息を切らしながら玄関まで辿り着いて、ひといきに扉を開け駆け込むように部屋に入り扉を閉め鍵を掛ける。ぜえぜえとはあはあが混ざったような妙な音がのどの奥からして、気持ちの悪い汗が出た。しばらく玄関から動けず、薄暗い玄関タイルと自分のパンプスのつま先を眺めながら、心臓の音をただただ聞いている。
 もう一ヶ月くらいずっとこんな調子だから、全力で走ったあとの自分をどう扱えばいいかもだんだん分かってきた。10分くらいこうやってじっと息を整えて、あとはそのままシャワーを浴びればいい。玄関の向こう、オートロックを越えたどこかから感じる気配はどうやら玄関扉を破ってはこないようだったから。





「踵、すり減ってる」
「え?」
「パンプスの踵」

 どう歩いたらこんなに汚くなるわけ、と、汚れたパンプスをつまみ上げながらベルが呟いた。今までこんなに使い込まなかったじゃん、とも。
 確かに私はとても身なりを気にする方で、洋服だって靴だって、鞄でさえも山のように持っていて、ひとつひとつ丁寧に使いたいとも思っている。ベルに出会ったのも大好きなブランドの展示会だったし、ベルはそのブランドでプレスをやっていたからその辺のショップ店員より服の扱いにはうるさかった。
 今までだったら、というか、一ヶ月前の私なら、パンプスで全力疾走することなどなかったのだ。そろそろ帰宅用にランニングシューズでも買ったほうがいいのかもしれない、なんて考えているうちに、ベルにばれてしまった。締め切りギリギリの案件が続いたの、と、ありがちな言い訳を投げてキッチンに逃げた。お気に入りの靴、私だって好きで汚してるわけじゃない。

 その問題の一ヶ月前の月曜日だって、私は何か恨みを買うようなことをした覚えはないし、というか、生まれてこのかた、人に指名で狙われるようなことをした覚えなんて全くない。
 そう一ヶ月前の月曜日、その帰宅途中、私はいちど殺されかけた。
 大通りから一本入った十字路を抜けたすぐそこ、急に住宅地になるひっそりとした夜道で名前を呼ばれ突然男に飛びかかられた。年齢が年齢だから痴漢には遭わないようにと持っていた防犯ブザーはいざというとき全く役に立たなくて、通りがかりのお兄さんがいなければもう死んでたかもしれない。男は長いナイフを二本、そして私の目が正常であるとすれば、銃を持っていた。男は一瞬の隙をついてすぐに消えていなくなってしまい、お兄さんには送りましょうか、と言われたけれど、知らない男の人というだけで怖くなってしまった私は、そのとき思いつくできるだけ丁寧な言葉でお兄さんを断って、逃げるように帰宅した。

 それから毎日、私は最寄り駅から自宅までのほんの5分だけの道のりを、逆に目立つんじゃないかというくらい一生懸命走って帰宅している。あの日から、人影はなくとも何らかの気配が背中のあたりにべっとりとまとわりついて、走りでもしないとその恐怖に泣き出してしまいそうだった。
 なんとなくベルにはこのことが言えなくて、今日に至っている。

「ふくらはぎ逞しくなったんじゃね」
 笑いながらパンプスを置いて、ベルは顔を上げた。頬に、私のパンプスとよく似た擦り傷が、ふたつ。



 人には、叶わない夢もあらがえない現実もたくさんあるけれど、ベルはそういう感情の毛羽立ちを見せない人だ。洋服はいつも新しいものを着て、髪は一本も泳がず、唇のしわまで思いのまま、というような人だ。その見た目のつるりとした、するりとした心地が内面にまでしみ込んでいて、もちろん人並みには愚痴るし荒れるのだけれど、その振る舞いは何かを演じているようにも見えてたまにひやりとする。その演技の向こう側に近づきたいと手を伸ばして、いつもするりとかわされて、もどかしく涙が浮かぶのを、抱きしめてくれるのもまたベルなのだ。かわされてしまうのは、私がまだ「足りない」からなのか、それとも、ベル自身も無自覚なのか。洗面所で顔を洗いながら、ふと見つめ返してくる排水溝のきらきらとした流水の照り返しに、刹那の実態すらないように。



 ベルにパンプスを指摘されてから一週間。やっと新調したスニーカーを履いて出社する。今日は仕事を早く終わらせて急いで帰ろう、と自分に言い聞かせながら。
 いつも飄々として自分からアクションを起こさないベルがなぜか急に電話をかけてきたと思ったら「明日だけは絶対に家にいろ。いいな」とだけ言って理由も言わずに切られた。年中無休で余裕そうな顔をしていると思っていたら案外そういう人でもなかったのかもしれない。誕生日でも記念日でもないけれど、明日は晴れの予報が出ている、とぼんやりテレビで確認する。10月10日。

