この世界は漫画みたいに上手くはいかない。頬の青あざをもう一度なぞるように殴ってきた上司を睨みつけることもなく殴り返す。不毛に重ねてまた不毛。こんなことしてたって何が改善されるわけでもないのだ。ただ、こういう人間であるからこうしているだけ。他に理由などない。かっこつけて理性をみせびらかしたところで心臓が止まるだけだ。生産的でない日常を繰り返すことにもはや不満はない。紅一点、聞こえはいいがさっきも言ったはずだ。この世界は漫画みたいに上手くはいかない。さんざ殴り合ったあとに女を気遣うような奴はここではむしろアホなのだ。

つまんねー。

 そう呟いてベッドに倒れ込むと同時、落ちていた拳銃で窓辺に向かい一発。おもしろくない、そう言いつつ奥の奥の奥の奥の奥で血を欲して狂気の笑い声を響かせている私を私は発見している。だからこそヴァリアーでここまで昇格できたのだ。双眼鏡でこちらを監視していたメイドが無様に落下していく光景に何の感慨も抱かない。抱けない。「メイドに木登り任務なんて出したの誰」
「はあ?」
「…毎度毎度面倒くさくって」
「お前が幹部昇格したての頃にはおもしろがって5人くらい一気に殺してたじゃん」
「3日経てば日常よ」





 人を殺すのがそんなに楽しいか、と、よく訊ねられる。ああ楽しいよ、と答えてやるのが常だ。でも別に楽しいとか楽しくないとか、正気の時に訊ねられたところで困る。衝動的に、たぶん長年の染み付いたクセのように条件反射的に、気づいた時にはもう刺していて殺していて、だから、そんな時には「楽しい」とかいう記号的な感情は住んでいない。「楽しい」ってきっと、身の安全を確保できたアホ共の享楽を指すんじゃねえの。どうでもいいけど。

「まず、こいつらは俺らと同じ類の生き物じゃねえと思え」
「うん」
「アリ潰すのが悲しいか?カラスの死体を見て泣くか?」
「いいや」
「そういうこった」

 人を殺している自分は好きだ。だけど、人を殺すことそれ自体が好きかと問われたところで俺の中に正答は存在していないのだ。そもそも“人を殺す”ことって概念を抱いてる時点でそいつにばんばん人を殺す任務が務まるはずがない。なんてったって自分自身、人間なのだから。





「『アリを潰すこと』『カラスの死体を見て泣くこと』『人を殺すこと』。全部ヴァリアーのなかでは同じこと。女で遊ぶことも、酒に酔うことも、部下を殴り倒すことも、サラダを食べることも、全部普通のこと。3時に寝ることも、夜中の3時に寝ることも、一緒で、ボスに褒められても、怒られても、結局殴られるからおんなじ。…教えてくれたのは誰だっけ」
「うっせ」

 きったない色の瞳をしている。俺は目をそらして、ああ、あのころはもっと人間の目をしていた、なんて、思って、





 ダリの歪んだ時計が綺麗だと言う。「綺麗、って言葉は変幻自在だから」。そしてそんな言葉を使うとき、必ず女って生き物は瀕死状態で微笑んでいる。社会一般の共通概念みたいなものを全部ぶっ飛ばした後に残るのは、たぶん俺らみたいな乾いた心。決まりきった日常や社会の枠組みから逃げたと思って微笑んでいる女たちは本当に滑稽で、見ていることすら苦しくなる何らかの大気を纏っている。太いリボンで緩く絞められているようなもどかしさ。だから俺は女が嫌いなんだ。

逃れられるはずがねえのに。



 …積まれたメイドの山。油を注いで火を放てば艶っぽく這い登っていく。俺は綺麗、というあの二文字についてもう一度考えてみた。ちらちらと光るクリスマスのイルミネーション。結婚式のウエディングドレス。南国の青い海。…そして、ダリの歪んだ時計。前者の3つと残りのひとつを同列に並べることは、少なくとも俺にはできない。それを並べることが出来るとしたら、その原因は、ちょっとした価値観の違いとか育った環境がどうだとかそういうことじゃないんだろう。そもそも俺にとって綺麗なものという存在はない。これだってあの女共と変わりはしない。


『メイドの女の子を愛でることも、殺すことも、変わんないよね。どうせどんなルートをたどっても、結局“殺してください”って願われる。まあすぐには殺してあげないけどね。だって、ねえ、想像できるでしょう?“殺して”って言うときの瞳がとっても綺麗だから。悲劇のヒロインにでもなりきってるのかな、無意識のナルシシズム。やっぱり人間はうぬぼれる瞬間が一番美しいよ。でもその美しさって長くは続かないんだよね。可愛そうになったら止めてあげる』

 女はココアを一口飲んでひと息つくと、ひらめいた!と言わんばかりの顔をして俺を振り向いた。静かに秘めた声で一言、

「なんだか私のやってることって神様そっくりだ」





 どんなに神経が図太くたって駄目だ。暗殺業ってのは強心臓とか頭おかしいとかそういうレベルで免れることの出来る心傷ではないのだ。だから俺たちはその心傷に先回りして、出来るだけ傷つかない選択をする。お互い口には出さないしそんなそぶりすら出しはしないけど、傷つかないこと、それがヴァリアーにとって何より大切な才能であり技術であることなんて誰もがわかってる前提条件みたいなもんなんじゃねえの。それこそ「強さ」って言葉は変幻自在で、特に俺らにおいてそれは一般からしたら歪められてるけど、あの女のような根っからの自惚れから来る自尊心みたいに脆いわけがない。
あいつは傷ついてしまった。6人目。俺にはどうすることもできない、まあ、どうするつもりもないけど。あいつが出て行った扉を一瞥して、ゆるゆると首を横に振る。

さよならー。









 頭の悪い奴ではなかった。ただヴァリアー程じゃなかったって話だ。俺はあいつの「ナルシシズム」と言ったときの唇の動きを思い出していた。あれこそひたひたのナルシシズム漬けだったんじゃねーか。馬鹿らしくなって考えるのをやめた。
 代わりにあいつを殴った。
 こめかみに添えられていた銃はふわりと手を離れた。1秒が100秒にも100分にも感じた。驚いたような諦めたような顔をしたあいつは脱皮した蝶みたいな湿った美しさを放って一粒涙みたいななんかを流した。

「肉を切って骨を守る、知らねえの?…それじゃそこらへんのザコ以下じゃねえかよ」
「ベル、血」
「あ?…別に戦う気ねーから覚醒しねえよ。馬鹿じゃね」

 神様神様神様神様。ああうるせえ。別に他人の感情なんかどうでもいい。俺はむかついたから殴っただけだ。その行為がそいつを生かそうと殺そうと関係ねえ。だからこいつが今何を思って、これからどうするつもりなのか、何て興味のない話だ。俺は次の任務を受け取りに部屋を出る。撃たれた左手は久しぶりに痛みを伴って血をしどどに滴らせていた、うっぜえ。

あーあ。

 好き勝手すぎるんだあの自称王子は。私が死のうと生きようと彼には関係のないことじゃないか。しかし1m先に落ちている銃を今更頭にパーン、なんて面倒だし馬鹿らしくなってしまって全身の力が抜けた。
「心傷に先回りする力、か」
 私が本部にいたときからずっと強かった。強すぎるヴァリアーの強すぎる幹部。
 今やっとその強さの理由が分かった気がした。



マドンナは調子に乗らせておけ

20120609 h.niwasaki
マドンナは3周年を迎えることができました
4年目もどうぞよろしくお願いします