ここから見えるものすべて


 ここから世界の全てが見渡せるようだ。きらきらと光る街の明かりを見下ろして、私はそう思った。光の一粒一粒は息を吹きかければあっけなく飛んでいきそうな位ちいさく軽く、けなげに瞬いている。
 その光の細かな騒がしさを眺める私の周りには、一転して何もなく、ただつめたいコンクリートの道と、鈍く光る鉄の手すりがあるばかりで、幸せな音など何もなく、遠く遠くから聞こえてくる車のエンジン音が、さざ波のように押し寄せるだけだった。足元は暗い。
 胸の中で、この温かく幸せな小さな光たちと、ひんやりとした暗い空気が混ざり合っていく。高揚感のすぐ後ろでむなしさが息をしているのがわかる。それでも私はこの景色を眺めるのが好きだった。
 自分の心が満足するまでここに留まろうとすればきりがないから、しぶしぶ踵を返して来た道を戻る。一歩一歩と歩くたび、夜中のしんとした空気が頬をかすめてゆらゆらと流れていく。まぶたの裏には、まだ街の明かりがちらちらと浮かんでいた。





 ここには世界が3つある。「この世」と「あの世」と「それ以外」。
 それ以外、の世界は、第三の世界と呼ばれている。この名前を知っているのはもう、私たち以外には誰もいない。
 この世とあの世が繋がっている、なんていうのはよく言われる話で、死んだらあの世に行って生まれ変わるのを待ち、あたらしい命が生まれるとその体に入って何度目かの人生をはじめる。そういうサイクルで、この世とあの世は繋がっている、らしい。
 けれど、第三の世界は、そのサイクルを壊してしまった。だから、もう無かったことになっている。





「ありがとうございます、気をつけて行ってらっしゃいませ」

 月曜日の朝、駅前のコーヒーショップは嘘みたいに人でごった返している。もちろんコーヒーを片手にビジネスマンが向かう先、あの大きなターミナル駅の構内よりはずいぶんとましだと思うけれど。それでもカウンターにずらりと並んだ店員たちが声を張り上げながら嵐のように動き回るさまは、動き回っている私でさえも辟易するくらいせわしない。
 金額に見合わない大きな金額の札をぺらりと出してきた客に少しだけ苛立ちながら、私はおつりの札をいち、に、さん…と数える。頭の中ではもう既にいくら返せばいいのか分からなくなっているけれど、口と手が機械のようにきっちりと9000円を数え終わった。小銭まで渡したところで肩を叩かれる。

「おつかれ。レジ代わるよ」
「ああ、おはようございます」

 とんちんかんな私の返事を特に気にすることもなく、スムーズにレジを変わった先輩はもう次の客のオーダーを聞いている。張り詰めた気分が抜けると同時に、上げ続けてくたくたになった口角がだらんと落ちた。バックルームに入ろうと狭い通路を抜けていくと、奥のカウンターに貼り付けられた注文票が、店の扉が開くたびに風を受けてぴらぴらと揺れているのが見えた。

 そんな怒涛のモーニングタイムが終わって一息つく頃、その人はふらりとやって来る。
 注文が済んだ客を、回復した口角を上げて笑顔で右手へ送ると、次に左手から現れたのが彼だった。きた、とすこし心の中が高揚する。
 その金髪の男は薄く笑みながらカードを差し出した。ラテひとつ。そのあと一呼吸おいて、親しみのこもったような不思議なトーンで「甘くして」とひとこと。
「かしこまりました」
 ほとんど毎日顔をあわせるお得意様だから、彼がカードを差し出す角度や、私の受け取るタイミングも、自然な形でぴたりとかみあって、気持ちがいい。
 この客が注文するものは毎回ころころと変わったけれど、たいてい「甘くして」とか「ミルク多めにして」などと一言付け足された。その調節も手馴れたものだった。
 受け取ったときと同じようにスムーズな手際でカードを返すと、その人はいつものようににこりとしてそのまま右手へと姿を消した。私は振り返って彼の注文を繰り返し、奥のスタッフへ伝える。「甘くして」も忘れずに。