 日も沈みかけた夜6時。薄暗い太陽の余光と街灯の明かりが混ざって、正体不明の影が伸びている。私は今日も走る。仕事用の大きなトートを脇に抱え、膝丈のフェミニンなスカートにぜんぜん合ってないナイキのスニーカーで走る。駅のエスカレーターを早足でのぼり、地上に出れば早足は駆け足へ。大通りをすこし行けばすぐに曲がり角が見えて、そこからが怖い。私はここからいつも気が遠くなるほど誰かに追われているような恐怖を背負いながら全力疾走する。

 と、十字路のあたりで見覚えのある金髪が目に入る。
 ベルだ。

「あんだけしっかり伝えてやったのに無視かよ。まあ実際はいなくて正解だったみたいだけど」
 何のことだかさっぱり分からない私をするりと抱き上げて、十字路は曲がらず真っすぐ駆け抜ける。トートの中のペンケースと水筒がかちゃかちゃと鳴ってうるさい。わけがわからない。家にいろと言ったのはベルの方じゃないの。
「お前の運のよさ大好き」
 うししと笑いながら、どんどんと家から遠いどこかへ向かってゆく。汗が急速に冷えていく。「その足の速さもね」

「一ヶ月も走ってりゃ足も速くなるよな。体力もついてんじゃない。帰ったら一晩中相手してやるよ」
 言い返す暇もなくぶんぶんと振り回されて目が回る。ベルは何かを避けながら走っていた。足音と呼吸音にかき消されてよく分からないけれど、なにか様々な音がしているのだけは分かった。
「喜ばしいことに今日はボスの誕生日なわけ。それが全部の理由」
 は?と精一杯の嫌みを込めて声を出したけれどベルに聴こえているのかは分からない。声に出せたのかも分からない。

「お前が一ヶ月前に裏通りで会ったおっさんはお片付けしといたよ。そん時助けてくれた兄ちゃんも実はおっさんの仲間だったんだけどな。お前ほんとにラッキーだよな、さすがは俺の女」

 お前足早いし勘がいいから、向こうの奴らも早々と諦めてくれっかなと思ってたんだけどね、と、語尾はもうほとんど聴こえないくらい早口で唱えるようにベルは言って、そして、すこし呼吸をおいてから、ごめんな、と呟いた。
 小さいノイズのような音はいつのまにかはっきりとした銃声音に変わっていて、ベルのルート選びも複雑になっていった。文字通り振り回されながら、私は足りない頭で考える。ベルは全部知っていたってことか。
 知ってたならなんで教えてくれなかったの。どうして私は狙われてたの。ボスっていったい誰なの。ベルが関係してるの?
 聞きたいことは山のようにあったけれど、もうベルにしがみつくだけで精一杯だった私は口も目も、耳までも閉じてただベルにつかまることだけを一生懸命に続けた。しばらくするとベルはゆっくりと足を止め、私をおろした。状況がつかめない私は一瞬身構えて降りるのをためらったけど、よく見ればそれは私のマンションのエントランスだった。一周回って帰ってきたのである。

「じゃーね。俺はちょっとゴミ処理してくっから」
 さらさらの髪は汗でところどころ束になり、走り回ったせいで服もしわしわで、普段のベルとは似ても似つかない。ただ、私は本能的に、これが本物のベルだ、と分かった。私は初めて、今初めて、本物のベルに出会ったのだ。

「ベル、」「ん? お前は帰ってな。心配ないから」「そうじゃなくて」「そうじゃなくて?」「帰ってくるよね」「心配すんな」「ねえベル、」「うん」「帰ってくるよね?」

 ベルは情けなく笑って最後の嘘をついた。それはどうしようもない嘘だった。
 「いなくなったりなんてしないよ」、と。



 次の日から、私の背中を覆っていた目に見えぬ気配はぱったりと感じられなくなり、ベルと連絡がつかなくなった。
 あれからも、なんとなく帰り道は走っていく。流れるように現れては去り、現れては去りする景色を見ているとあの日のベルのことを思い出す。いつもショーウィンドウの向こうから笑いかけているような距離感だったベルが、はじめて私の前で本物のベルになった日、ベルがいなくなってしまった日。
 玄関で息を整えて、シャワーを浴びながら、シャワーの水がおでこを伝い目を伝い頬を伝いながら、いつのまにか涙があふれて、気づけばベルのことばかり考えている。

 人には、叶わない夢もあらがえない現実もたくさんあるけれど、ベルはそういう感情の毛羽立ちを見せない人だ。洋服はいつも新しいものを着て、髪は一本も泳がず、唇のしわまで思いのまま、というような人だ。
 でも、きっと、ほんとうのベルは泣いていたのだ。叶わない夢とあらがえない現実を目の前にして、泣いていた。本当は感情は毛羽立っていたのだけれど、それを覆い隠すのがあまりにも上手すぎたのだ。ベルはよく私のことを、俺の分まで笑ってくれる人だと言っていたけれど、ベルの分まで泣けば、ベルの悲しみは消えてくれるだろうか。どうかそうでありますように。



20141004 h.niwasaki