を浸している。「ああ」受話器を置いてもう数秒経たないうち、私は隣室へ駆け出していってベルフェゴールを認識すると瞬間、左頬を平手で打った。

ベルフェゴールは何も言わない。

「おいベルフェゴール」
打った右手が痛い。時が止まったように何もかもが息をひそめていた。
お前が殺したんだろう、と、言えばいいんだろうか。違う。違うよ。じゃあ私はこいつを平手打ちしてまで一体なんて言いたかったのか?懺悔でもしてろと?お前も死ねとか?
「何か言えよ」
へたくそなドラマみたいだ。まるで学生の撮るべったべたの青春系。まるで矛盾してる。こいつは直接手をかけずに人を殺した。そこには若さも行き詰まりも駆け出すためのスニーカーもピンクも存在していない。ただの姑息な、最低な人死だけだ。

ベルフェゴールは打たれた角度から、ほんとうにゆっくりと、ゆっくりと首を振った。扉から僅かに光が差し込んで、彼のブロンドの上を跳ねた。そういえばこの部屋の明かりは何一つ点灯していない。私も彼のあとを追うように、ゆっくり首を振った。思いきり歯を食いしばっていないと悲しみで壊れてしまいそうだった。目を閉じると、跳ねた光が隅のほうでちらちらと燃え盛った。ほんとうに死んでしまったのか。死んでしまったのだ。
彼の僅かな呼吸で目を開けると、彼はその大きな手で顔を覆っていた。そして聞こえるぎりぎりの声量で私の名を呼ぶと、
おれもしにたい、と、言ったのだ。


「死なせるかよ」
言葉は半径50センチのあたりでしばらくうろついたあと、思い出したようにベルフェゴールの元へ届いた。
「お前も殺すよ?」
「やめてよ」
相変わらずベルフェゴールは顔を上げようとしない。

あの男は王家の誇りを忘れていなかった。いい意味でも、たぶん、悪い意味でも。だからどんなに屈辱的であろうとも、弟の所属する部隊へ協力しようと言ったのだ。この世界の兄、ラジエルは、最後の最後で聡明さを見せた。それを拒んだのは、ろくでなしの弟だっ た。
何度でも言ってやろう。この世界では、確実に、ベルフェゴールはろくでなしだった。そしてラジエルは聡明だった。でも、聡明さと引き換えに彼は強さを削った。ベルフェゴールはそれを知っていたはずだ。だから今だってこんなに。
堪らなくなって私は彼の頬をもう一度打った。今まで知っているうち一番早い反射で彼は私の右手のひらを刺し貫いた。ほぼ同時のことだったから私も何が起きたか一瞬分からなかった。ナイフの上を舐めるように私の血液がぬるりと抜け出たとき、ああ、死ぬかもしれないと思った。ラジエルもきっとこんな痛みを伴いながら、

「何やってんだあテメエら!」
殺気を察知してやってきたスクアーロが薄く開いた扉を開け放った。眩しさに我にかえって天井を仰ぐ。すぐさま殴られ廊下に放り出された私はどくどくと脈打つ真っ赤な右手のひらを見つめた。ラジエルはもう居ないのだ。これからミルフィオーレとの戦いが激しくなるってのにどうして私は彼の死だけに固執してしまうんだろう。私も、彼も。
スクアーロはこの種の悲しみの乗り越え方に関しては長けている。低い声で何か一言二言呟くと振り返り、私に向かい「早く処置しとけえ」と言ってすたすたと行ってしまった。私はどうしても彼に頷くことが出来なくて、扉の向こうで膝を折って慟哭するベルフェゴールをずっとずっと呆然と呆然と呆然と見つめていた。そしてその声もとぎれてとぎれて遂に聞こえなくなったとき、私の口が、孵化した蝶が羽を伸ばすようにふわりと言ったのだ。



「ご自愛ください」




20120420 h.niwasaki