私はあのとき、確かに光をみた。




「んー」
 から、ころ、から、と軽くて儚い音がする。そちらの方へ目を向けると、ベルさんがカラフルな赤ん坊用のおもちゃを机の上で転がして遊んでいるのが見えた。
「いいよ別に。決まったの?」
 次のお仕事。そう言って、おもちゃを転がしていた右手をグラスにやって、すっと持ち上げる。私はいつものように笑顔で取り繕って、はい、昼のちゃんとした仕事です。と答えた。
「まるでここの仕事がちゃんとしてないみたいじゃん」
「いや、そういうことじゃなくて」
「しし、冗談。よかったね。この仕事って階段を駆け上がるみたいに何もかもすぐに手に入るけどさ、転がり落ちるのも早いから」
 ベルさんは良い人だ。良い人だなんて言葉が陳腐に感じるほど、底抜けに良い人なのだった。なんの身分証明もない未成年の私を拾ってくれた上に、夜の世界での身の振り方も教えてくれた。生活の保障は何でもしてくれた。半分は親みたいなものだった。だから、この仕事を辞めるというのは私にとってすごく勇気がいったし、相当な覚悟と理由が必要なことだった。
「転がり落ちる」
 私は人から聞いた言葉を咀嚼するために、よく言葉を繰り返して呟く癖がある。転がり落ちる。ベルさんは何をさして、いや、誰を指してそう言ったのだろうと思った。わかっている。きっとあの人のことなんだろうな、と思いながら、でも絶対に口には出さないと決める。
「ん。お前は今頂上にいるけど、俺の予想だときっと半年もすれば下り坂が来るとこだと思ってたんだよね」
 ベルさんはいやに正直で、そこが嫌いだという人もけっこう多かった。下り坂、と言いながら空いている左手の人差し指を下に向ける。
「星は燃え尽きる前に一番輝くって言うじゃん」
「そうなんですか」
「うん」
 それからベルさんは何も言わずに、ぐっとグラスを傾けて、生ぬるそうな緑茶を飲み干した。




 私はあのとき、確かに光をみた。
 それはただ光っているのではなかった。私にだけ、向けられた光だった。




 私はベルさんの本当の姿を知っていた。
 ベルさんは殺し屋なのだった。なんで知っているかって、私の両親を殺したのが彼だったからなのだ。
 ベルさんはそのことを知らないと思う。なぜかって、ベルさんはそのとき、私の両親だけでなく、他にももっと沢山の人間をいっぺんにまとめて殺し尽くしていたから。研究者をしていた両親は、期間限定である組織の大規模な新薬開発プロジェクトに参画していた。いや、させられていた。事を急いていたあるマフィアが、資金をばらまいて、国中の優秀な研究者をかき集めていたのだった。そのリストに私の両親が載っていたというだけのこと。それだけのことだった。研究が終了し、あとは生産体制をどうするかという話まできていたある春の日だった。私の両親は帰ってこなかった。部活から帰ってきて、誰もいない夜中の真っ暗なリビングで、私はまず母の携帯に電話をかけ、父の携帯に電話をかけ、それを5往復したのち、研究所のHPを検索しそこに載っていた電話番号に電話をかけた。春はまだ、夜になると冷え込む。足元からひたひたと迫ってくる冷えが、ただの寒さなのか、それとも、最悪の状況を想像してしまった自分が生み出した幻の寒気なのか、私にはわからなかった。

 自殺の方法を思いつく順番に試した。確か順番は、首吊り、練炭、入水、リストカット。最後に電車に飛び込もうとして、近くのおじさんに止められてしまった。なんだか全部うまくいかなかった。苦しくて苦しくて、でも、死を意識するほど苦しいところまでいけなかった。駅員室で警察の人に事情を聞かれて、私はそのまま入院した。死ねないならもういっそ、亡霊のように成仏を待つだけの生き物になろうと思った。

