あれからしばらくベルが顔を見せることはなかった。私が使っているベッド以外はずっと綺麗なままだった。
 ベルが私をアジトに連れてきてからというもの、私は毎日、自分の家には帰らずこの最上階のアジトで生活をしていた。部屋に行ってはいけないくせにアルバイトは特に止められなかったから、ベルが常連でなくなってからもう1ヶ月以上経ってしまった駅前のカフェで、私は相変わらず黙々と働いていた。黒から突然メッセージが届き、なんの確証も保証もなく会いに行ったあの日も、私はこの部屋から向かい、この部屋に帰ってきた。あの日の前日も、翌日も、なんてことない顔をして8時間働いた。それ以外にどんな風に過ごせばいいかわからなかった。とにかく私はあの出来事を全身全霊で他人事にしようと必死だった。

 携帯のアラームで目がさめる。分厚いカーテンの向こうはもう昼に近い朝日が健康的な光を町中に降らしていたけれど、私はここのカーテンを開くことはない。開くなと言われたわけではないけれど、私は、半分寝たままのような体で枕元を探り、リモコンで電灯のスイッチを入れる。昼も夜も変わらず、私はこの薄ぼんやりのオレンジ色の元で生きている。ダンゴムシみたいにきゅっと背を丸めた体勢のまま、目をしぱしぱと忙しく瞬くだけで、しばらくじっとしていた。
 やわらかなブランケットは私の体に滑らかに寄り添って、やわらかな曲線をそこらに描いている。私は背後から、あの日の悲しみや怒りが押し寄せてくるのを感じる。きっと今動いたら、その弾みで彼らは私の自制心を破っていとも簡単に私をつらくさせるだろう。これはかくれんぼみたいなものだ。息を潜めて何も考えないようにしていれば、いづれ鬼はどこかへいってしまうということを、私は経験上よく知っていた。

 背後の気配のせいでぶれていた私の心がすとんとあるべき位置にまで戻ってくると、私は何かの隙間を縫うように体をすっと空気に差し込んで、ベッドから降りる。今日も隠れきった。私は、電灯の照度を2段階あげて、キッチンの方へ歩いていく。





「彼氏、できた」

 両手で頬を挟みながら、2歳くらい若返ったような表情でルミが言った。私はつくりおきの笑顔を取り出してきて、おめでとう、と返事する。実際、嬉しくないわけではないのだ。だってルミがこんなに嬉しそうな顔をしている。そして、そのことをわざわざ私に言おうと思ってくれていたのだ。私は、けれど、嬉しいという感情を感じることができないから、とりあえず、言葉だけは精一杯、嬉しいを表現しておく。その嘘臭さに自分で辟易しながら。

「わあ、おめでとう」
「ありがとー! ユキもはやく次の人見つけなねー」
「はは」

 さらに私は最近、答えを曖昧に濁すことを覚えた。今まで、なにか自分が不快になるようなことも、すべて言語化してしまって、それが余計に自分を傷つけるようなことがあった。それなら答えなければいいと気がついた。私はベルと出会ってから、少し自分本位になったような気がする。それはなんだかとても恥ずかしいことのように思えた。

「大学の先輩なんだ。だからよかったら友達とか、紹介するよ」

 ルミはそう言って、先にロッカールームを出て行く。ぱたん、と軽い音がして扉が閉まるのをとりとめもなく見守りながら、あれ、と思う。私はルミが、私の言葉の周りに漂っている本音に敏感に気がついて、あまり話を広げないまま、けれど言いたいことだけきちんと並べて出て行ったのだ、ということに薄々気が付いた。
 いつもは言いたいことだけどばどばとぶちまけて、そのまますっきりした顔で何処かへ行ってしまうような人だったのに。そんな屈託のない、あっけらかんとしたところもそこまで嫌いではなかったけれど、今日はどこか仄暗い思慮深さが見えたような気がしたのだ。いつも太陽みたいに輪郭もなく光り散らしていたのに、ふと、その奥が影を落として立体感を得た。そういう、とてつもない変化を彼女に感じた。なぜだかそのことが怖くもあり、反面、魅力的にも見える。私はロッカールームの扉に手をかけて、開く。昼下がりの喧騒が少し俯いた私の瞼を撫でる。その喧騒はざりざりと私の表面を傷つける。


 置いていかれる。ますます。


 カウンター裏のキッチンでマグと小さな皿を機械的に水に通しながら、私は思う。置いていかれる、では語弊があるかもしれない。離れていく、といった方が的確だと思いなおして、次はボトルに手を伸ばす。カウンターの側が明るくなるようにと設置された照明の角度のせいで、キッチンには黒い影が落ちる。私は自分の体の動きの通りにゆらゆらと動く影の鈍重な感じに、しばらく慰められている。離れていく、という言葉の質感は、自分が天使だったころ、お客の最寄駅で、ずっと、出口に向かってに歩いていく人の群れを傍観していたときの感覚を思い起こさせた。置いていかれるなら、いつか追いつけるかもしれないけれど、離れていくのなら、枝分かれしたその道は、もう決して交わることのないように思える。置いていかれるときは、置いていく背中が見えるけれど、離れていくときは、突然見えなくなって、振り向いたときにはもう遅いのだ。私も進んでしまっている。黒を追い抜いて、逃げ切ってしまった私みたいに。

