音もなく崩れ落ちていくひとつの鮮死体を俺は見ていた。ぼんやりしているうちにその死体はメインストリートの雑踏の中に紛れ込んでみるみるうちに遠ざかっていった。雑踏は一人二人三人と彼女を踏みつけ、蹴飛ばし、転がしていく。白い肌がひしゃげて、黒い髪がほどけ散って、睫毛が何度か秘密の約束を呟くようにちいさく震えた。殺したのは俺だったけどこんなに当たり前に遠ざけたかったわけじゃなかった。俺が殺したのは普通の人間じゃなかったらしい。「子供」だったのだ。
アーケードの混雑したメインストリートは幸福っぽく、それでいてその場凌ぎのビニール傘くらいにしかその休日は機能していないように見えた。彼らはあの子供を足蹴にしながら日々を過ごしている。俺の手に握られているナイフには真っ赤な血すらこびりついてるっていうのに、休日アーケード街の世界であの特別な子供はまもるに値しない存在だったみたいだ。

「マーモンが居ねえ」
へんな浮遊感を抱えながらアジトに戻ると幹部が皆集まっていた。ボスが一言そういうと、ぽっかりとどこかに穴があいてしまったような気分になる。「代わりとか、テキトーに立てときゃいいだろ。マーモンのことなんだからすぐ帰ってくるに決まってんじゃん」ぽっかりとどこかに穴があいてしまったような気分になる。知ってるよ。わざわざボスが全員集めてこの言葉だけぱっと放り投げた理由なんてすぐに分かる。だからって俺が物わかりのいいような顔すると思ってんのかよ。なあ。「どうせ俺はいつまでもお子様なんだろ」ひしゃげた白い肌がフラッシュバックしてそれ以上は何も言えなくなった。

一週間たってもマーモンは戻ってこなかった。

今日も俺は日曜日のアーケードに立っていた。傘の群の中を歩いていく。メインストリートは寂しげな賑やかさを纏って酸性に偏った雨を受けていた。俺は真っ黒な傘を閉じてそこらに放る。一人二人三人、ひしゃげる音がする前に俺は耳をふさいだ。 あの子供は今日もメインストリートの真ん中に立っていた。そうだ先週だって先々週だってあの子供はおんなじ場所に立っていた。刺したら赤い血が流れるその体で立っていた。まもるに値しない子供。彼女の前に再び立つとその子供はしばしの沈黙で俺の表情を見つめた後、短いその腕を伸ばして俺の頬をはたいた。指先しか触れないようなか弱い平手だった。
「俺がお前のこと守ってやるよ」酸性に押しつぶされてうまく声が出ない。
「じゃあ死んでよ」首を振りながら子供は答えた。やけに落ち着いた高さの声だった。
「は?ふざけんなよ王子が死ぬわけねーじゃん」
平手返しをすると子供は笑った。

その次の週もそのまた次の週もマーモンは戻ってこなかった。カスザメが重い腰を上げて霧の守護者の代役を探しに行った。俺は賛成も反対もしなかった。ただ雨の降る日は外に出ていつもの倍くらい人を殺した。たぶん俺のバイオリズムの中には「殺人」と「子供」の存在が大きく出張っている。その世界の子供は俺の中でぐるぐると走り回りながらいつも俺をせっつくのだ。俺は右足を前に出す。

夢の中で俺はあの子供をまた殺していた。こんどは原形もわからないほどぐちゃぐちゃに…。
彼女は殺されたがっているのだと俺は直感的に分かっていた。そこには悲劇の主人公ぶった恍惚も含まれていないわけではなかったけど、それ以上にあの子供の中には「ほんとうの悲劇」が横たわってこちらをじっと見つめていた。暗い洞窟の奥底にじっと息をひそめて皮膚を一枚一枚剥がされていくような種類のシャイな悲劇だった。
守ってやるということと殺してやるということはつまり俺の中では完全にイコールでつながった絶対的な同情で、憧憬で、手に届かないとわかっていながらいつまでももがき続けるような行為と似たようなことだった。それは俺がジルにしたこととほとんど同じことだった。
彼女の亡骸を俺はどこに葬るのだろう。あの時と同じように馬鹿でかい樹の根元にでも穴を掘るのだろうか。夢の中で俺は彼女を見つめながら、まるで他人の殺人をテレビ画面の向こう側から傍観するような心地で思っていた。結局その夢はそこで途切れて俺は現実に引き戻された。
俺はいつまでたっても子供の境界線を越えることなんてできないのに今になってどんどん大人になるための異常に美化された低くも高くもないハードルがこちらを向いて笑って「早く跳べよ」って俺をせっつく。俺は見ないふりをしてずっとずっと子供にだけゆるされたフープの中で俺の代わりの「子供」を見たてながら人々と“何か”を殺してその円周ぎりぎりのところを回っていた。ハードルは日に日に数を増し、重なり合ったそれらはとっくに俺の背丈を越えて無機質に俺を見下ろしていた。その境界線を越えれば俺は何かを失う。そして何も得ないだろう。だからっていつまでもその淵をなぞっていられるわけじゃないことくらい俺にだってわかるよ。だからマーモンはウ゛ァリアーから離れたんだろうしあの「子供」が俺に殺されるために現れたんだろ?

相変わらずカスザメは新しい霧の守護者を探すために日夜駆け回っていたし、ボスだってなんとなくずっとイライラしたままだった。マーモンと一番長い時間を共にしていたのは俺なのに、マーモンを探す気にはどうしてもなれなかった。「マーモンは戻ってくるんだよ」だから俺がわざわざ探しに行く義理なんてない。
俺もマーモンもあの子供も種類は違えど全員が特別な種類の子供だった。あのアーケードの雑踏ですら誰にもまもられることのない子供、雑草の海の中でゆっくりと息をする孤独な子供。俺はもう一度ふとんにくるまった。じゃあどうすればいい。俺はぜんぶぜんぶ諦めてそのハードルの山を丁寧に崩し、並べ、笑って跳べばいいのか。それが幸福なことなのか。それで誰かが助かるのか。誰かを殺せるのか。


俺は次の日曜日、彼女を殺すことをやめた。代わりに何度も何度も彼女を平手で打ってそのあと息が詰まるほどに抱きしめた。人混みは絶えず足踏みを繰り返して俺とその子供のこころをすり減らしていった。アスファルトが溶けるように熱い。しばらくすると彼女は思い出したようにふと倒れてそのまま蹴飛ばされていった。抱きしめた腕が凍るように冷たかった。俺は子供のフープの淵をなぞるのをやめてその外の土を踏みしめはじめていた。フープの外側の地点から見えた景色は色を失って、アスファルトの熱で溶けたようにぼんやりと輪郭を失った少女の皮膚の色は、どこまでも神聖で忘れがたい白になった。歩行者天国の少女。歩行者天国の少女。俺はあの白を心がひっくり返ってしまうほどに強く覚えている。歩行者天国の少女。


20120705 h.niwasaki