金魚やら熱帯魚やらがこちらをちらちら向いてはまたそっぽを向くを繰り返した。そのたび私のほほの辺りが彼らの鱗に反射した光を受けて魔法みたいなまたたきかたをした。それがまるで痒い所に手が届かないような居心地の悪さであって、しかもここの魚たちになんだか品定めをされてるみたいでもっと居心地が悪くなった。私は一生懸命それにかまわないふりをしながらどんどん奥のカウンターへ進んでいった。
ベルフェゴールくんの家はなんだかちょっと普通じゃないぞ、ということだけは噂に聞いていた。だけどこういう角度の「普通ではない」だとは思っていなかった。年賀状を送りたいからと無理やり聞いた住所のとおりに来てみたら、そこには水族館の「小さなサカナコーナー」みたいな内観のへんなバーがあった。ペットショップみたいに淡水魚と熱帯魚しかいない。近所に水族館があるから、そのまねっこかもしれない。だからこの店の扉を開けたとき、ほんとにここかな、と疑ったものの、今年の年賀状は無事受け取ったと彼から聞いたのだ。間違ってはいないだろう。
教室でも体育館でもグラウンドでもやたらと奥の端を好むベルフェゴールくんのことだから、やっぱりこんなところでも「おくのはし」を選んで座っているはずなのだ。やたらと細長い店の奥へ奥へと進んでいくと、ほらやっぱり金髪が端のほうに見えた。

「ベルフェゴールくん」呼んでみると振り返りざまにへんな顔をされた。「もうちょっと静かに呼べねえのかよ」そして微妙な点を指摘された。来たこと自体に突っ込むべきポイントはなかったのか。
ここのカウンターは椅子と椅子の間隔が妙に広くとってあって、ちょっと声を張らないと会話ができない距離だった。ベルくんは嫌そうな顔をしながらゆっくりとスツールを降りた。 「何しに来たの」ベルフェゴールくんの右手には小さなグラスが握られていて、でも、その中身はかわいらしくオレンジジュース(に、見える)だった。暗く落とされた青っぽい照明がその液体(おそらくオレンジジュース)をぬめり、ぬめりと照らして私の頬まで青く染めた。なんだかここはへんだ。入ったときから感じてはいたけれど。
「水族館に行こう」また声を張ってしまったのでベルフェゴールくんのグーパンチがとんできた。「うるせえって」「ごめん」私があまりにも痛がっていたのでベルフェゴールくんは握っていた飲み物を私にくれた。飲んでみるとやっぱりオレンジジュースだった。

「で、なんで水族館なわけ」「だってベルフェゴールくん、行きたいって言ってたじゃない」「言ってたけどさあ」「さあ?」「夏休みだよ、今、わかってんの?」「混んでるってこと?」「こと」「でもねベルフェゴールくん。仕方ないんだよ」「は?」「だって私夏休み終わったら、引っ越しちゃうんだもん」「ふーん」「ふーん…」

たっぷり三秒の沈黙。

「で」「…で?」「何処引っ越すの」「外国」「は?」「嘘だよ」「嘘かよ」「でもとっても遠いんだよこれは嘘じゃないよ」

ベルフェゴールくんはちょっと傾く。私もそれに合わせて傾いてみる。かっくん。

「わけわかんね」
「俺お前がいなくなったら誰殴ればいいわけ?」
「俺がテストで学年一位になっても誰にも自慢できねえし」
「へんなやつに告られても悪口とかいえないじゃん」
「悪口はよくないよ」
「…そういうことじゃない」

こんどベルくんは右手を伸ばして私の髪を乱暴に掴むと、感情のままにゆさゆさと揺らした。脳味噌がぐらぐらする。水槽のモーターのゴオオオオ……、という重たい音が耳の中に急に入ってきてうずまき菅のあたりで羽虫みたいに飛び回った。ああ、たぶんこれはベルフェゴールくん、悲しいってことだ。「私だって悲しいよベルフェゴールくん」

「ベルフェゴールくん」
「海月を見に行こう」
「海月って飼育するのめんどくさいんだってね」
「だって毎日海の水を汲みにいかないといけないんでしょう?」
「めんどくさいね」
「ベルくんみたいだ」

