生ぬるい冷気から生ぬるい日差しへ一歩。
別に冷やす必要もないのにだらだらと動くエアコンが効いたオフィスビルから外へ出ても、たいして景色が変わるわけじゃない。都会って外でも部屋のなかみたいに均質なにおいがして、ホテル暮らしの長かった私には妙に居心地が良かった。
直角水平な建物の中外をうごく、直角でも水平でもない人間は、まるで動物園のカンガルーみたいに間抜けで野蛮に見える。どうしてエスカレーターの階段はどれも均一なくせに、そこに乗っている人間のふくらはぎはこうもぶよぶよと不均一にゆれるのだろう。
「なあ」
隣で髪の毛をわしわしといじくりながら歩くこの男も例外ではなくて、人間の臭みみたいなものを凝縮したようにさえもみえてくるからつらい。日本人よりも欧米人のほうがすっきりと見えるけれど生き物としての「くささ」は断然、欧米のほうが強いのだ。
「もう終わりにしね?ジャッポーネの任務引き受けるの」
「ああ、別に」
別にベルがいやだったらベルだけ帰ってもいいよ。そういうと、ハァ?とだけ漏らしてあとはそっぽをむいたまま。わかってるよ、自分だけ帰りたかったら勝手に帰ってるはずだ。
私が東京にいつまでもとどまり続ける理由は自分でもよくわからなくて、私が日本人だってこと以外にたいした理由はない。ヴァリアーに入ってからしばらくはヨーロッパで仕事をしていたし、向こうが肌に合わないってこともない。ひとつだけ抽象的な理由を付け加えるとすれば、きっと私は道路さえホテルの廊下みたいに綺麗で静かなこの「くさくない」街がすきなのだ。
一か月かかった大がかりな任務も今日で後片付けまで無事終わって、あとはボスに報告書を送ればおしまいだった。ベルはその足で飛行機に乗って帰るはずだったから、自分だけ帰りたかったのならもう目の前から姿を消していることだろう。わざわざ横を歩いてるってことは何かあるのだけど、ただの同僚以上にこれといって関わりもない彼に何を期待することも、怖がることもない。私は私で日本での追加任務をだらだら待ってればいい。







たぶん当てつけなんだろうけどさあ。
そう言ってからベルは携帯の画面に視線を落としたまま、いくつか商品名を無感情に口先で並べ立て、ちらりと私の方を伺う。どれも国際通販じゃ手に入らない日本製のものばかりだ。珍しいな、ベルが言い訳から入ってくるなんて。普段だったらやりたい放題したあと、誰かに責め立てられて初めてキレ気味に言い訳を高速射撃してくるような男だ。よほど後ろめたい何かがあるのか、もしくは大してやりたいとも思っていないのか。

「買ってこいって言われてんの」
「まー。わがままなお姫様だことね」
表情は特に変えないまま、ほんの少し首を傾けてベルの方を見やれば、わかってんだろと言わんばかりににらみ返される。この男はいつまでこんな子供じみた振る舞いを装備しておくつもりなのだろう。ホテルのラウンジに設置されたおさまりのいい一人掛けソファは、やっぱりイタリアとは違ってくさくない。なんていうかな、毎日使っても飽きないギリギリの高級感が保たれている感じがする。それに比べてヴァリアー近隣のロイヤルホテルなんて、いつか人間が負けるような威厳と価値を煌々と放つような調度品ばかりが目に入ってきて、物にまで気を張らないといけない感じがしていやだった。ベルのような育ちの人間には、きっとそんな感覚は理解不能なんだろうけど。

目の前のコーヒーには全く手をつけないで、ベルはその椅子に深く腰掛け脚を組み、もう一度、何の変化もない画面を一瞥したあと、深くため息をつく。
「あいつさあ」
「うん」
「多分、っつーか絶対お前を疑ってんの」
「何?できてるかもって?」
つい笑いの混じった声になる。ベルもどうしてだかその笑いが移ったまま、
「あいつにとってはマジなんだってば」
と言う。

