咲いたばかりの花を踏み潰して笑ったのは誰だっけ。
お砂糖のたりない頭で考える。
ああそうだ、あれは潰れた隣国の王子の片割れ。弟、つまり国の跡継ぎが生まれて突然ほったらかしにされた私の目の前でそうやってから、こっちを向いて「な?」って笑ったんだ。

「こうした方が気が楽じゃん」

そのままぐりぐりと花を土になすりつけていく。
黒い革靴が汚い泥はねに塗れてもその子は気にも止めず、むしろどんどんと夢中になっていくようだった。私は耐え切れずに両目をつぶる。瞼に隠れて私はちいさく悲鳴を掲げてみた。
お花が、かわいそうでしょう。











だから私は今日こそそのひとつの慈愛じみた言葉を口に出そうと一歩彼の前へ進み出る。不機嫌そうな横顔は、既に私の心臓に絡み付けるだけのオーラを充分に放っていた。いちどそこから目を逸らし、また、見据える。息を吸えない。

「やめてあげて頂戴」
「‥なに、お前」

私が私であることを放棄したくなる。この王子に睨まれるといつもそう思って、でも、このままではいけない。安いかもしれないが決して他人には売られない貴族のプライドがそうさせる。私は繰り返す。やめてあげて頂戴。

「やだ」
「何故?そうしたってあなたにいいことなんてないわよ」
「お前に教えてやれるほど簡単なことじゃねーよ、バカはどっかいけ」


でも、とさらに非難を重ねようとした瞬間扉の向こうで甲高い悲鳴が上がった。私はそのときびっくりして思わず振り返ったけど、すぐ隣にいた王子はその綺麗なブロンドに影を落としたままどこか悔しそうにじっと地面を見つめていた。





その表情をなんで克明に覚えていたのかって、誰かの悲鳴の数瞬後、私はそばにいた付人にあっという間に抱えられて、すぐに視界を失ったから。景色がぐるぐると回転するほんの、ほんの少し前に、その前髪の奥にある睫毛とそのまた奥に閉じられた小さな臓器が、こちらを窺いながら二の足を踏んでいたから。





彼は、いらついたような溜息をついて目を閉じる。

「殺す気にもなんねー」

革命派の首長が隊を率いて王宮に乗り込んできたのだった。

それだけの小さな隊でこの国が、この人間たちが目線を変えるはずがない、これまでも何回かあったデジャヴみたいな襲撃が、これまたデジャヴのように沈静化されていく。私はこの茶番を見せられるたび、人の目は、ほんとうは一体どこについていて、どこを向いているのだろうと思う。私だって一体どこを向いているのか。
廊下は汚い血で染まり、ずっと隠してきたことがばれてしまった後のような、一瞬の紅葉が急降下した後のような気怠さを抱えてメイド達がモップを掛けていく。

私は付人の手を無理やり振りほどき、踏みつぶされた花の前でまた立ち止まる。
片割れがいる。
背中のほうで重たげに動くモップの摩擦音が聞こえる。
モップにはきっと、夕暮れの赤が射してる。

私は、片割れが何も言わないから気まずくなるのを恐れて右手に持っていたクッキーの袋を差し出した。「マリーさんが。」子供、に似つかわしくない擦れたような嘲笑が流れてくる。「誰だよそれ」「あたしの家の料理人さん。」「へえ」
しばらくすると、王子はクッキーをひったくってばりばりと食べ始めた。


実のところ、あのとき私はあの王子と仲良くなりたくて、彼の右足がどんなに悪意に満ちていて、どんなに汚れていたって、構わなかった。
だからふと下を向いたとき、お昼頃王子が踏みつぶした花が見えて、私はほぼ無意識にあるひとつを閃いた。その閃きはわたしにとって、夕方のきれいな赤焼けとそう変わらない価値を持っていて、そして、それは、今思えば、早計だった。


「ねえベルくん。わたし、きえちゃいたいんだ。口を開いてもおんなじことばっかり。ねえ、今日みたいにときどきやってきてはすぐに死んでしまうあの男の人たちの口と、私たちの口は、まるで別のことばを話すね。あの口は、まるで体すべてを使って動いているようだね。ねえ?あんなに大声出さないと、自分はここにいるってみんなに気づいてもらえないの?ああいう人たちがお城に来ると、わたしはいつもお付きのひとに隠されてしまうけど、扉越しにきこえるあの人たちのおおきなこえをきくたびに私は怖いと思うよ。怖い。それでも、さいきんは、うらやましいって思うんだ。ここにいるって言える。扉がびりびりするくらいのちからで。」


ぼだぼたぼた、
踏みつぶされた花の、そのまた隣で私は黄色い花を踏む。
ベルはそれに気付いた瞬間、私の腕を遠慮がちにひいたけど、私が気付いてほしいのはそこじゃなかった。今思い返しても言葉にできない、あの身体じゅうから輪郭が失われてほろほろと力を失っていくような、虚しさのような、かなしみ。

頬を伝い顎を伝い首筋に流れていく涙の跡、ベルは腕を引くのをやめて、今度は私の右足を思い切り蹴りとばした。はっ、と短い息が聞こえた。粗い怒りの感情をその息に詰め込んで思い切りとばしたように聞こえて、私は倒れこんだまま振り返ることができなかった。ベルは絞り出すような声でゆっくりと話し始めた。



「胸に手を当てて考えろって言われるんだ。手を当てると心臓がばかみたいにどくどくいい続けてて、それを手のひらで感じるたびに俺は思うんだよ。俺にはほんとは心臓なんてなければよかったんだって。からっぽのままふわふわしてられたらどんなに、」



汚い浮浪者、物乞いの子供、裸足で駆け回るみなしご。
私はその時確信した。彼らは心臓を握ってる。このお砂糖の足りない、そして病人のように白い両足を縛りつける、うわっつらに柔らかな黒い革靴で花を無碍にする私たちはきっとそれを握る握力が足りないんだ。

心臓は逃げる。

私は何かに導かれるように、それでいて必死に拒むように震えて、ゆっくりゆっくりと右手を胸の前に押し当てる。
ああ今日もばかな私の心臓は、握られてもいないくせにいまだ主人を待ってる。まるで下心のある召使いのように。ここにずっといる。

心臓は逃げる。

きっとあの王子の心臓はもうとっくの昔に彼を出て行ったのだ。理由もわからないと語りながらきっとこっそり心の中ではわかってる、ひたひたの自惚れやロマンチシズムからくるこの感情の高ぶりに任せて私はひらひらと泣いていたい。細かに震える私の輪郭を失った砂のような体から、まだ涙を絞れたらの話だけれど。

真っ暗闇から日が昇る、その光はわたしをまっすぐに差し当てて、だけどその光はあの王子が踏みつぶした花のようにやわらかになびきながらわたしを包んだ。

だけどね、

わたしは振り返る。だけどね、光はわたしばっかり差しているわけじゃないから。だって自分の心臓すら握れないやわな生き物に語りかけることなんてないでしょう。


「どんなに、つらくて、それでも、しあわせなんだろうって」



心臓のない朝


20130620 h.niwasaki
(n.niwasaki)