ベルくんはあからさまに不快な顔をしたけれど、私の手をとってずんずん入り口のほうへ進んでいった。そして「おじさん、水族館行ってくる」と言って、お財布をふたつ受け取って、店を出た。

雨の日に考え事をしている時みたいな閉塞的でそれでもうつくしいその店を出ると、ベルくんは当たり前のようにお財布をひとつ、私に渡してきた。日差しで目がチカチカして、最初何を差し出されたのか分からなかった。
「私もお財布持ってるよ」両手を振って拒否すると、
「せんべつ」とだけ言ってぐりぐりと私のほほに押し付けてきた。
餞別、なんて言葉を使うシチュエーションなんてほとんどないから、私はその言葉に少しだけロマンみたいなものを感じた。そしてそのふわふわとした気持ちのまま思わずお財布を受け取ってしまった。ベルフェゴールくんのそれと同じ黒いエナメルのがま口だ。
静かな店を出てしまうと、まるで学校で水泳の授業を受けているときみたいにちょっと恥ずかしくて、心許ないような気持ちになった。あの水槽ばかりある店は、けっこう人の心を安心させてだるだるにしてしまうらしい。ざわめく夏の浜辺は私たちを自然と黙らせた。

「俺の家、殺し屋なんだ」
ベルフェゴールくんが突然呟いた。
「だからあの家は本当の俺の家じゃない」
“あの家”というのはさっきの店だろうか。私は受け取ったお財布についている、星の砂の詰まった小瓶のストラップをいじりながら適当に相槌を打った。へえ。
「むかしっから暴力ばっかりだった」
日常的に私を殴る人の言う台詞だろうか。赤信号で私たちはおとなしくストップする。
「気づいたら俺も似たような人間になってた」
「殴るってこと?」
「こと」

ベルフェゴールくんはそれから一言も発さずに私の二歩前を歩いた。
私はたぶん彼を慰めたほうがいいんだろうなと思った、思ったけれど言葉が出なかった。口をてきとうに動かしてみようともしたけれど上手くいかなかった。

私が遠い、遠いところに引っ越さなければいけなくなったのは、殺し屋に父を殺されたからだった。
ベルフェゴールくんの両親が殺したという確証なんてなかった。けれど、そのときの私にはそんな冷静な判断力なんてなかったから、「殺し屋」という曖昧な指示語を「ベルフェゴールくんの両親」と、そっくりそのまま変換してしまった。
ベルフェゴールくんは本当に大切な友達だった。だから精一杯慰めてやりたかった。それなのにもうどうしようもなかった。私は彼の三歩前で声を殺して泣いた。

夏の日差しと海風のおかげで私の涙はすぐ、からっからに乾いて、
水族館に着いてベルくんが振り返ったときにはもういつもの私に戻っていた。

水族館に入ると私たちは他の何にも引き寄せられず、ただただクラゲコーナーに向かった。まるで借り物競争で「クラゲ」と引いてしまったみたいな必死さだった。私たちはそれぞれにセピアっぽい悲しみや苦しみを抱えて、それでいてお互い共有することなんてほとんどなしに、ただただ早歩きした。

大きな海月の水槽の前、ベルフェゴールくんは奥の端を見つけて座った。私は人々の込み合うそこで彼のきらきらと光る金髪を眺めて眺めて、しばらく悩んだ末にその、隣に座った。ベルくんは何も言わずに水槽を見上げていた。ただ、見上げていた。



「ベルフェゴールくん」
「海月ってやさしいね」
「ふわふわしててかわいいね」
「でもよくわかんないね」
「ベルくんみたいだ」



お前のことだって最後までよくわかんなかった。

そう隣でベルくんが言ったとき、すべてが口をついて溢れてしまいそうになって、私はあわてて「帰ろうか」と、言った。



20120827 h.niwasaki
裸族企画「夏」




※言い訳っぽい解説
ベルがジルを殺した後の話です。色々捏造が入っていますが。。。
「私」に渡したお揃いの財布は元々ジルのものです。たぶんベルは「私」のことをジルの代わりにしていたんだと思います。
いつもジルと二人でいたベルはジルを殺してからなんだか心許なくなって「おくのはし」にいるようになったんだなとか。
「私」が引っ越す理由をベルに話さなかったように、ベルも「私」に秘密にしていることが沢山あったからぎすぎすしちゃうね、って話です。おそらく…