 だから、あれは、ある意味では「成仏」だったのかもしれないと、今振り返ってみて思う。あの瞬間、私の中のあらゆる感情が洗い直されて、煩雑にちらかっていた五感が、まるで目指す場所を知っている渡り鳥のように、ひとつの方向をむいてぴんと揃った。あなたのために生きたいと思った。いや、もう既に、あなたのために生きていると思ったのだ。









 当時、私は小さな探偵事務所で受付兼助手のような仕事をしていた。それはそれは薄給な仕事だったけれど、親戚のつてで簡単な事務作業を頼まれた流れのままそこで仕事を続けていた。探偵、なんて、まるでドラマの中にしか存在していないような職業の人の下で仕事をするのは、正直少し浮き足立ったし、実際、そのときの私を生かしていたのは「探偵事務所で仕事をしている私」というすかすかな優越感のみだった。そこの社長はとても気が弱いくせに浮気現場の証拠をつかむのが人一倍早くて、もう還暦近いというのに浮気調査だけは彼がずっと現場に出ていた。もう一人いた探偵は、そこそこ名の知れた大企業の営業マンを自ら辞めてここに来たという、愛想だけは人一倍いい、変わり者の男で、浮気以外の、例えば家出人探しとか、自治会のいざこざの犯人探しとか、そういうたまに来る依頼をぽつぽつとこなしていた。

 ベルさんは3番目の客だった。探偵事務所で仕事を始めて3年が経った頃、突然社長に「君もそろそろ1人前に」とか何とか言われて、社長の受けた仕事が回ってくるようになった。この事務所を紹介したのを最後に、ぱったりと連絡が取れなくなった親戚たちとの関係を察してか、社長は私が一人でも生きていけるようにと気に掛けてくれていたのかもしれない。朝の11時に来店したベルさんは、出した緑茶を一口飲んで、開口一番こう言った。

「おねーさん、うち来ない?」

 私は愛想笑いと困惑の表情を混ぜたような変な状態でおずおずと立ち上がり、あの、すみません、ここ探偵事務所なんで、と小声で言った。今思い出すとそのときの自分の挙動不審さがありありと蘇り、恥ずかしさのあまり消えたくなるくらいに妙な態度で私はしばし立ち尽くしていた。たぶん、嬉しかったのだと思う。ベルさんは当時からすごくかっこよかったし、声も仕草も最上級に整っている。怒りが湧き上がらなかったのも、気持ち悪さを感じなかったのも、変な顔のまま固まってしまったのも、きっとベルさんの佇まいが圧倒的だったからなんだろうなと思っている。

 だってさあ、とお尻のポケットから何かを取り出しながら、ベルさんは立ち上がった私をちらっと見上げた。

「俺の依頼、いま解決しちゃったんだよね」
「…え?」
「欲しかったの。お店の子。でも繁華街うろついて見つかるようなタイプの子は要らないから」

 薄いノートのような革製の二つ折り財布から出てきたのはプラチナカードだった。

「カードで払える?」

 その声を、私は今でもはっきりと思い出せる。
 いつもうっすらとふざけたような声しか出さないベルさんが、唯一、どこまでいってもすっきりと突き抜けるような、真剣な声で言った、ただ一つの言葉だ。