「どうして?同僚以上の関係に見えるシーンなんてなかったと思うけど」
「現にこうして一緒にいるじゃん、異国で二人」
「組織が組織なんだから当たり前でしょ」
「俺に言うなよ」

ベルのマーチンの爪先が揺れる。

「罪償いだと思って買ってこいってさ」
「言われたの?」
「そこまではっきり言われてないけど」
「若いね」
「お前だって大してかわんねーだろ」
「17と20じゃ大違いよ」
「そうかも」

珍しくベルが弱気なことを言って、組んでいた脚をほどく。そういえばここまでちゃんと話をしたのは初めてかもしれない。そんな二人の関係を疑うなんてやっぱり彼の彼女は若い。彼も若い。

「俺結構あいつのこと好きなんだよね」
「へえ」
「でもボスってジャッポーネの任務のとき絶対俺を指名してくんじゃん。スニーキングが一番うまいとか言語能力がどうこうとか、実績とか、なんか色々言ってさ」
「全部本当のことだから」
「知ってる」

少し前のめりになって太ももに肘をかけ、大股を開いているベルの横柄な態度の向こうに、ヴァリアー邸の風景を重ねてみる。しっくりくる。
あの景色の中では、ベルは大して横柄にも見えない。あの空間にぴったりの態度を取っているようにしか見えない。

「ジャッポーネの任務がヴァリアーにも入ってくんのって絶対お前がここに住んでるからじゃん。だって沢田とその取り巻きもジャッポーネにいるんだからそいつらに任せとけばいい話なのにさ。なあ、お前も一年前までイタリアいただろ?」
「そうね」
「もうさっさと帰ってこいよ」

それはあんたの都合じゃないの、と言いたいところだけれど彼の予想は大方当たっていたから何となく口ごもってしまう。私のアイスティーはグラスの半分以下にまで減っている。








日本橋の某デパートには時間帯を問わず多くの人がざわざわとひっきりなしに出入りを繰り返している。ベルは面倒くさそうに、でも何の躊躇も困惑もなくコンシェルジュを使い「彼女への贖罪リスト」をかき集めようとしていた。だいたいは食品や消耗品だった。彼女としては、ベルに何度も同じことをさせる魂胆なのだろう。
わざと英語を話してコンシェルジュを離さない意地悪なこの男に合わせてやり、私もバリバリの日本人だけど仕方なく英語圏の人間になりきる。コンシェルジュはこの美少年にやる気を加速させたのか、生き生きした動きで各所に電話をかけまくり、15分もしないうちに全ての商品が顔を揃えた。日本人はやっぱり働きすぎだと思う反面、ここまで気持ち良く自分の要望が叶うなら、やめてほしいとは思えないよなあ、なんて思う。尽くした者負けなのだ。

デパートはそんなに好きじゃない。ホテルやオフィスと違って、不均衡な色形や人間が多すぎる。ここだけは少しイタリアの「人間が負けそうになるほどの人工物」の気配を色濃く感じてしまう。ベルはその荷物を全てヴァリアー邸へ送る手配をすませると、流暢なイギリス英語でCheers.と笑うが、彼らは意味を取り損ねている。そこは普通にThanksでいいのに、ベルはこういう小賢しい意地悪が好きだ。

「これで満足?」
なんとなく東京駅の方へ歩きながら隣の男の発言を促す。ついてきて、と言われて仕方なくここまで案内してやったのだから、もうそろそろ家に帰ってゆっくりしたかった。
「お前がイタリア帰ってくるまでは何も満足じゃねーよ」
バーカ、と付け足したように言ってベルは舌を出す。なるほど彼女が疑り深くなるわけだ。
「なにそれ、告白?」
茶化してみると、
「自意識過剰」
突然冷めたような返事になる。