 いつもなら、そんなことを考え始めた私を私はばかにして、考えるのをやめさせるけれど、今日ばかりはばかにすることができなかった。私は限界まで傷つき切ってしまっていた。現世をふよふよと泳ぎ続ける亡霊のような心地がした。やっぱり、砂になって消えてしまいたいと思った。消えることができないならせめて、息を殺して生きていきたいと思った。私は胴体を動かすのをやめて、腕先だけで食器に水をかけ続け、それを食洗機に並べ続けた。どんどん自分から現実が剥がれ落ちていくのが分かった。


 季節外れのインフルエンザにかかった学生バイトの穴埋めは、いつもの私の勤務時間より3時間も早く終わった。フリーターは当たり前のように8時間以上働くけれど、大学生は学校が本分で、その合間に3,4時間、ちょこっと働く。本来の穴埋め勤務より1時間と少し長く働いてもまだ5時間しか経っていない。
 ひとりロッカールームでエプロンをたたみながら、私は中学時代に緊急下校があったときのことを思い出す。あのときの、思いもよらぬ地点で車から降ろされたような心もとなさと、それを覆い隠すように広がる非日常のスリルが、体の内側で蘇る。あのときと同じように、私はどこか安全な場所から放り出されたような気持ちでいた。
 あの日、通っていた中学校に爆破予告がされたとかで、お昼休みを待たずして私たちは下校させられた。もちろん保護者の付き添いで。私は、先生が「親が来たら先生に報告してから一緒に帰れよー」と、校庭に集まる私たちに大声で知らせたのを、まるで重大な犯罪でも隠しているような心持ちで聞いていた。もちろんそのとき、私は「東の施設」から逃げてきてまだ2年と経っていなくて、親などいるはずもなかったし、親の代わりとなる人が誰かいるのかどうかすら知らなかった。私は一生帰れないな、と思って、その言葉の滑稽さに笑えたらよかったのだけれど、そんな余裕などない私は無意味に周りを見回して、いるはずもない親を探した。

 店を出ていつものように最寄駅へ歩く。まるで、レールでも引いてあるみたいだと私は思う。できるだけ同じような毎日を過ごすことが、私にとっては大切なことだった。何もしていなくても何かに極端に反応して考え込んでしまう私は、極力新しい考え事の種を増やさないようにすることで正気を保っている。なみなみと水が注がれたコップを、中身がこぼれぬように持ち運ぶみたいに、私はそろそろと、慎重に生きることにしている。でも、そうやってこぼさないようにしているコップの中身に集中するあまり、慎重に生きているくせに毎日どっと疲れ込んで、そうしてたまに、落ちる。些細な世界の変化に、生死の手綱を握られているような心地がする。

 私は、12歳のとき、沢田さんに命を救われて、「しっかり生きろ」と言われた。しっかり生きる、ということの意味が私にはわからないけれど、でも、少なくとも私はしっかり生きていないのだろうなと思う。私はなにもかも失格だった。けれどやっぱり、私は自分以外の外の世界を他人事にする「天使」でいることに慣れていて、それはかつて私を守ったものでもあった。私は特別な生き物であることで、生きる意味を得ていたような気がする。生きる価値があるのだと、思えていたような気がするのだ。


 電車の車窓は暗々としたトンネルの壁をずっと映しっぱなしにしている。私は窓ガラス越しに映る自分の顔を見つめながら、あのとき結局どうしたんだっけ、と思う。誰か迎えに来てくれたんだっけ。それとも、何か適当に言い訳をしてひとりで帰ったんだっけ。いくら思い出そうとしても、途中で景色はふっと途切れていく。表情を捨ててきたみたいな私の顔が目の前にある。横から現れた駅名の看板には、自宅の最寄駅の名前が書かれている。

 そうしてぼんやりしながら電車を降りた途端、急に右手に持ったままだった携帯の画面がつく。通知をオンにしているのは電話機能だけで、画面に表示されたのは、ただ唯一アドレス帳に登録されたあの人、ではなかった。私は数ヶ月ぶりに見た着信画面に、半ば反射的にベルのことを期待したけれど、私の人生のいつもの通り、外の世界は身勝手だった。私は知らない番号を、一度無視した。通話に出ないまま画面をじっと見ていたら、10秒くらいして画面は消えた。
 二度目の着信はすぐに来た。三度目も、四度目も、画面が消えてから数秒と経たずに来た。私は何か良からぬことが起きているような予感がした。エスカレーターを上がり、改札を出る手前で、私は五度目の着信に応答する。




- 14 -


[*前] | [次#]
ページ:



- ナノ -