 暗くてあたたかい小さな部屋で、訥々と溢れる言葉を拾う。ベルさんが繁華街の突き当たり、小道を入ったどん詰まりの古いビルで営んでいたのはそんな商売だった。てっきりいかがわしいお店に連れて行かれるのかと思っていた私は拍子抜けし、そのすぐあと、いやいや、逆に想像よりもっと悪いことが起きるんじゃないかと急速に不安になった。古いエレベーターがなかなか降りてこないので、ベルさんの後ろをついて階段で3階まで上がった。傾斜のきついその階段は、東のほうにだけ採光窓がついていて、もう昼下がりの時間帯ではぼやぼやとしか明るくなってくれない。と、と、と、と靴底が丁寧に階段を踏んでいく音を目の前で聞きながら、私はなぜ、彼についてきてしまったのか、まだはっきりとは自覚せずにいた。
 貯金は底をついてもう半年以上が経ち、けれど、探偵業以外に仕事を掛け持ちできるかといえば無理な話だった。できるとすれば、空いている、夜。何度か夜の仕事を携帯で検索するところまではいった。正直、通帳が黒字であっても心は大赤字を上乗せに上乗せていたから、このままの状態を続けていたいとは思わなかった。それでも、私は、どうしても、自分の体や容姿に価値をつけて売り込むほどなりふり構わない状態にはなれなかった。ギリギリになったとき初めて、ギリギリでもできることとできないことがあるんだ、ということを知った。何をやっても死ねなかったように、追い詰められても、体を売れる人間と売れない人間がいる。どちらがいいのかなんて、今でも分からないけれど、とにかく私は孤独になって、心がつぶれて、将来も暗闇に飛び込むような心地で、いつも全身を隙間風が通り抜けるような状態になっていたのに、両親の死を知ったリビングの真ん中で、ただ膝を抱えていることしかできなかった。
 私はついにお金に目がくらんだのだろうか? きっとそういうことじゃない。もちろんお金は欲しいに決まっていたけれど、その気持ちをはるかに超えて、このままじわじわと、今度こそ死んでしまおうと思う気持ちがいつも勝っていた。ではなぜ? 私にもわからない。このときまでは、まだ、私にもわからなかった。


 ベルさんはあの日、この古いビルの雑多な感じとは懸け離れた、かなり格式張った契約書を何種類か私に渡して、ひとつ部屋が空いているからそこで話そう、と言った。
 お店は4階と5階にそれぞれ3部屋ずつあり、私を含めて5人が嬢として働いていた。当時、単純に考えれば空き部屋は2つあったわけだけれど、のちに他の嬢から聞いた話によれば、そこは「永久欠番」の部屋なのだそうだ。
 5階まで、また、階段をぐるりと上って、Eと書かれた部屋に入った。

 私は体を売るほどなりふり構うことはできなかったくせに、この日ベルさんと、突如、体の関係を持った。ベルさんは終始傷ついたような、泣きそうな顔をしていて、でも、もうそんな表情がどんなものだったかはほとんど思い出すことができない。ベルさんがそんな顔をしたのはあれが最初で最後だったから。それでもひとつだけ、強烈に覚えていることがある。ベルさんの右肩と首のあいだに唇が触れた瞬間、私は誇張でなく、世界の全てがわかったような気がしたのだった。自分の感じてきた気持ちや五感すべてがひとつの大きな雫になって、はじめて地面に叩きつけられ、球体をはじけさせ、離散して、この世がいかに広く、そしてその広い世界はいかに、見渡す限りほとんどコピーアンドペーストされた似たり寄ったりのつまらないものであるのかということを嗅ぎ取ってしまった。ふつうは、初めて人と抱き合うとき、世界が輝いて見えるのだろう。私の場合は逆だった。いきなり五感が冷めていき、ぶれない代わりに表情を失った。でもそれは、私にとって、かなり純度の高い希望のように感じられた。
 その次の日、昨日登った階段を降りて家に帰った。と、と、と、と一段一段降りていく自分の足音だけを聞いていた。4階から3階の踊り場へ下る階段のちょうど真ん中のあたりで、自分の足元が朝日に照らされているのに気がついて顔を上げると、その瞬間、高く澄んだ音が響いたみたいに、私の体の中心を純度100%の光が貫いた。昇りたての太陽が、私だけを見ているような気がした。その青い眩しさからしばらく目をそらすことができなかった。太陽の形がくっきりと丸く空の上に輪郭を現して、静かにこちらを向いていた。昨夜からずっと離散したままだった五感が、離散したときの無残な形のまま寄り集まって、昨日までとはまったく違う新しい形をつくりはじめているのがわかった。冷たいコンクリートの階段の上に立ち尽くしたままの私は、そのとき初めて、自分は生きていていいのだ、許されているのだ、と、思った。


