わたしの体が確かな輪郭を持ちはじめていた。そう気がついたのはある秋口の朝、いつものように「交信」をしているときだった。染み入るように、胸の真ん中で、静電気のようなうごめく何かがかたちを持って、わたしの呼吸に共鳴している。その、わたしの一番、ひとに知られていない、一番守られた場所から、不思議な声を聞いたような気がした。
まるで冬の木々が、その枝にしんしんと降り積もった雪を、しならせて床へ滑り落とすみたいに、ばさりと、何かが変わった。わたしはそれに気がついた瞬間、もうずいぶん前に映像で見た、海老の脱皮を思い出す。かたくなった衣を脱いで、やわらかで新しい体が花開くように膨らむ。内側からの声はこう言っているように聞こえた。「わたしはわたしを生きたい」。
嫌な夢の続きを見ているようだと思った。黒が現れてからというもの、わたしはこの施設の輪の中からすこしずれてしまったように居心地が悪くなった。そしてその居心地の悪さは、日に日に増していくのだった。番号時計も、今までは腕にしっくりなじんでぴったりとくっついていたはずなのに、今手にとってベルトを締めると、どんなに微調整したってへんな跡がついたりやたらと重く感じたりする。
わたしは梯子を下りてワンピースを手に取る。丸襟のやわらかなそれをかぶって着ると、ふわりと花の香りがする。
「おはよう」
「おはよう」
もう個室部屋の出入り口は混まない。この施設にいる天使は100人から10人程度に減ってしまった。梔もどこかへ行ってしまった。黒の言う通りだった。知らされてはいないけれど、きっと梔たちはどこか別の新しい施設に飛ばされてしまったのだろう。そんな確証のないことをまるで確証のあることのように決めつけて悲しくなるわたしを、わたしはじっと、半信半疑で見つめている。
「おはよう、ターコイズ」
ゲートを抜けて大広間へ出る。今日も仕事がある。わたしはいつも通りお客のデータを受け取って、待機するためにロビーの方へ足を向けた。そのとき思い出したように声がかかる。
「ねえターコイズ」
振り返ると、副所長さんがデータの転送機をポケットにしまいながらこちらを見ている。目があった。
「はい」
「毎朝さ、なにしてるの?」
具体的な考えがまとまるよりも先に全身がどくんと脈を打った。視界にノイズが入るようにうまく見えなくなって、え、と小さな声が自然と漏れる以外に何も答えることができない。毎朝と言われて思いつくことは一つだけだった。
どうして知っているんだろう。
「いやさ、毎朝なんか、お祈りみたいなのしてるじゃない。あれなんなのかなって」
「えっと」
「あ、ごめんね。怒ってるわけじゃないんだよ。ただ」
「…」
「何か嫌なことでもあったのかなと思って」
その言葉を聞いた途端に緊張していた体がほんの少しだけ楽になった。責められると思っていた。ただ心の中では、自分の「交信」がまったく秘密の行為ではなかったことを知らされてひどく傷ついている。わたしは別に悪いことをしたわけでもないくせに、言い訳のようなことを言う。
「ふ、副所長さんから、「交信」の話を聞いたので、それが面白い話だったので、まねしました」
「交信?」
副所長さんは自分の言ったことを覚えていないみたいだった。わたしは心底がっかりする。
「星、があって、それに何かを送ることができて、見えないものなら送れるって言ってました」
「なにそれ」
わたしのことを心配して声をかけてきたはずなのに、彼はわたしをばかにしたように笑った。説明が下手くそなのは自分でもわかっていたけれど、普段の彼は、わたしのそのつたない言葉から、わたしの言いたいことをしっかりと見つけ出して、わたしを安心させてくれる人のはずだった。わたしは追い打ちをかけられるようにしっかりと傷ついた。涙がじんわりと目のふちに現れる。
「ああごめん、ごめん。でもまあ悩んでるんじゃないならいいや。今日も頑張ってね」
わたしは返事をすることができなかった。そのまま副所長さんは踵を返して向こうへ行ってしまった。
今のは一体何だったんだろう。わたしは彼が扉を閉めて行ってしまった後、ひとりで突っ立って呆然とした。わたしは、なんだかよくわからないまま刃物で切りつけられたような気分だった。このまま放っておけば、傷口は塞がってくれるだろうか。だらりと降ろした両腕の、左腕だけが、番号時計をくっつけて、やはり重たい。わたしの秘密はまるっきり秘密ではなかったのだ。わたしは急速に不安になっていく。それでは黒の話を信じている、わたしの心の中までも、もしかしたら彼らには、はっきりと見えているんじゃないだろうか? 監視カメラの映像をモニターで見るように、片手間に、早送りしたり巻き戻ししたり、見たいところで止めたり、して。わたしは彼らがそうしてわたしの心の柔らかいところを不躾に触って、好き勝手な感想を言い合う様を想像してつらくなった。さっきのようにばかにして笑うのだろうか。誰もいなくなった大広間に、わたしの想像だけが満たされた。