「ねえ、あの常連さんさあ」
 一緒に休憩に入った同僚と連れ立って店から少し歩いた先にあるコンビニに入ると、まだ肌寒い外気を追い払うように生ぬるい空気がやってきた。店内をゆっくり一周してからホット飲料の棚へ向かうと緑茶と紅茶どちらを買うか無意味に迷いながら、これまた無意味な会話を浮かべていく。
「あー、あのハーフっぽい人?」
「ハーフ?ふつうに外国人じゃない?」
「まあどっちでもいいけど、あの人がどうしたの」
 おーいお茶を一度取りかけて少し考えるとまた棚へ戻し、またしばし悩んでほっとレモンに指先をかける。うーん…、と唸っているけれど、選ぶ飲み物を悩んでいるのか、どう喋ろうか悩んでいるのか、どっちだかよくわからない。
「ああそう、それで、あのイケメンお兄さんさあ」数秒無言になったあと、思い出したようにまた口を開いた。どうやら飲み物を悩んでいたらしい。
「うん」
「来月お引っ越ししちゃうんだって」
 え、と少し目を見開くと、彼女はいかにもあなたと同じ気持ちよ、とでもいうように眉を下げて、ほっとレモンを手に取った。私は温かい飲み物が苦手で、3月の今も冷えたオレンジジュースを買おうとしている。アルバイト先でも基本的につめたい飲み物ばかり頼む。
「今日ドリンク渡したの私なんだけど、カウンター越しに、来月引っ越しするからもうここ来れなくなるんだ、って」
「ええー…」
 あはは、ショック?ショックだよね。わたしもモチベーションめっちゃ下がるわー。と笑いながら彼女は私より先にレジへ歩いて行った。追いかけるようにして列に並べば、他のレジはすべてお弁当をあっためたり公共料金を払ったりおでんを取ったりしていて、なかなか空きそうにない。
 レジ列の先頭に突っ立ったまま、左を振り向いて窓の外を眺めた。見るからにカラカラに乾いた空気が色のない日光を巻き込みながらそっけなく吹いていて、道路の向かいにある古い民家の入り口には寒そうに肩をすぼめた宅配のおじさんがインターホンの返事を待っていた。風が撫でるたびぴらぴらとめくれるカーゴパンツのポケットの蓋をみていたら、いつのまにか、一番遠くにあるレジが声を張り上げて先頭の客を呼んでいた。先頭の客とは私だった。あわててそこまで走っていく。
 ショックだって、そんなに簡単に言葉にできるのは、ふつうの人間の特権だって思う。


 休憩を終えて店の表へ戻った。さっきからもう10分くらい来客がない。
 レジカウンターのひきだしは、開店当初は動きも滑らかできれいだったはずなのだけれど、いつからか、ちょっと力を入れてから引かないと開かなくなったり、注意書きのテプラのシールの端がめくれあがったりして、残念なことになってしまっている。空いているテーブルも拭き終わってしまったし、荒れたキッチンも片付けたので、社員でもない私はレジにおとなしく立っているしかない。シールのめくれた部分を手持ち無沙汰に触れながら、店内に流れている、何語かわからないゆったりした音楽を聴いている。
「そうかー…」
 とりあえず何か口に出したくて小さく呟けば、ちょっと自分でも驚いてしまうほどぐったりした声が出て、そのぐったり加減にむしろ笑いそうになった。私はショックなのかな。あの人と一瞬だけ目があったり、あの人のカードを受け取ってリーダーに通したりするだけのことができなくなることが、こんなにぐったりするくらいショックなのだろうか。
 そんなわけないと思う。
 私は人と深く仲良くなるのは苦手だし、だから人の出会いとか別れとかもできるだけ関わりたくない。関わりたくないのに関わらざるを得ない状況に巻き込まれていて不快なだけなのだ、たぶん。
 もう一度何か呟こうとした瞬間、自動ドアが開く音がした。反射的に笑んでいらっしゃいませ、と声を張る。考え事をしていた一秒前の自分をあわてて後ろ手に隠すようにして。


