ラッシュ。


足のつかない交通機関で来い、そう言われて咄嗟に思い浮かんだのはバスと電車だった。 私はただいま朝6時、満員御礼の車両に大人しく収まっている。まったく日本の電車ときたらなんでこんなにきっつきつなのか。ため息をついたら目の前の座席で競馬新聞を読んでいたおっさんに睨まれた。みんなだってため息つきたいんだから我慢せい、といったところか。ため息でもなんでも好きなようにつきゃいいじゃないか。そう思ったがおっさんに怒鳴られたくないのでしぶしぶ黙る。不満だ。そして私の右隣、平然とスマホをいじくっている金髪野郎は私の比ではない人数に睨まれている。右からとめどなくロック。流石に暗殺部隊といったところか、どんなに電車が揺れても一歩も動かないところだけは安心要素である。と、ロックが終わったところで女声が僅かに聞こえる。このまえ私が勧めた曲だ。なんとなく恥ずかしくなって注意できなくなった。あー。

一駅分見過ごしたところで私のストレスレベルが恥ずかしさを超えた。閉じていた目を開けてしばらく思案して、やっぱり言おうと口を開いた。
「ベル」
どんなに大音量で曲を聴いていようが幹部は隊員の声を判別できる。ベルは非常に怠そうな顔をしてこちらを向いた。睨みは遂に私にまで降り掛かる。ああもう。







「任務いくとき起こして」
待機場所、用意されていたホテルで今日の打ち合わせを始めて10分。さすがに電車で3時間はまずったか。でも日本でヘリとばしたりリムジンとばしたりなんて出来ないからこれはもともと予測できたはずであって…。なんてこの悪魔には通用しないのだ。分かっている。返事すら待たずに寝息をたて始めた隊長にもし文句が言えたなら、私はこんなに苦労していない。このホテルだけですでに3本目に突入した、日本製の不味い煙草を灰皿に思い切り押し付けた。ああくそ。この国は煙草大国のくせに煙草が不味い。いや、それは私の内的なイライラフィルターを通したためなのかもしれない…、そんなことを考えるうちだんだん自虐的になってきた。瞳をにごらせ視界をふやふやにしながらながらも嫌々書類に目を通す。これだって本来隊長の仕事なのだ。
ああこれで隊長に片思い中って一体どういうことだ。こき使われているだけで私たちを囲む雰囲気に変化なんて一向に現われやしないし、たぶん一生現れないままどっかで犬死とかするんだろうなあ、私。今じわじわと浮かんでいる涙の原因は疲労とか良心とかのありがちな理由ではないんだろう。


「隊長、任務です」
「あー」
「早くしてください」
「お前女だよな、もうちょっと可愛く起こせよアホ」
「隊長、性差別って言葉知ってますか」
「しね」
「死にません」






「おい」
コンマ1秒、振り返る金髪が視界の端でぶわっと揺れた。男のくせにいい匂いがした。ああくそ、と心の中で毒づきながら痺れる右手を睨み付けた。血が目に入ってよく見えない。口の中であの不味かった煙草と汚い血が混ざる。
鈍痛、のちの激痛。
予想通りじゃないか私はここで犬死する運命だったんだどうせ隊長は私のことなんか使いやすいパシリとしか思ってなかっただろうし実際そういう振る舞いしかしてこなかった私も反省するべきだったんだよあきらめろ私これで私のアホみてえな人生は終わりだ畜生来世は暗殺なんてやらないで普通の仕事してそれなりのイケメンと結婚できればいいよベル隊長くらいかっこよくなくても強くなくてもいいよもういいよ高望みしないから

「、くっそ面倒くせ…」
高望みしないからもっとやさしい人を好きにさせてください

「…」
それで私はもっと幸せに生きたいですでもほんとうに隊長が好きだったんだほんとうに

「…バカじゃねーの」





真っ赤な景色のあとに目の前に広がった色は真っ白。むせ返るほど清潔の二文字。意識が覚醒したと自覚した瞬間になんとなくぼわーんと絶望に似た感情が私を支配した。死んだんだと思っていたにもかかわらず平然と生きてしまっている私の生命力に絶望したのと同時、敵に囮として生かされているパターンと隊長が私を助けてくれていたパターンを想像して、想像したにもかかわらず後者のことばかり考えてしまってにやにやしそうになる私のピンクがぐるぐると混ざって「ぼわーんとした絶望に似た感情」になったのだ。まったく恥ずかしい限りだと、私のことを離れたところでじっと見ている私が言った。要するに意識混濁ということだった。

「おい」
「!、」
「呼吸器付いてんだろ動いてんじゃねーよバカ」

動いてんじゃねえと言いながらスパーンと私の頭を叩いた隊長。その瞬間、後者のパターンが正しかったのだということが判明した。私の中のピンクがふわふわと指先の辺りをくすぐる。叩かれたのに嬉しいだなんてほんとうに私は彼に調教されている。しかたない、惚れた弱みというものだ。敵地でガスを吸ったのか、イガイガして気持ち悪い喉を鳴らして笑うと、今度は「しね」とげんこつを食らう。ああどうしよう、暴力を振るわれているだけなのにすごく幸せだ。

私のこめかみを殴った右手がゆっくりと額に降りてきた。前髪でも鷲づかみにされるのかと思って目をつぶる。

「ばーか」

それを皮切りに隊長は、「カス」「しね」「馬鹿野郎」「クズ」「アホ」と、中学生の悪口みたいな単語を羅列し、それらを全て言い終えてしまうと黙りこんだ。がしがしと前髪を梳かれて前が見えない。
「…隊長?」









「ほんと心配かけてんじゃねーよ…」

ほんとうにほんとうに小さな声だった。え?と聞き返してもこの悪魔は答えない。きっと私に言ったというより独り言だからほっとけということなんだろう。私はこの3年、ずっとずっとずっと隊長のそばにいたからこれくらいのことは分かる。だって私は隊長のことが、

「すきです、隊長」
「知ってる」
「すきです」
「知ってる」
「だいすきです」
「知ってるよ」
「それなら前髪くしゃくしゃにしないでください」
「してねえし」
「してます、隊長」







足のつかない交通機関で来い、そう言われていたのに結局本部からのヘリで帰ってきてしまった。これじゃ行きに頑張ってラッシュを潜り抜けた努力が水の泡だ。だけど。…私は、右からのとめどないロックを聴いた朝をふわりふわりと思い出していた。競馬新聞の黄色文字、空の青、日の光は白くて、窓にうっすら映った私は黒かった。隣のおばさんはショッキングピンクのスーツを濃いグレーのコートで覆っていた。そして右からとめどなくロック。とめどないロック。ベッドでまだ呼吸器をつけられながら私はそのあとの女性ヴォーカルを聴いた。

ああ、そういえばあのとき、隊長は笑っていた。



20120227 h.niwasaki