 あれから一ヶ月もしないうちに、私はもう既に探偵事務所を辞めてベルさんの店で仕事を始めた。この店のことを簡単に説明するとしたら、すごく陰気なキャバクラみたいなものだ。私たち嬢は小さな部屋で客を待ち、ひとり、客が入ってくると扉を閉めて、ちいさな光がひとつ灯るテーブルを挟んで静かにお酒を飲んだ。私たちは喋らない。けれど、それはずっと沈黙を貫くのとは違う。ちょうどよく相槌をうったり、質問をしたり、笑ったり、泣いたり。それをまるで空気のように、彼らの言葉のあいだに差し挟んでいく。餅つきの、こねる役のようなものだと思った。彼らの気持ちがきちんと全方位、バランスよく触れられるように、私たちは全身を使って言葉をこねている。
 部屋の中はとてもあたたかい。汗をかく一歩手前くらいの、ほんのり頬が上気するような温度を保っているから、少しのお酒で簡単に酔えてしまう。ここに来るお客がそうなのか、ここに来ると誰でもそうなってしまうのかは分からないけれど、彼らはとても落ち着いた、小さい声で話す。声色は固かったり宙を浮いていたりと色々あるけれど、音量はすべて調整されたように同じで、だから、私のほうも落ち着いて言葉をこねることができた。
 常連の客ともなれば、こちらから尋ねずとも職業や地位はある程度分かってしまう。彼らは軒並み高給取りで、いつも、こちらが差し出している行為に見合うわけのない額を払っていった。ベルさんが探偵事務所にやってきた日、仕事内容と給与を聞かされても正直信じられなかった。そんなことでこんな額をもらえるはずがないと思った。けれど現実は、すべてベルさんの言った通りだった。私は新人で、かつ指名などほとんどされない地味な状態であっても、かなり余裕のある生活を営むことができた。朝、タクシーで自宅まで帰る道中、爽やかな空気の中を滑っていく何羽ものスズメを見ながら、助かった、とだけ、心の中でつぶやいた。


「今日は?」
「今日は、特別話したいことがあるわけじゃないんだ」
「うん」
「でもなんだか今日は変で」
「…」
「いつもぐったり疲れてくると、いろんな場所がちりちり痺れるんだよね。わかる?」
「指先とか?」
「そう。それで、全身がぞわぞわしててさ。疲れてるだけのはずなのに、頭のなかで、自分が『寂しい、寂しい』って言ってるんだよ」
「あらまあ」
「不思議だよね」
「それはとっても不思議ね」
「俺が思うに、『寂しい』って、思うことが多すぎて、どんなマイナスな気持ちにもすべて『寂しい』ってラベルが貼られちゃってるんじゃないかな」
「あなたの頭のなかで?」
「そう。腹が減ってても、上司や部下にイラついてても、体調がすぐれなくても、朝起きたときにひどく寒くても。全部、寂しいなって言葉になる」
「…」
「…」
「今、寂しい?」
「いいや」
「じゃあ、どんな気持ちなんだろう」
「…」
「…」
「…ほっとしてるかな。ああ、ここがあってよかった。君がいてよかった。こうして話せてよかった、って、思ってる」
「遭難して、誰かに見つけてもらったときみたいな?」
「そうかな。遭難したことなんてないけど、たぶんそんな感じだよ」
「心が遭難」
「はは。間違っちゃいない」








 あれ以降、私がベルさんの体に触ることはもう一度もなかった。あの日のことがただただ、夢だったんじゃないかと思うくらい、ベルさんは私を「親しい、ただの従業員」として扱った。私は、当たり前のことかもしれないけれど、あの日からずっと、ベルさんに執着していた。自分の視線に質量があるんじゃないかと思うくらいベルさんをしっかりくっきり見つめていた。あの日のことが夢だったと思えたらよかった。けれど、私はもう別の私になってしまっていて、私を変えたきっかけは、紛れもなく、あの夜とあの朝に起きたことすべてのせいだった。私はいつまでもあの光を忘れることができない。私にだけ向かって差しのべられた光の粒が、今も私の心臓を覆ってあたたかく光り続けている。きっとこの光を忘れたら、それが私の死を意味する。私は助けられたと同時に、生の裏側にある死をぐっと引き寄せた。バイクのアクセルを全開にして夜道を駆け抜けるように、ああ死にたい、と思いながら、ああ生きたい、と叫んでいた。