 16時をすこしすぎた。おつかれさまです、と一言声をかけてロッカールームの扉を開けると、先輩がひとり、休憩中だったらしく携帯をいじっていた。私に気がつくと気の抜けたトーンでおつかれー、とふにゃふにゃ笑った。おつかれさまです、と返事をして一番奥のロッカーに鍵を差し込む。
 ふたりだけの狭小空間はどうしても気まずくて、なんとなく昼に聞いたことをそのまま口に出してみた。
「先輩」
「ん?」
「あの金髪の常連さん、来月から来なくなっちゃうんですって」
「…ええなにそれ!?誰情報!?」
「ルミさん。ドリンク渡す時に言われたみたいです」
 エプロンをたたみながら適当な話題として放ったボールは意外と大きかったらしく、先輩はかかえきれない!という顔をしてわたわたとしている。大袈裟ですよ、と笑えば、先輩は傷ついた顔をして、だって、あの人開店した頃からの常連さんじゃない、うちのクルー、みんなあの人のこと好きだったから。なんて、ただただ本当のことを言って、それから、ああー。と脱力しながらロッカーを殴るふりをした。
「ルミはずるい。あの人ぜんぜん自分から喋らない人なのに」
「まるで友達か彼女みたいな言い草ですね」
「そうなれるんならなりたいわよ」

 そうかー。

 今日レジの前でひとりで呟いたあの言葉の質感を思い出す。わたしだって、一応オープンから働いてるのだけれど、そうかー。以外の言葉や態度で彼が去ることに対する気持ちを表すことはできないと思った。やっぱり私はどこかおかしいのだろうか。先輩が残念がるほどに、私は自分の感覚に自信が持てなくなっていって、やっぱり後ろ手に「そうかー。」を隠しながら、一緒に眉を下げてみたりしている。

 働いている間も窓から見えていたから分かっていたけれど、つい1時間前にすこしだけ雨が降っていたようだ。店の前には、雨が降るたびに大きな水溜りができるくぼみがあり、今日もそのくぼみにはたっぷりと雨水が溜められていた。枯葉が一枚その中に沈んでいる。
 水溜りを踏まないように道路の端を歩いていく。幸運なことに雨はすっかり止んでいて、傘なんて持ってきていなかった私はほっと胸をなでおろした。アーケードのメインストリートへと足を踏み入れると、屋根のあるそこは雨の跡すら失せていて、むしろすこし生暖かいような気さえした。
 私は歩みを止めずに、右肩にかけたちいさなトートから、薄い封筒を取り出す。

 私は10年前、あるマフィアのボスに命を救われた。
 名は沢田綱吉という。
 マフィアだし、本当の名前かどうかはわからない。というか、本当にマフィアなのかどうかもわからない。ただの犯罪組織かもしれないし、国家の雇われ者なのかもしれない。
 ただ、私のいた巨大な組織をたった1日で壊滅させるだけの力があったことは確かだ。
 その男とその男が率いる組織に私は救われた。君がこれからしなきゃいけないのは、生きることだ、ただ、きちんと生きることだ。と、沢田さんは言って、それきり会ったことはない。与えられた家と戸籍、銀行口座を頼りに10年もの間、私はただ生きていて、根無し草のような虚しさを抱えながらも、それでも、まともな人間として回復しつつあった。
 そんな沢田さんから、突然手紙が届いたのは、一週間前のことだった。
「大事な話をしなきゃならない」
 君がいた組織に関わる緊急の話なんだ。それだけが書かれたカードほどの大きさの紙と、日時とレストランの名前、その地図が載せられた紙の2つが封筒には入っていた。図らずもその日時と場所はシフトが終わってから向かえばちょうどいい時間に着く場所で、インターネットで調べたそのレストランは引くほどラグジュアリーだったから、手持ちの中で一番きちんとしたワンピースをいそいで取り出してきた。さっき私の格好を見た先輩は「デート?」って聞いてきたけど、ほんとにデートだったら良かった、なんて、ふつうの人は思うのだろうか。

 ネイビーのワンピースを安物のコートでつつんで、これまた毛玉を一生懸命取ってきた大判のストールを首に巻いている。思い切って買ったけどあまり出番のなかったパンプスをとっておいてよかった。膝下だけがこころもとなく寒空にさらされていて、沢田さんに笑われたら嫌だな、と、自分の格好にいまいち自信を持てないままやってきた電車に乗り込んだ。
 車窓から見える景色はそれなりに美しい。大きな公園やきれいな高層マンションや、それらを照らしている夕日のオレンジの光は、まるでこの世に悪意なんて存在していないと言わんばかりにピュアな感じがする。静かに幸福を待つような、受動的でささやかな呼吸をしている。私はその呼吸を感じながら、共鳴するように、ゆっくりと息を吸って、吐いた。それを繰り返した。
 この電車は都会へ向かっている。ここだって十分に都会だけれど、さらなる都心へ向かっている。指定されたレストランは名の知れた高級ホテルの最上階から3つ下の階にあって、きっと景色がきれいだろう。