二つ目の信号に引っかかり、車通りの多いせいで二人とも仕方なく足を止める。まあどうせ東京駅付近に車でも付けてあるのだろう。どうしてあんなに警備の激しそうなところを選ぶのか私には理解不能だったけれど、ベルのことだから口を出しても無駄だ。そう思って黙っていた。
「なあ」
そう声をかけられて左を振り向く。
その瞬間、唇に何か柔らかいものが当たった。つんとする強い匂いとともに知覚されたそれは、ベルの人差し指でぐっともう一押しされて口の中に入った瞬間に何であるかが理解できた。イタリアでよく食べていたグミの味だった。カシスとかベリーとかそういうフレーバーの。うわあ懐かしい、と思うと同時に突然なんだこいつは、と動揺する。今まできちんと話をしたこともなかったんだ、どういう人間かは知っていても自分に対してどんなことをしそうかなんてこと予想できるはずもない。
「ジャッポーネって味気ねえな、いつも来るたび思うけど」
さっき私の口に押し込んできたのと同じものを、袋からまた一つ取り出して今度は自分の口に入れた。
「はいどうぞ殺してくださいって言われてるみたいで逆にむかつくんだよね。どうぞこき使ってください、どうぞ汚してください、どうぞ好き放題してくださいって、今時一番安い娼婦だって言わねえよ」
信号はそろそろ変わる。
「だからイタリアいる時よりいたぶって殺したくなるし、態度デカくしたくなるし、なんかバランスとれねえんだよ。だからジャッポーネは苦手」
嫌い、と言わない彼の選択にはきっと意味があるのだろう。信号が青に変わり、律儀に停止線で止まったタクシーを横目にベルは歩いていく。
「俺、お前が思ってるより本当は大人だよ」
「私よりも?」
「それは分かんないけど」
口の中でくだけてべたべたざりざりと張り付くグミの破片から強烈な謎の甘い香りが立ちのぼる。
「イタリア来て確かめるのが一番確実じゃん?」
「ベルの彼女に殺されるかも」
「だいじょぶ、あいつは殺しの腕は凡人に毛が生えたくらいだし」
てっきりそれなりの手練れなのかと思っていた。ベルはいつもうっかり殺されないような人ばかり彼女にしていた。
「じゃあどこが好きなの?」
「喜怒哀楽がはっきりしてるとこ。あと喧嘩しても泣き落としにかからないとこ」
まるで普通の17歳みたいな発言に笑えば、負けじと彼もニヤリと笑ってこう返す。
「今日買ったあれ、全部彼女が頼んだモンだと思ってた?」
「思ってたけど」
「半分はそう」
残り半分はイタリアに全然帰ってこない幹部補佐のジャポネーゼに、当てつけで。
そう言ってグミの菓子袋を私に差し出して、もう一言。
「だって俺のこと好きじゃん、お前?」
そう言って私から去ろうとするベルを取っ捕まえるように、私は負けじと言葉を引っ掛ける。
「自意識過剰」
一瞬だけ目があって、やっぱり近づくと彼は外国人くさい。ベルは目だけでうっすらと笑ってそのまま東京駅の裏側へ消えていく。ざあっと、彼を追うように、一陣の風が吹く。強い香りを吹き飛ばして、慣れた無臭の匂いが顔の周りに戻ってくる。このグミ、きっと日本じゃバランスが取れなくて食べづらい。









ホテルの自室に戻り、手に持ったままだったグミをテーブルに置く。品のいいおとなしげなソファに座り、つるんとしたグラスに水を注いで飲んだ。
ベルは私への「当てつけ」にも食品を入れただろうか。あんまりもたもたしてるとヴァリアー邸の自室から腐臭がしかねないな。まあ、ちょっとだけ戻ってベルが本当に大人になったかどうか見てやるのもいい。スクアーロ隊長にも久しぶりに会いたいしなあ。とりあえず一週間、とスケジュールを頭の中で描きながら、さっきベルがやっていたみたいに大げさに足を組んでいつもより偉そうにしてみる。ズッ、と腰がいつもより数センチ下がった瞬間、なんとも妙にしっくりきてしまって、私はその姿勢のまま一人で小さく笑って、ベルには何も隠せないなと、自らを情けなく愛おしく思った。




あんたの相応

20160918
h.niwasaki
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