 ベルさんはジルという偽名で仕事をしていた。私が本当の名前を知っていることは秘密だった。

「ジルさん」
「ん?」
「Bの部屋の子、最近元気ないですよ」
「ああ、シオリ。客が2人連続で死んだんだよね」
「自殺?」
「そ。自殺。お前もわかってきたね」
「もうすぐクリスマスだから」
「年の瀬も近いしね。死に時なんじゃない」
 ベルさんは殺し屋だからか、「死に時」を「掻き入れ時」と同じトーンで口にする。
「ジルさんは、客が自殺して、シオリさんを責めたりしないんですか」
「どうして?」
「客を癒す商売なのに、死んだってことは、癒せなかったってことなんじゃないかなって」
 ベルさんはどうして?と首を傾けた状態のまま、少し視線を外して、うーん、とつぶやいた。

「癒せても死ぬやつは死ぬよ。傷が癒えることと、生きていこうと思えることって全然別の話だから。そもそも死にたいやつっていうのは自分の中で説明のつかないことが頭ん中に山積して、ああリセットしたい、って思ってる。世間的には、悩みって、解決すればいいとか、解決できるとか言うけど、絶対に解決しないから」
「解決しない」
 いつもの癖で言葉をこねてしまった。ベルさんはゆっくりとまばたきをしてまた、続ける。
「いなすの。悩みはいなすものだと思うよ。方法は二つあって、ひとつは、納得すること。もう一つは、そこから脱出すること」
「…」
 ああここで何か気の利いたことでも言えればよかった、と思ったときには、ベルさんは次の言葉を口にしている。

「納得するには時間もかかるし、その間にまた悩みが降ってきたら意味ないじゃん。解放されないまま一生が終わる。全部納得してひとつひとつ手放すのは無理。だから、脱出。逃げればいい」
「物理的に悩みのもとから離れるってことですか」
「ううん」
「じゃあ心理的に?」
「まあ、そんなとこ。知りたい?」
「知りたい」

 ベルさんはちいさく笑って立ち上がると、私をこえて向こうにある簡易キッチンの方へ歩いていく。ひらいたカーテンの向こうでは、さっきまで雨だったものがちらほらと雪に変わっていって、不安定に煽られながらゆらゆらと落下していった。
 行ってしまったのと同じ速度で帰ってくると、ベルさんの手には二人分のケーキがあった。

「誰にも知られない、自分だけのきれーな秘密をつくること。それが意味もなく自分を引っ張ってくから」

 俺今日誕生日なんだよね。祝ってよ。と続けて、ベルさんは一皿を私に差し出した。







 誰にも知られない、自分だけの綺麗な秘密をつくる。
 雪をかき分けながら進むタクシーの中は暖かいけれど、ぴったりと閉められたはずの扉から、するりするりと冷気が這ってきて、足元に絡みついている。私にとっての綺麗な秘密は、紛れもなくあの日のことで、それをまるで言い当てられてしまったかのような気分だった。そのとき感じた衝撃を、自分なりに言葉にしてみようと思うけれど、あの日のことを考えても、今日のベルさんのことを想っても、ますます混乱していくばかりで、なにも片付いた気がしなかった。誰にも知られない、自分だけの綺麗な秘密を作る。もう一度心の中で唱えて、私ははっとする。ああきっと、自分だけしか知らない秘密が、その境界線をまたいで、ベルさんにも見えてしまう寸前のところまできている。そのことに対する恐怖心がすべてだと思った。つめたくなったふくらはぎを撫でながら、私は言葉もなくひとつのことを決めた。