 最寄駅に着いて、駅から直通らしいそのホテルの改札へ向かう。数十キロと離れていないのに、アルバイト先とここは温度がちょっと違うような気がした。風がないせいだろうか。台風の目、みたいに、都会の中の都会の中の都会の都心、心臓部は、人で溢れかえっているくせに奇妙に静かだ。
 ホテルマンに階数を伝えると柔和に笑ったままボタンを押して乗るよう促される。エレベーターの中にまでロビーと同じ絨毯が敷かれていて、エレベーターとロビーを千切る扉の隙間がむしろ不思議なくらい強調されて見えた。その隙間を踏み越えてエレベーターに乗った。すべるように、扉が横から閉じられる。

 機内は控えめな音量でクラシックが流れていて、さっき乗った人の香りだろうか、シャネルの5番の匂いが漂っていた。一度だけデパートでかいだことがあったけれど、自分の体からこの匂いがしたらきっと変だ、と思って、それ以来香水自体に興味がなくなった。変だと思ったのは、私には釣り合わないと思ったからで、こういう高級なホテルに泊まる人にはしっくりくるのだろうな、と、その香水をまとった人のことを想像した。
 5階まできたところで、急に背中の方の光量が変わった。思わず振り返ると、どうやら5階以上からは後ろがスケルトンになっていて、外の景色を見ることができるらしい。この時間は夕日も暮れきるぎりぎりのところで、街の向こう側だけがうっすらと暖かい色に染まっている。こちら側はもう既に夜をはじめていて、街灯や窓の明かりがぽつりぽつりと白い点を打っている。
 ふと気がついて、のそのそとストールを首から外す。コートも脱いで脇に抱えると、急にこころもとない気持ちになる。自分の意思で来たと思っていたけれど、本当にそうなのだろうか。

 頑丈なエレベーターは揺れもしないし音もしない。急速に動くその動力とは裏腹に、機内はゆったりとした時間が流れている。乗ったときにその途中から流れていたピアノ曲がちょうど終わって二曲目のヴァイオリンが鳴り始めた瞬間、ポーン、と音がした。エレベーターの扉には窓はなく、ぴったりと閉じられた向こう側の景色が、扉の開かれる速度にあわせて私の眼の前にやってくる。
 緊張して、コートをもう一度抱え直す。機内の奥から扉の前まで一歩進んだ瞬間、ふわ、と、扉が開いた。

 目の前に現れた景色よりも、そのまんなかで佇む男を、私はなによりも先に捉えた。

「………お前」
「あれ、…あれ?」

 そこには、沢田綱吉ではなく、アルバイト先の常連さんがいた。
 来月には引っ越してしまうらしい、常連さんがいた。

 彼の方も私の登場が意外だったらしく数秒固まった後、何かが頭の中で繋がったのだろうか、「そーいうこと…」とひとりごちた。私の方は何が何だかわからない。いや、たまたま会っただけだろう。沢田さんもきっと向こうのあたりで私を待っているはず。「当日はチャコールのジャケットの胸ポケットにボルドーのポケットチーフを挿しているから、それを手掛かりに」って言っていたから、少し雰囲気が変わっていたとしてもそういう人を探せばすぐに見つかるはずだ。

「あ、ああ、こんにちは、いつもどうも…」
 とまどった心が口から転がり出ていく。緊張と動揺が同時に襲ってきて目の前がチカチカしてきた。はやく沢田さんを見つけないと。そう思って会釈もそこそこに彼の横を通り過ぎようとした。だけど彼に背を向けた瞬間、肩にかけたトートに違和感を感じた。引っ張られている。
「お前が探してんのさ、多分俺だよ」
 え?という言葉は口に出したのか心の中でつぶやいたのか。振り返れば、無表情の常連さんが次の瞬間にっと笑った。

 ああ確かに、彼はチャコールのジャケットにボルドーのネクタイをして、胸ポケットにはネクタイと同じ色のポケットチーフを挿していた。



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