*
ピィ、ピィ、と小鳥のか細い声のようなアラームが鳴って、わたしは立ち上がった。駅のゲートを通って今日もお迎えへ行く。
あれから数ヶ月、黒には会っていない。どうしたのだろうと思っていたが、もしかしたら、殺されてしまったのかもしれないと思う。ありえない話ではなかった。
あまりそういう最悪の事態は考えないようにと頑張っていたけれど、今日のわたしの気分ではそんなことですら簡単に想像できてしまう。あの人たちならやりかねない、という言葉が頭に浮かんだ。
何度も何度も、あのときの副所長さんの「なにそれ」という台詞とばかにしたような笑いと表情が頭の中でぐるぐると回った。それを振り払うように顔の前で手を振ると、不思議とすこし気がまぎれた。何度かその振り払いをしながら、電車に乗り込む。
今日の車両はどこも座席が空いていなくて、仕方なくドア付近の手すりのようなものに捕まった。銀色のそれは触れるとひんやりしていて、秋に入ったこの時期には冷たすぎるように感じた。
がたん、ごとん、と身を任せながらわたしはなすがまま運ばれていく。今日のお客が乗ってくる駅はあと3つ先にある。それまでわたしは必死に吊り広告や周りの乗客を視界に入れていく。ぼうっとしたら、また彼の表情が浮かんでくるに違いなかった。
わたしの目の前でたくさんの人が電車に乗り、そして降りていった。
わたしは誰にも気がつかれることなく、でも、わたしは誰もをじっと見ていた。
わたしは天使だった。
わたしは特別だった。
だから、大丈夫だと思った。わたしが特別でいるうちはなにがあっても大丈夫だと思った。
人間たちが何を考えているのか、わたしにはわからなかった。でも、わたしは人間ではないから別にわからなくても平気なのだ。
そう思っていたかった。
でも、わたしは、こっそりと、寂しいと思っていた。
わたしは自分が特別であることに縋って見ないふりをしてきた。
わたしは特別じゃないのかもしれない。
わたしが特別じゃなかったら、わたしには何が残るんだろう?
特別じゃないんだったらわたしはなんなんだろう?
目の前の扉が開いて、人が降りていく。
わたしはその人たちについていって、もうどこかへ行ってしまいたいと思った。まぎれて、いつのまにか、消えてしまっていたいと思った。
でもわたしにはそんなことできるはずがなかった。したこともないし、自分の気持ちを尊重できるほど自分のことを信じてもいなかった。
番号時計には1と記されている。次の駅で降りるのがわたしの決められた未来だった。
*
その未来は数少ない選択肢の中で最良のものと思われた。黒がいたのだった。
わたしはお客の乗った車両の端っこに立ってぼんやりとしながら、死神を待っていたのだけれど、すうっと扉を抜けてやってきたその男が黒であることにすぐ気がついて、わあ、と声を漏らして駆け寄った。
「黒だ」
黒は前会ったときと同じように、黒々と冷めた目をしながら、でも快活そうな表情をしている。
「久しぶり。待たせたね」
その言葉を聞いて、わたしはずっと彼を待っていたのだと思った。
「待ってた」
「うん。今日にしようと思うんだ」
「…逃げるのを?」
「そう」
急すぎるような気もするし、今日が最適であるような気もした。ただ、どちらにせよ、わたしに選択肢はなかった。いつものように、ただ、従うだけだとわかっていた。
「この区間じゃないとだめだったんだ」
「どうして?」
「それは逃げ切ったあとに話そう」
わたしは、自分のはやった身振りをどこか他人事のように感じている。
「ターコイズ」
「なに?」
「君はさ」
電車が速度を緩め始める。少し横に揺られて、ふらりとする。
「俺の話を本当に信じてるの?」
わたしは見つめていた黒の顔を、もっとよく見つめた。針の先を片目でじっと追うように、意識を集中させて。
「信じてるよ」
そう言いながら、わたしは、信じるってどういうことなのか、まだはっきりとは分からずにいる。きっとそのときのわたしは、信じるということと、よりかかるということを、うまく判別できずにいた。
「うん。それなら、いいんだ」
いつもより落ち着いたような声で黒はそれだけ言うと、ふいと扉の方を向く。番号時計はお客が近くにいるときの、緑のランプがゆっくり点滅している。わたしは以前言われた通り、番号時計のベルトに指先をかける。金具からゆっくり、ゆっくり、外していく。まるで儀式みたいに大切なそぶりで。列車はどんどん速度を落としていく。わたしは、これからとんでもないことをするのだと分かっていた。今まであのベッドの上でしか外さなかった番号時計は、ひとたび穴を抜いてしまえばするりと外れて、わたしはほっとしながらも同時にがっかりする。左手首に、すかすかと空気が触れて、電車が、止まった。
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