 ベルさんが出て行ってしまったあと、飲み干されて空になったコップを手に取り、しばらく眺めたあと、シンクへ持って行った。言葉にすればあっけない。辞めようと思うんですって。ほんとは、仕事なんて決まっていなかった。だって先週決めたことだ。ベルさんは、ここのナンバーワンである私を手放すことに、なんらかの痛みはないんだろうか。この仕事をはじめて4年が経とうとしていた。当時ハタチを少しこえたくらいだった私はもう20代を半分ほど過ぎていて、昔、誰かに言われた「20になればそれから先はあっという間だ」という言葉がかなり真実味をもって迫ってきていた。その場しのぎだった。この仕事はその場しのぎでしかなかったんだ、って、先週から何度も自分に言い聞かせている。だから、私は、その場しのぎじゃない、もっと、生や死や、大切な秘密から遠く離れた、逼迫していない生活を、これから自分で探すのだ。
 さっきのテーブルまで帰ってきて、次は、転がっているおもちゃを手に取った。軽いけれど、弱くはない、まるで赤ちゃんという生き物と同じような態度のそのおもちゃをころころと鳴らす。ベルさんは2年前に結婚して、そろそろ子供が生まれる。一度だけ顔を合わせた奥さんは、びっくりするくらい綺麗で、ベルさんの5歳か6歳くらい年下だった。あの人は当然、ベルさんがジルさんではなくベルさんであるということも、彼が殺し屋であるということも、ぜんぶ、知っているのだろう。私だって知っているくせに、強烈な嫉妬心が今更湧き上がってきて、情けない。ああ、あのときから、私はこうすることを望んでいたのかもしれない。自分の秘密を守るためじゃなくて、彼の秘密を暴きたくなくて、でも暴いてしまいそうで、だから。

 先週から降っては止んでを繰り返す雪を見ている。その中に音が吸い込まれて、いつもよりずっと静かなこの繁華街で、私は、今日が、最後の仕事だ。12月31日の喜怒哀楽を受け止めて、こねて、彼らを癒して、それで終わりだ。今日だけなら頑張れると思った。明日も明後日ももしここで働くとしたら、きっと、お客に全部話してしまうだろう。あなたより寂しいのが私だと。あなたより辛いのが私だと。あなたより頑張っているのが私だって、きっと、嘘でも言ってしまうから、今日が最後で本当によかった。

 最後の仕事は、もうずっと前から予約を入れてくれていた、数年来の常連だった。やめるんです、と話すと、しばらくの沈黙のあと、そうかい、じゃあ俺も、これからは自分だけで元気にならなくちゃね、と言った。他の子はまだいるんですよ、と言っても、いいや、君がよかったんだよ。と、いつもの静かな声で喋って、私の手を握った。テーブルの上に置かれた淡いランプが、その横にある私と彼の手をじんわりと照らしていた。私がよかったのか。そう心の中でつぶやくと、涙がじわりと浮かんできて、それは止めようもなく頬を流れた。でも、こんなに薄暗い室内では、私のほんのちょっぴりの涙はばれない。だから、私の涙が彼に知られないように、彼が泣いていたとしても、私にはわからない。はじめて触れた彼の手はとてもあたたかくて、いろんな気持ちがこもっていて、きっと彼も泣いていて、しばらく私たちは黙ったまま手を握り合っていた。





 ぱち、と電気をつける。途端に部屋の輪郭がはっきりと起きてきて、いつものように仕事の終わりを実感する。営業中必ず消したままの部屋の電気は、閉店後に数十分間だけ点けられて、綺麗に掃除され、また、消される。仕事を辞めると決めた日から少しづつ片付けをしていたおかげで、もう部屋の中は人の気配なんてどこにもない。無意味に、綺麗な机を拭いたらもうやることがなくなってしまった。傍に置いたままの鞄を肩にかけて、部屋を出る。
 と、と、と、と階段を下っていく。ここのエレベーターは本当にぽんこつで、ゆっくりとしか動かないしなんだか不安定な感じがする。いつ壊れて5階から落下するかわからないので、私は4年間、ずっとこの階段を上り下りし続けた。4階まで降りたところで、ふと、左を見遣る。
 永久欠番の部屋は4階のCという部屋だ。一番奥にある秘密の部屋。嬢たちは、そこが「永久欠番の部屋だ」ということ以上を知らない。それは、きっとその部屋に隠されているものが、ベルさんにとっての「誰にも知られない、自分だけの綺麗な秘密」だからなのだろう。
 私は、引き寄せられるように4階の廊下を進んでいく。今日働いているのは、5階の私と4階のAの子だけだった。まずAの扉に耳をそばだてて、もう誰もいないことを確認すると、ゆっくり、ゆっくりと歩いて、Cの方へ向かう。
 廊下の突き当たりには、蔦の這うようなデザインの鉄格子のついた窓があって、そこから流れてくる冷気がすさまじい。内ボアのブーツを履いていてもその気配が感じられる。一歩一歩と近づくたびに、自分の中から現実感が剥がれていきつつ、五感は加速度的に冴え渡る。ぴんと貼られた感情の琴線に、容赦なくいろんな刺激が与えられていく。近づいてどうするのだろう。私は私に問いかけるけれど、答えは返ってこない。
 いよいよ扉の前に立って、まるで自動で動く人形みたいな心地でドアノブに触れる。閉まっていると思っていたのに、その扉は簡単に開いてしまった。

