愛っていうのは病の形の裏返しで、その人が私をどんな風に愛してくれるかは、その人がどんな病を抱えているのかを知るのと同じことなんだと思ってる。
 よく語られがちな「彼女に母の影を見る男」像もやっぱり病のことを指していて、でもさあ、病だから治さなきゃいけないって、誰が言い出したんだろう。
 私は、別にそんなちいさな病に大騒ぎする必要もないと思うし、むしろ病のない人なんているんだろうか。今はやりの「個性」ってことにして、診断書も全部燃やしてしまえばいいのにと思う。

「どうせお前も死ぬんだろ。弱っちい奴はすぐに死ぬよ。守ってやる気もないし、はやくどっかいけよ」

 私の恋人の病は死について。自分の大切なものほどすぐに失われるという思い込みが消えない。失う、という体験があまりにも耐えられないものだから、いっそのこと自分で壊してしまおうと思うのだ。
 私は彼の病を彼より分かっているつもりだから、そういうときは黙って側にいる。愛っていうのは病の形の裏返しだから、ベルがこういうことを口走るときはたいてい心底さみしいときなのだ。こういうとき、言葉は言葉として本来の意味をなさない。言っていることと言いたいことが矛盾して壊れている。

 強い病ほど私は好きだ。なぜって、愛の形が分かりやすいから。病んでいないように見える人の挙動は予測がつかなくて怖い、と思うほど。病は自らを語るけれど、健康は自らを隠すから。誰だって自分をさらけ出し続けることは嫌だ。

「嫌なんだよ。お前が死ぬのを見るのは嫌だ。だけどお前、絶対俺より先に死ぬじゃん?弱いから。もう分かんねえよ。早く死ねよ」

 だれだって速く泳ぎたいから息継ぎは最小限に抑えるけど、でも最低限顔を上げないと泳ぐことすらできなくなる。病を抱えた多くの人は、息継ぎが下手だからいつも顔を上げている。それじゃあいつまで経っても泳ぎはうまくならないし、進めないだろう。健康な人はもうずっと向こうを泳いでいて、焦燥感から水を飲んでしまう。そしてまた息ができない。
 強い病ほど私は好きで、なぜって愛が分かりやすいからだけど、でも、ベルをこのまま私の都合のいい状態で飼うようなことをしていていいのかと、内心いつも問いは止まない。

「死なないから。大丈夫だから。ね、だから今日はもうお休み」

 おやすみ、と言った自分の口がまるで別人のそれのように感じて思わず唇を噛む。分かった振りをするのはもうやめたい。


20140912 h.niwasaki