「名残惜しい」
「嘘」
「嘘じゃねーよ、寂しい」

寂しい、とベルが言ったのは後にも先にもこれだけだった。



無人の改札を抜けるとホームには誰もいなかった。3年間毎日のように使い続けたこの駅は、うちの高校の生徒しか利用してないんじゃないかってほどいつも閑散としていて、そして今日もかわりなく閑散としている。
おとといまで雪が降っていたから、線路の向こうには溶け残ったきたない色の雪が固まって道路を邪魔していた。だけど昨日から嘘みたいな晴天。春がすぐそこまでやってきている。

ベルは手持ち無沙汰に、卒業証書が入った円筒のケースを開けたり閉めたりしていた。開けるたびに、ぽん、と気の抜けた音がする。
わたしはスクールバッグを足元に置くと、少し上を向いて、はあー、とため息をついた。胸の中にある、複雑で名づけ得ない気持ちもいっしょに吐き出した。柔らかな風が頬とまぶたの上を通り過ぎていく。

ベルとわたしは恋人だった。
入学して3ヶ月も経たないうちにベルが告白してきて、わたしだって一目惚れだったから即付き合い始めて、まわりに囃されながらも、いろいろあったけど今日までずっと仲良くやってきていた。ベルはわたしの自慢の彼氏だったしわたしはベルにたくさん好きをあげた。ベルもわたしのことを大好きだと言ってくれた。幸せだった。

ベルはケースをいじるのにも飽きたらしく、足元に転がっていた煙草の吸殻をスニーカーでにじりはじめた。うつむいて、心底暇そうに体を揺らしながら。吸殻はスニーカーと粗いコンクリートのあいだでギリギリと砕けてほどけていく。ばらばらになった吸殻をつまさきで追い払ってから、ベルはぴたりと動きを止めた。思案するように空を仰いでいる。わたしも同じように空を仰ぐ。すう、と絵の具を伸ばしたような薄い綿雲が青空の真ん中に浮かんでいる。

ベルは高校を卒業したらヴァリアーに入るって言っていた。だからしばらく会えないから別れよう、と言われたのは昨日の夜のこと。まだ心の整理がまったくついていないわたしの隣で、ベルはもうずっと先の景色を見ているんだろうな。たとえば来月のこと。新しい環境のこと。わたしは昨日の夜を境に一秒も時を進められていないのに。

「必ず迎えに来るから」と、ベルが唐突につぶやく。

わたしは彼のほうを見ることができない。ありきたりな言葉が口をついて出た。

「ほんとに?」
「ほんとに」

もうベルには会えないような気がした。わたしの予感はきっと当たってる。

「…ベル、わたしベルのこと大好きだった」
「しし、過去形?」

だから、大好きだった、って言うことにした。

突っ立ったまま並んで電車を待つ。わたしのブレザーの右ポケットにはベルの第二ボタン、どころかボタンが全部入っていて、手を突っ込むとじゃらじゃらと音がなった。あと少しで電車が来る。

ベルはわたしのほうなんか見ずに前を向いたまま、名残惜しい、とつぶやいた。嘘、と返せば、嘘じゃねーよ、寂しい、なんて、胸がキリキリと痛むような声を漏らした。わたしはベルのこういう、繊細すぎるところも好きだった。普段はあきれるほど我儘で、横暴なのに、時々裏返ったように苦しみを口に出したりする。心の地盤がいつもぐらぐらと安定しないような人。
少しの間沈黙がつづいたあと、ベルはふとわたしの二の腕を掴む。いつもの仕草だ。右を見上げれば、ベルの綺麗な顔が目の前にある。すこしだけかかとを上げて、目を閉じる。

「ばいばい」

触れるだけのキスをして、ベルは改札を抜けていく。ホームにはわたしだけ。遠くに電車が見える。

「ばいばい」

ベルの唇の感触が名残惜しい。

2両だけの小さな列車が目の前に止まり、わたしはスクールバックを肩にかけ直して扉の前に立つ。ボタンを押して扉を開けると車内の暖かな空気が髪を撫でていった。乗り込んで扉を閉めれば、すぐに列車は動きだす。
ふと見やれば、車窓の向こうに、背を向け歩いていくベルが見える。どんどんちいさくなっていく。もうベルの姿を見ることはないんだろうなあ、なんて今更思うと、しょっぱい涙が頬を伝った。もう会えないならどこにだって行ってしまえ、どこまでも遠くへ。


h.niwasaki
幕引 20160609
公開 20181201

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