 そこには当然のようにベルさんがいた。

「寒いだろ。ここ」
 他の部屋と同じテーブルと二脚の椅子が真ん中に佇んでいる。ベルさんはそのうちのひとつに腰掛けて、私に背を向け、窓を見つめたままそう言った。
「エアコン壊れたままなんだよね。普段使うわけじゃないし、いいかなって思ってたけど、やっぱ寒すぎ」
 ベルさんも私と同じように、まるでこれから外へ出かけるかのようにしっかりと着込んでいる。
「…なんか喋ってよ」
 そう言って、振り返ったベルさんの目元はよく見えない。

「…今まで、ありがとうございました」
「しし、それだけ? お礼言うためにここに来たとは思えないけど」
「…」
「…」
「ジルさんは、」
 言いかけて、この部屋ではそれが不正解であることを思い、言い直した。
「…ベルさんは、どうしてここに?」

 ベルさんはひとつ、身じろぎをして、窓から目を逸らした。

「俺のこと知ってんだ」
「知ってました、ごめんなさい」
「だからここに?」
「そういうわけじゃないです」

 私は鞄を肩から下ろして右手に下げたまま、空いているほうの椅子を引いた。

「座ってもいいですか」
「うん」

 座ると、木の冷たさが洋服越しに伝わってくる。ここは本当に寒い。

「ベルさん」
「なに?」
「私、ベルさんは、実は全部知ってるのかもしれないって思ってました」
「たとえば、どんなこと?」
「たとえば」

 そんなにすらすらと言えたことじゃない。膝に乗せたままの鞄をぎゅっと抱き締める。

「私の両親はベルさんに殺されたってこととか」
「うん」
「あれからずっと私が自殺未遂を繰り返してたこととか」
「うん」
「…」
「…」
「ベルさんが私を拾った日から、私がずっとあなたを好きだったこと、とか、」

 言葉の内容とは裏腹に、私の声がどんどん色や温度を失っていく。

「ベルさん」
「ん?」
「ベルさんの、誰にも知られない綺麗な秘密は、この部屋のことだったんですね」

 ベルさんは返事をしない代わりに、浅く浅く笑った。そして口を開く。

「この商売を始めたのは、お前を拾う1年くらい前のことでさ」
「はい」
「その1年前、ここで」
「ここで?」
「…ここで、俺は最後の人殺しをしたんだよ」

「ボスを殺したんだ。強くてかっこいいボスのこと尊敬してたし、大好きだったんだ。でも、あの日から、どんどん弱くなってくボスを見てらんなくて。それで任務帰りにボロボロになってるボスを見てたら、なんだよこんなのって思うような怒りと、悲しさとか、つらさとか、寂しさとか、全部我慢ならなくなって、もういっそ俺が殺してやったほうがいいんじゃないかって、なって」
「好きなのに」
「大好きなのに」
「あの日、に、何かがあったの?」
「そう。いろんなことがいっぺんに起きて、起きすぎて。もう覚えてない」
「…」
「なんで分かったのか知らないけど、途中からみんな駆けつけてきてさ。俺を止めようとすんの。無理じゃん。そんなの。俺強いし。だからボスと道連れにしてみんな殺したよ。スクアーロだけ死にかけながらどっか逃げたけど、それ以来会ってない」
「スクアーロ?」
「うん。あいつは死んでも生き返るようなやつだから。殺し損ねた」

