負けてあげましょうか。彼女はスクアーロの腹を突いた体制のまま笑う。にやり。彼女の能力の高さ故か、深くまで刺された短剣はしかし彼の急所を僅かに外れていた。しどどに流れ落ちる赤黒いそれは、この狭い空間をさらに圧迫して呼吸すら危うくする。否、それは単純に、身体が上手いこと機能しないだけなのか。
スクアーロは常に寄せていた眉間を更に深くした。悪くないと思った。しかし、このような状況。俺が今この女に「負けてあげ」られたとして、俺の夢は一体何なんだ?小さな窓から呼吸するように生ぬるい風が吹く。彼の短髪が揺れた。スクアーロは目を閉じる。
「悪くねえ」
「でしょう」
「…何だ?」そろそろ彼の声も掠れて囁き同等のそれになりつつある。彼女は首を傾げた。
「なんだってなにが」
「目的は、何だって言ってんだ」
途端、彼女は心底傷ついたような顔をして剣を思い切り引き抜いた。血と油でてらてらと光る短剣は、あっけなく彼女の左腕から床へと落下していった。「私が勝てば私がテュールと勝負できる。あなたが勝てばその逆。そうよね?私はここまでそりゃあ死にものぐるいで戦ってきたわ。ころしてころしてころしてころしてころして殺して。だけど、あなたを殺せる自信が無いの。負けてあげる。死んであげるわ。だけどひとつだけお願い、」彼女の声は本音から少し、浮いて聞こえた。
自信がない、馬鹿じゃないのか。この世界は自信とか自尊とかそんなもんで出来てないだろう、おかしい、そんな奴は今ここで俺と戦いもせずとっくに死んでいるはずだ。思いながら剣を振り上げる。剣に意志もなく戯れ言など考えているスクアーロ、彼自身にも今意志などないが、彼の中に宿る剣士としての心が彼女を切っていた。
「お願い、……」
お願いなど聞いてやるものか、彼は後にそう言ったが、本音を言えばただ最後の言葉が聞き取れなかっただけの話である。



そして今彼はその真相を知った。
「ボンゴレ独立暗殺部隊ヴァリアー、雨の守護者、スクアーロ。お願いを聞いてくれなかったのね」
姿かたちをそっくり変えた、「彼女」がそこに立っていた。彼はその短剣を見た瞬間、戦慄し、まるでその日が昨日であったかのように、10年以上も前の出来事を思い出した。
「骨まで壊して」
「…」
「骨まで壊して、って言ったの。あなたせっかちだから、聞く前に殺したんでしょう。まあ、みんなそうだったんだけれど」
彼の脳髄を揺らす、声。あの生ぬるい風とともに彼はそこに居た。確かに存在していた。
「あなたで118人目」
「う゛ぉぉい…119人目はいたかあ?」
「残念ながら居ないわ。あなたが剣士をひとり残らず殺すものだから」
彼女がなくした自信は生に対する自信ではなかった。死に対する、自信だ。殺して殺して、きっとその分死ぬのだろう。彼女にとっての死とは何だ?そして俺にとっての生とは?
人は必ず永遠でないものを求める。永遠でないから永遠であれと願うのだろう。彼女は死体のように痩せていた。“生かされている”。生々しい表現がしかし彼女にはぴったりだ。スクアーロは目を伏せてくっくっと笑った。
「面白え。…お前、死ねねえと言ったな。じゃあお前は誰かを殺せるのかぁ?」
彼女は息をのんで、知らないわそんなの、と呟いた。スクアーロは今度は大口を開けて笑った。


♪私は生かされた剣士の骨。119人に殺されてもまだ死ねない。私を哀れに思うなら、どうか私を砕いて頂戴!


「…何でこんなことになるのかしら。私は殺して頂戴と言ったはずよ」
ボスの部屋を出て自室へ向かう、不満たらたらな彼女の表情をちらりと見て、殺したところで利益は上がらないだろうとスクアーロは小言を言った。
「面白えじゃねえかあ、死んでも骨が残ってりゃあ人体を乗っ取れるんだろぉ?それに俺と戦って生きてる奴を暗殺部隊に勧誘せずどうすんだ」
ずっと昔、スクアーロの腹部を突いた短剣は、今も彼女の武器である。彼女はため息をついた、でもそれは今までのかなしい息ではなくて、血の生臭い息でもなくて、ほんのすこしだけ幸せの入った柔らかなため息なのだった。
「120人殺したら、骨まで殺してくれる?」
「知らねえ」
柔らかな契約をなげかけた彼女を軽くかわす振りをしながら彼は、これはきっと決定事項なのだろうと思った。そして俺はこの惚れた女を、気持ちも伝えぬまま殺すのだろうと思った。彼は振り返らなかった。


「『負けてあげましょうか』…」


いや、負けたぜぇ。





20110605 h.庭咲
裸族企画 遅れて申し訳ない!!!

参考:グリム童話『歌う骨』