 ベルさんはそう言いながら、寒そうに肩をすぼめる。

「星は燃え尽きる前に一番輝くって言ったじゃん、お前に」
「うん」
「俺は多分、そんときに一番輝いたんだろうなって思ってる」
「大好きな人を殺した日」
「うん。ていうより、あの日からずっと転がり落ち続けてるから」

 私はてっきり、この「永久欠番」の部屋にかつていた嬢のことを指して「転がり落ちる」と言っているのかと思っていた。自殺か何かをしたのかと。まさか本人のことを言っていたなんて。

「もう人殺しはしない。俺より強くてかっこいいボスがいたから俺はヴァリアーにいたんだよ。でももういない。俺が殺せるほど簡単で弱い人間しかいなくなった」
「でも、その日のことがベルさんを生かしていたんでしょう?」

 自分だけの綺麗な秘密として。そう言うと、ベルさんは、はああああ、と大きく息を吐いて勢いよく体を反らし背もたれに寄りかかった。

「そうなんだよね。うん、そう」
「…」
「忘れらんない。圧倒的に悪い意味で。だからこそ死ぬつもりはないし、こうやって仕事してる」
「…そうか」
「ん?」
「綺麗な秘密は、いいことじゃなくても、いいのか」

 私が自分の掌の上にだけ落っことしたつもりのその言葉は、ベルさんの耳にもしっかりと届いていたようで、ベルさんはまるで父親が娘の成長を心から喜ぶみたいな声で、そうだよ、と笑った。

「お前が何度も死のうとしてるのはなんとなく分かってたよ。そういう奴は見た感じで分かるし。でも俺が起因だったとは思ってなかった」
「私も今でも信じられない」
「謝ったほうがいい?」
「やめてください。もっと虚しくなるだけ」
「うん」
「…」
「…」
「ベルさん」
「なに?」

 光が自分のほうだけ見ているような気がすることって、ありますか?










 雪の中を重たそうにタクシーが走っていく。力任せに窓の雪を左右へ押し捨てるワイパーのぐんぐんという音と、ウィンカーのコツコツという音が車内に響く。4年間、見慣れた景色を私は見るともなく見ながら、大晦日の誰もいない空気を窓越しに吸い込んだ。あしたのことを考えようと思った。正確には、あしたからのことを。
 ベルさんは、私の質問に、あるよ。と一言、答えた。そしてかみしめるようにもう一度、俺にも、あるよ。と言った。その声は、私が拾われた日に唯一耳にした、あの透明で胸に響くような真剣な声と同じ色をしていた。私は今、一番輝いているだろうか。それとも、ベルさんの言うように、もう既に転がり落ち始めているのだろうか。タクシーが速度を上げていく。今、この胸の中にあるものに、どうしても名前をつけることができない。これから、私はまた新しい秘密をつくらなければならない。ベルさんに話してしまったから、もう私だけの光ではないから。けれど、ずっと私の心臓を覆っていたあの日の光は、どうしてだか、今、さらに輝きを増して、私の心を温めている。今、今、私は、とてもすがすがしく、苦しい気持ちに溢れて、身動きが取れない。それでもあしたからのことを考えたいと思った。これから、私は、また新しい秘密をつくる。誰にも話せない、生々しくて、独りよがりな秘密をつくる。それが私を生かしていく。明日へ連れていく。これから。私はきっと忘れない。あなたのことを忘れない。けれど、きっと思い出すこともない。星は光る。墜落していくあなたの光はもうすぐ私の心の中から失われる。これから。砕けてからもう一度形になった私の感情は、きっと死ぬまで私がここで見たことや聞いたことを、私の代わりに覚えているだろう。時計の針が12時を指して、今、あたらしい年が始まる。これから。
 



これから
20161224 h.niwasaki